中沢新一『精霊の王』

世阿弥の娘聟、金春禅竹が著した著書で昭和39年に見つかった『明宿集』を中沢新一氏が民族学文化人類学、哲学などの視点を交えて解読したもの。ものすごく面白かった。

以前、『能を読む』(角川学芸出版)の元雅・禅竹編を読んだ時、中沢新一氏の禅竹に関するエッセイが面白く、またそのエッセイの中で、中沢氏が自著『精霊の王』から引いた禅竹の『明宿集』の抜粋を付けており、それが非常に興味深く、是非『精霊の王』を読んでみたいと思い、そのままになっていた。

ところが、去る7月の国立能楽堂の普及公演での松岡心平先生の禅竹の話が面白く、やはり『精霊の王』を読まなくちゃと思い、読んでみた。

『精霊の王』の中で中沢氏は、柳田国男の『石神問答』や折口信夫の『翁の発生』などをはじめとする民俗学の知見や、文化人類学、西洋哲学といった知識を駆使して『明宿集』で意図するところを明らかにしようとしている。その道筋がスリリングで、息をもつかせぬ面白さなのだ。

『精霊の王』の中心テーマは「翁」=「宿(石)神(シャクジ)」なのだけど、その「宿神」のルーツは、なんと新石器時代までさかのぼってしまうのだ。すごい。日本は「文字が成立する頃」≒「仏教移入の頃」なので、説話好きとしては、仏教の影響を受ける以前の日本(その時代を「日本」と言っちゃっていいかはおいておくとして)にあった伝説はどんなものだったのだろうと想像したりするけれども、この本では縄文土器から文字の無い時代にあった神話を探った人の話なんかも出てきたりするのだ。わくわくしてしまう。

そして、そういった知識を縦横無尽に駆使して全く新しい方向から禅竹の『明宿集』の価値を照らし出した中沢氏も、中世という時代にこのような思考の高みに到達した禅竹も、どちらもすごい人たちなのでした。

最近お亡くなりになった能楽研究の大御所であった表章先生などは「禅竹は不合理」と言ったとか言わないとか。能楽の最新研究を知り尽くした立場の人でさえも、決して21世紀の今に生きる人間の常識からは逃れることができず、中世に生きた人々の考えたことを読み間違えることがあるかもしれない、というエピソードであるように思う。昔の人の考えたことで荒唐無稽に感じることは、何かしら今の私たちからは容易に想像できない思想的背景や事実が隠されていると思った方が楽しいし、実際そうなのだろう。


目からウロコなエピソードが満載だけど、私が不思議に思っていたことで『精霊の王』で明らかになったことのひとつは、「高砂」の後シテの住吉明神について。

5月に国立能楽堂の普及公演で金剛流の宇高道成師の「高砂」を観たとき、後シテの住吉明神の面がよく使われる「邯鄲男」などではなく、「神躰(しんたい)」というべしみのような面立ちのものだった。「弓八幡」でも使われるような神威の高い神を表す面ということだが、荒神・軍神という印象を受けた。通成師も、威風堂々とした舞だったのだが、なぜ、和歌の守護神である住吉明神でこのような面を使う演出があるのか、興味深かった。

ところが、『精霊の王』の中で、

そうなると住吉や諏訪の神は戦争の神でもあるという思考が生まれてもおかしくないことになるが、事実、神功皇后が海外に向けておこした軍事行動の最後に、住吉と諏訪の両明神は力づよい軍事神となって、皇后の行動を援助したと『日本書紀』には記録されている。

とあった。つまり住吉明神は和歌の神であるだけでなく、軍神でもあったのだ。したがって、あの「神躰」の面で威風堂々と舞うという演出は、住吉明神が和歌の神であるだけでなく、軍神であるという理解から生まれたものだろうと思った。

また、浄瑠璃の『本朝廿四孝』では、上杉家が武田家重代の家宝、諏訪明神の「諏訪法性の兜」を借りっぱなしにして仲違いするという話が発端で、何故、そんなのいつまでも借りてんだ、と思っていた。しかし、上記の通り、諏訪明神も軍神だ。「諏訪法性の兜」の「法性」というのは、全ての存在や現象の真の本性という意味だそうだから、その兜は諏訪明神の象徴とか依代などと考えられていたのだろう。だから上杉家と武田家は諏訪法性の兜を巡って諍いをするという理屈が成り立つのだ。

そして、禅竹によれば住吉明神諏訪明神も宿神(=翁)が顕現した姿なのだ。一見、荒唐無稽な説のように思われるけど、能楽の芸論と思えば確かに不合理なものの、文化人類学的に、記号論的に、精神分析的に解釈すれば、全然アリだ。多分、禅竹は能楽を芸能の枠よりずっと高い視点から見ていたに違いない。

久々にまた民俗学の本などを読んだり、翁や三番叟が観たくなってしまう本でした。