国立劇場小劇場 文楽五月公演 第二部 北條秀司十三回忌追善「狐と笛吹き」

今回、この曲を聴いて、改めて義太夫節(この場合、太夫と三味線は均等に比重をかけた意味でお願いします)というものが、如何に大きな可能性を持った音曲のジャンルであるかということに気がつかされた。


聞き取った限りでは、新歌舞伎のような詞章だが、義太夫節の唱法や演奏法、作曲技法等の方法論が確固としているだけで無く、演奏者の能力も非常に高いため、たかだか言葉遣いが変わったぐらいでは、義太夫節というフォーマットはびくともしない。そういう意味で、実は、文楽は、歌舞伎以上に冒険的なことが出来る可能性があるのではないかという気がした。


また、作曲もすばらしかった。四世清六という人はいうまでも無いが、本当に天才だ。殊に三味線と琴のアンサンブルになるところは、清治師匠と清志郎さんという弾き手を得て、言葉では言い表せない程の美しい音楽となった。また、呂勢大夫と清治師匠のパート、最後の道行+新口村のような個所の太夫の斉唱と三味線のユニゾンも、深く心を動かされるものだった。


考えてみれば、江戸時代より無数の人々が様々なテクニックを模索してきた遺産の上に立つ現在の方が唱法や演奏法は発達しているはずで、今の一流の奏者が作曲した曲は、現代の観客の嗜好により合致した曲となる可能性も高いはずだ。

そのような意味でも、今後、年に一度でも、二年に一度でいいので、新作を作って欲しいと思った。


更に欲をいえば、もっとあっと驚くような企画を考えて欲しい。国立劇場だからといって、地味な企画ばかり、百年一日の如く作らなければならないのは、観客だけでなく、技芸員にとっても職員にとっても不幸なはずだ。歌舞伎における野田秀樹蜷川幸雄三谷幸喜等のように、当代一流の演出家とのコラボレーションをするといった試みは、何かしてはいけない理由でもあるのだろうか?もし、面白いものが観れるなら、私自身は歌舞伎座一等席ぐらいの価格なら、全然文句は無い。こんなに素晴らしい可能性をもつ義太夫節を古色蒼然とした存在にしてしまうのは、あまりにもったいなさすぎる。などと、様々なことを考えてしまった。