勧進帳と東大寺

平家物語の巻五に「奈良炎上」という話がある。

時は治承24年(1180年)十二月、奈良の人々が多数蜂起し、大きな球丁(ぎっちょう:板で打って遊ぶためのボール)を作って、「これは入道相国(平清盛)の頭だ」といって、よってたかって「打て!」「踏め!」などと騒いでた。


入道相国はそれを聞いて怒り、あの「俊寛」に出て来る腹心、瀬尾太郎兼康を遣わす。瀬尾は丸腰で人々が歯向かっても武器を向けないよう指示されていたが、そんなこととは知らない奈良の人々に捕らえられ、部下達共々、首を切られて猿沢の池の傍に首を架け並べられた。


それを知った入道相国は更に激怒。「南都を攻めよ」と命じて、頭中将重衡(しげひら)、中宮亮通盛(すけみちひら)を遣わし、南都を焼討ちにした。その時、聖武天皇建立で盧舎那仏(大仏様)を本尊とする東大寺も焼失する。その有様は、「我朝は言ふに及ばず、天竺、震旦にも、これ程の法滅あるべしともおもへず」とすさまじいものだった。


…あー、長かった!で、ここからやっと本題です。


勧進帳で弁慶は、自分達のことを東大寺勧進をしている山伏と言うが、考えてみれば、この勧進は焼討ちにあった東大寺のためのものを指していたのだ。恐らくこの焼討ちは信仰深い中世の人々に大きな衝撃を与えたろうし、当時、多くの勧進僧が諸国をまわっていただろうから、関所を突破するにはうってつけの口実だったに違いない(この安宅の関のエピソードが史実かどうかは別として)。


…のだが、先日観た四月の文楽公演の勧進帳の床本をつらつら眺めてみてみると、「東大寺」という言葉は出てこない。勧進帳の読み上げで「聖武皇帝(天皇)」「盧舎那仏」という言葉が出て来るので東大寺ということが知れる、という形だ。


面白いので、お能や歌舞伎も調べてみると、お能の「安宅」では、「これは南都東大寺建立の為に。国々へ客僧をつかはされ候」と言っている。歌舞伎では、「これは南都東大寺建立の為に国々へ客僧を遣はする」と、お能に忠実。さらに、本説の「義経記」をみると、「是は東大寺勧進の山伏にて候」と、はっきりいっている。


という具合に、文楽だけ違うことに気が付いた。これだけでなく、こと勧進帳に関しては、お能と歌舞伎は比較的近い位置にあるけど、文楽はこの二つとの相違点が結構多い。文楽勧進帳が一番遅く成立したが、どのような事情で、他の二つとは別の演出を多く採用することになったのか、興味が尽きない。