東京国立博物館 東大寺大仏 天平の至宝

光明皇后1250年御遠忌記念
特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」 平成館  2010年10月8日(金)〜12月12日(日)
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=7812


前に同じ東博興福寺展があった時は、それはもう恐ろしい混み様だったので、東大寺展は混まないうちに行かなければ…と思って行ってみたら、全然空いていた。東大寺よ、ご近所の、しかも藤原氏の氏寺なる興福寺ばらにかくのごとく差を付けられ、いかでか奈良に帰らむ?とゆーか、みんなどうしてそんなに興福寺の阿修羅像が好きなんだろう?そりゃ確かにカワイイことはカワイイけど。

私はどちらかの味方をせよと言われたら、絶対に東大寺派。なぜなら、東大寺建立の御願を立てた聖武天皇光明皇后は日本を仏教の仁徳で治めようとした素晴らしい人達だし、大好きな万葉歌人大伴家持は当時は越中にいたけど橘諸兄と共に東大寺建立に尽力したし、文楽・歌舞伎の「良弁杉由来」に出てくる良弁上人も東大寺建立に尽力して初代の別当になった人だし、修二会(お水取り)があるのは東大寺だし、お能の「安宅」や歌舞伎・文楽の「勧進帳」に出てくる弁慶の見せ場、「勧進帳読み上げ」に出てくるのは、東大寺盧舎那仏(=大仏様)の御堂再建のための資金集めというお話だし、これもまた大好きな明恵上人も若い頃は東大寺華厳経を学んだ人だし…と、いくらでも味方する理由を挙げることが出来る。それに、今回の展示は天平時代のものが沢山展示されていて本当に面白いのに。展示品より来場者の少なさの方が気になってしまった展示でした。

以下、私が気に入ったもの。


法華堂屋根瓦(14個 奈良時代・8世紀 奈良・東大寺蔵 )

東大寺の法華堂(三月堂)の屋根瓦ではあるが、恭仁京の文字瓦と同じものだという。恭仁京といえば、私の大好きな大伴家持は、20代の頃、聖武天皇の命を受けて恭仁京の建設に励んでいたのだった。1200年以上前に生きた家持もこれと同種の瓦を見たのかも知れないなどと思う。そして、実はこれらの瓦にはスタンプで寄進者の名前が刻印されている。「中臣」「東大」「神人」等等とあるなかで、「大伴」と刻印された瓦もあった。家持達が寄進した瓦を見ているのだと思うと、うれしさと共に、一瞬、奈良時代にタイムスリップしてしまいそうな気がする。


誕生釈迦仏立像及び灌仏盤(国宝、1躯 奈良時代・8世紀 奈良・東大寺蔵)

誕生釈迦仏立像も良いのだけど、灌仏盤に施された線刻が素晴らしい。仙人や麒麟、獅子、唐子、草花等々が描かれている。古写経では奈良時代の書風や平安時代の書風が認められると、先日、五島美術館の講演で聞いたが、絵にも確かに奈良時代の画風や平安時代の画風があるように思う。この灌仏盤の線刻は今まで見たことのある奈良時代や平安前期の絵の特徴とよく似ている。


伎楽面(重文、奈良時代・8世紀 奈良・東大寺蔵)

古典芸能が好きなので、どうしても伎楽面は気になってしまう。東博法隆寺宝物館にも伎楽面はあるけれども、東大寺所蔵の伎楽面の方は彩色もかなり残っているし、造形も力強くいきいきとしている。どちらかというと仁王像などの仏像に似ていて(多分、彫刻したのも仏師に違いない)能面や狂言面にはあまり似ていないが、敢えて言えば、能面の悪尉や狂言面の武悪などはこの伎楽面の系統に近い気がする。


良弁僧正坐像(国宝、1躯 平安時代・9世紀 奈良・東大寺蔵)

文楽や歌舞伎の「良弁杉由来」に出てくる柔和で純粋な心を持つ良弁上人とはかなり感じが違う。角張った顔立ちに鋭い目、ぎゅっと結んだ唇からは鉄の意思の持ち主という印象を受ける。東大寺建立のための資金を広く集めたり、初代別当になるくらいの人なので、やはり、本物はこんな顔立ちだったのかも。


天平古裂(奈良時代・8世紀 奈良・東大寺蔵)

絹や羅という薄い布地、技巧を凝らした染色、繊細な刺繍等、想像していたよりずっと高度な技術が用いられていて驚く。唐の時代や奈良時代の絵や彫刻の吉祥天女等の身につけている風になびく薄くて柔らかな布地は想像の産物かと思っていたけど、実在したのだろう。そういえば、会場を出たところで、京博の「高僧と袈裟」の特別展のポスターを見つけた。「文様を見つけると何の文様か言い当てないと気が済まない症候群」の私にとっては垂涎の展示。行こうか行くまいか…。


ヴァーチャル・リアリティ・シアター

東大寺の大仏をヴァーチャル・リアリティの映像で見ることが出来る。作り物っぽい質感が残っていることは否めないけど、普通に現地で見学する場合には有り得ない角度から(仏像の顔と同じ高さからとか)仏像をみることが出来るのが面白い。
映像の最後には、創建当時の東大寺のバーチャル映像が出てくる。東大寺建立は当初、大伴家持が慕っていた橘諸兄らが主体となって始まったプロジェクトだったが、その後、橘諸兄のライバルである藤原仲麻呂が反対勢力として台頭し、大仏建立の頃には、仲麻呂が立役者となっていた。長く越中守をしていた大伴家持東大寺大仏開眼供養の頃は奈良のみやこに戻っていたはずで、この大伽藍で執り行なわれた開眼供養も見たかもしれない。家持は東大寺や大仏を見ながら、聖武天皇の御願から大仏開眼までの道のりをどんな風に思い返していたのだろうと思うと、ちょっと切なくなる。