東京国立近代美術館 上村松園展

東京国立近代美術館 上村松園
2010年9月7日(火)〜10月17日(日)
http://www.momat.go.jp/Honkan/uemura_shoen_2010/index.html#artistinfo

もう終わってしまったけど、近美の上村松園展について。

正直なところ、私は日本画で好きなのはせいぜい琳派尾形光琳(1658年-1716年)ぐらいまでで、それ以降の画家の作品はあまり興味がない。なので、当然、上村松園もあまり好きではなかった。

なぜ光琳以降の日本画にあまり興味が無いかというと、光琳ぐらいまでの画家とそれ以降の画家の絵は、過去の様式の継承ということと個性の発露という点において、大きく変わってきてしまっている気がするからだ。「過去の様式の継承」と単純化して言ってしまっているけれども、具体的には粉本の参照や過去の絵巻や障壁画、屏風図等からの引用、和歌や歌物語をベースとした画題の継承、それに特定の画題で慣習的に用いる構図の踏襲等といった日本画の伝統的な手法等だ。古典芸能の用語を援用して「型」と言ってもいいような気がする。ほんとうに大雑把に言い切ってしまうと、光琳以降の画家の絵は「型」と「個性」の比重が逆転しており、私にとって日本画の特質であり美点と思われる「型」が光琳より後の世代の画家達には段々と顧みられなくなってくることが、私にとってはあまり面白くないのだ。

日本画の「型」には目に見える「形」と共に意味や何らかの精神でさえも宿っている。「型」を重視した作品というのは、「型」を尊重し継承しつつも絶妙なバランスで画家の個性が付加され、全体の表現となっているというところに心惹かれる。そのような表現はその場かぎりの表現でありながら、「型」を通じて過去に様々な形で表現されてきたものを重ね、また逆に過去の様々な試みから雑味が削ぎ落とされ洗練されることでより深い表現になるように思う。そこでは過去の様々な画家と、今、この絵を描いている画家の間の自他の区別―個性の主張―が曖昧で、絵に継時的な奥行きを与えている。

このようなことは、私のように生半可な見方をしているような者には直感的に「そのような気がする」という程度のことしか言えないけれども、その分野に造詣の深い人であれば「型」の背後にあるものを理解し、もっと立体的に評価することが出来るのではないだろうに。思い起こせば一見個性的な俵屋宗達は彼の多くの作品は、ポピュラーなテーマについて、過去に作られた絵巻等から引いた人物やモチーフを彼一流のセンスで鮮やかに意味の転換を図ることで創り出されたものだ。これはある意味、多くの画家が行う一連の作業ではあるけれども、「どのように」という部分において、宗達の過去の様々な絵や画題に対する深い理解や過去の作品を再現する高い技術が他の画家の絵との違いを生み出し、その作品を名品にしているのだと思う。反面、そのような方法で制作された作品は、合わせ鏡を覗き込んだ時に垣間見える、どこまでも再生産される像のような不気味さも内在させていて、そのような世界に安住出来ない強烈な個性の持ち主が岩佐又兵衛だったということなのだろう。

そういう視点から江戸後期以降の絵を観ると、どうしても「型」が形骸化され文字通り「形ばかり」であったり、個性の発露の方がより大きくなって相対的に過去との繋がりの薄まった割には、西洋画ほどのoriginalityやuniqunessを感じることが出来ない。そこのところが、多分私があまり興味を持てない理由なのだと思う。


話が大きくずれてしまったが、そのような観点から、どうしても近代の日本画の画家は一部の巨匠を除いてあまり興味が持てない。そういう意味で、上村松園も、それほど好きな画風の画家ではないのだけども、一面、彼女の絵に対するアプローチには尊敬の念を抱かざるを得ない。なぜなら、彼女は西洋画や西洋の個人主義の影響を受けた他の画家とは異なり、日本の古典や謡曲浄瑠璃、浮世絵等に絵のテーマや範を求めたからだ。

明治8年(1875)に生まれ、昭和24年(1949)に亡くなった上村松園は、もはや江戸時代の絵師のような「型」を重視して個性を埋没させた絵を書くことは出来なかったろし、明治時代以降の西洋化・近代化の波に晒されながら、時代に逆行するかのような方向性を追求するということは並大抵のことではなかったに違いない。実際、彼女のエッセイの『青眉抄』では、彼女が如何に強い自己を持つ女性かということが文面ににじみ出ている。

彼女が強く理知的な女性であることは絵を見ても推し量ることができる。古典や謡曲浄瑠璃に範をとった絵では、六条御息所を描いた「」(1918(大正7)年、東京国立博物館)、静御前が鎌倉側に捉えられ、舞を舞うよう所望され「しずやしず しずのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」と詠った場面を描いた「」(1944(昭和19)年、東京国立近代美術館)、お能の「花筐」の照日の前を描いた「花がたみ」(1915(大正4)年、松伯美術館)、浄瑠璃の「生写朝顔日記」の主人公で別れ別れになってしまった恋人を追って盲目になってしまう深雪を描いた「娘深雪」(1914(大正3)年、足立美術館)、一条天皇のもとに出仕して間もない伊勢大輔が奈良から献上された八重桜について歌を詠むように言われ百人一首に採られた歌「いにしえの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほいぬるかな」を詠んで評判をとったという有名なエピソードを描いた「伊勢大輔」(1929(昭和4)年)、清少納言が定子に「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」と問われてその意味を察しさっと御簾を上げたという場面を描いた「清女褰簾之図」(1895(明治28)年、財団法人北野美術館)等、松園は強い情念を持つ女性や聡明な女性を好んで描いている。特に「花がたみ」に描かれた照日の前は、狂女となり哀しみのあまりに我を失う姿はどきっとさせられるその旨を知らせる。お能の「花筐」では、大迹皇子が継体天皇となって皇位を継承することとなって都にのぼり、寵愛した照日の前には玉章(手紙)でその旨を伝える。残された照日の前は、哀しみのあまり物狂いとなって都にのぼり、偶然紅葉狩の御幸の途中であった継体天皇と再開する。継体天皇は照日の前に形見として渡した花筐を見てその狂女が照日の前自身だと知り、彼女を再度召し使うこととなり彼女を伴って戻っていく。上村松園の「花がたみ」の絵は継体天皇と別れ、継体天皇の残した玉章と花筐だけを頼りにさまよい歩く姿なのだと思うが、この後、継体天皇が照日の前に会って、果たして継体天皇が以前のように変わらず照日の前のことを思うのかどうか、心配になるほど虚ろな表情だ。確かに謡曲でも最後は「御玉章の恨を忘れ。狂気を止めよ本の如く。召し使はんとの宣旨なり。」としか書かれておらず、その後どうなったのかはよく分からない。「花筐」はハッピーエンドという解釈が一般的なようだが、この上村松園の絵は悲劇を予感させるような不気味さが漂う絵だ。

一方で、彼女が愛したものも、絵から垣間見ることが出来る。それは、何枚も描かれた赤ちゃんを抱く女性達、障子貼り、針仕事等を黙々とこなす女性達、しとしとと降る雨の中傘をさす女性たち、背後が透けて見える繊細な簾越しに外をみる女性等に見える、古きよき日本の情景だ。「御簾のかげ」(1929(昭和4)年頃、財団法人 セゾン現代美術館)の中の簾には秋草の絵が描かれており、ふと子供の頃、夏休みに行った祖父母の家にも同じように秋草が描かれた青々として透けて見える簾があったことを思い出した。簾は縁側の廊下と部屋の間に垂れ下がっていて、縁側では私より5才年上の従兄弟のY兄さんが、私たち姉弟に面白おかしい話をしてくれたり、一風変わった遊びを教えてくれたりした。私たち姉弟は久々に訪れたという緊張のせいで、最初は借りてきた猫のようにおとなしくしているのだけど、Y兄さんの面白い話やゲームにつられて、そのうちけらけらと笑って楽しく過ごしたものだった。今から考えるとY兄さんは一人っ子だし私の記憶にあるY兄さんは既に中学生だったので、私たち姉弟にしてくれたようなことを日頃もしていたとは思えず、恐らく私たち姉弟を喜ばそうと前もって色々考えてくれたに違いない。その青々とした簾の絵を見て、今更そんなことに気がついたりした。松園の絵には、そんなノスタルジックな気持ちにさせられるところがある。