謡曲「東北」と光琳の「紅白梅図屏風」

MOA美術館所蔵、尾形光琳の「紅白梅図屏風」(国宝)は、能の「東北」をテーマとしているそうだ。「細見コレクション 琳派にみる能」の図録に寄稿されている河野元昭先生によれば、弘前藩の五代当主津軽信寿の息子、信興と近衛家の当主家熙の娘(養女)が享保元年(1716)の結婚に際して、献上されたものではないかという。

確かに、家熙と光琳の繋がりがどの程度だったのかはよく分からないものの、光琳が家熙の娘の結婚に際してお祝いの品を送ったり婚礼の調度品の発注を受ける程度の接点があったことは確実なように思う。家熙は光琳と同時代の人であるし(光琳の方が九歳年上)、近衛家熙は後に光琳の弟子である渡辺始興と光悦、宗達のようなコラボレーションを行っている。また、新郎の父、津軽信寿は大変な能好きで書画もよくしたそうなので、光琳からの謡曲を題材とした屏風などといえば、殊の外喜んだであろうことも想像に難くない。

もうひとつ、有名なことだけれども、光琳の能好きも筋金入りで、確か十代の初め頃、装束付け(曲毎のコスチュームを記したもの)を百番近く写した書付も残っていたはずだし(小西家文書。装束付けというところがさすが雁金屋の御曹司!)、父の遺言状には光琳に能道具一式を遺すとある。また、光琳が画業を始めるに当たっては伺候していた二条綱平のバックアップがあったが、その二条綱平も能をよくし、光琳を連れて能会に行ったり、新年の謡初めなどに光琳を呼んでいる。そして、河野先生の記事によれば、「二条綱平公記」には、正徳四年(1714)正月二十日、綱平邸での謡始めで光琳が「東北」を舞っているという記載があるのだという(この時、光琳は五十七歳)。津軽信興と家煕の娘の結婚の年の二年前で、光琳が屏風を贈る話が出たときに、おめでたい曲とされる「東北」を思い起こしたとしても、全く違和感はない。


ちなみに、謡曲「東北」に描かれている風景は、

所は九重の。東北の霊地にて。王城の鬼門を守りつゝ。悪魔を払ふ雲水の。水上は山陰の賀茂川やすゑしら河の波風も。いさぎよき響は常楽の縁をなすとかや。庭には。池水をたゝへつゝ。
(中略)
春の夜の。闇はあやなし梅の花。色こそ見えね。香やは隠るゝ香やは隠るゝ。

というもの。「紅白梅図屏風」の中央の急激に川幅を増す流れは、賀茂川の水が庭に流れ入り池を作っている様子。水の色が暗いのは夜の闇を表している。紅白の梅が若木と老木のように見えるのは、謡曲「東北」の中で語られる陰陽のアナロジーなかもしれない。そして紅白はハレの日を祝うための配色でもあるのかも。


こうしてみてみると、「紅白梅図屏風」は「東北」の世界を描いたもので、津軽家の婚礼祝いの品ということで決着が付きそうだけど、ひとつだけ重大な問題が。というのも、ご存知のように、「紅白梅図屏風」は、2003年の蛍光X線等を使った調査で金箔に見えるところは金箔を使っておらず有機塗料に薄く金泥を混ぜて表現していると言われる。つまり、もし婚礼のお祝いの品である場合、そんな物を製作するとき金箔をケチるか、という問題が出てくる。それとも水墨画程度の料金しかもらってなかったけれども遊び心で金箔を貼ったかのような絵を描いたとか…。あああ、どーゆーこと?


折りしも、MOA美術館では「紅白梅図屏風」の展示が行われているし、まだ幾つか「東北」が舞われる機会もあるようだし、私にとって今年の冬は「紅白梅図屏風」と「東北」が気になる冬なのです。