国立能楽堂 定例公演 文蔵 東北

定例公演  文蔵 東北
狂言 文蔵(ぶんぞう) 山本則俊(大蔵流
能  東北(とうぼく) 梅田邦久(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2512.html

先日の普及公演「野守」に引き続き、「寅」つながりの「東北」(東北は丑寅なので)。尾形光琳の国宝、「紅白梅屏風図」は、この「東北」をテーマにしているとか。


狂言 文蔵(ぶんぞう) 山本則俊(大蔵流

京の見物にいった太郎冠者(山本則重師)。ついでに主(山本則俊師)の伯父のところにも寄って御馳走になったという。しかし、太郎冠者は出された食べ物の名前を思い出せない。主は食べ物の名前を色々挙げてみるが一向に当たらない。すると太郎冠者が、主が読んでいる石橋山の合戦の中に出てくるという。そこで主は物語を語り始めるが…というお話。

この話の見せ場は主の語り(源平盛衰記とのこと)。ただし、パンフレットの解説のお陰で最初の方こそ話についていったが、石橋山の敗戦のモノローグになると、もう集中力が続かなかった。修行が足らん!


能  東北(とうぼく) 梅田邦久(観世流

東国の僧(工藤和哉師)が都を見ようと上京してくる。都に到着すると美しい梅を見つけた僧は、所の者(山本則秀師)に、この花のことを問う。所の者は、それは「和泉式部」という名前の梅であるという。しばらく眺めていると、女(梅田邦久師)が橋掛リから現れて、梅の花の別名は、「好文木(こうぶんぼく)」「鶯宿梅」というのだという。大辞林によると、「好文木」というのは、晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に由来する別名だという。また、「鶯宿梅」というのは、村上天皇の御時、清涼殿の梅が枯れたので、紀貫之の娘、紀内侍(きのないし)の家の梅を移し植えさせたところ、枝に「勅なればいともかしこし鶯(うぐいす)の宿はと問はばいかが答へむ」の歌が結び付けてあり、これを読んだ天皇は深く恥じたという故事から来ているという。そういえば、去年11月に拝見した毛越寺の延年の能「留鳥」は、シテは翁(実は菅原道真)だったが、鶯の宿る梅を帝が所望するというお話で、「召しあれば、梅は惜しまず、鶯の、宿はと問はば如何答へん」という同様の趣旨の歌があり、こちらの方は結局、鶯の宿りのために帝に梅は差し出さないという結末だった。

話を「東北」に戻すと、女はその梅が上東門院の御時、和泉式部が植えたもので、彼女は「軒端の梅」と名づけ、いつまでも飽かず眺めていたという。そして、梅に因んだ歌を数多織り込んだ美しい詞章の後、自分こそは梅の主(和泉式部)であるというと夕紅の梅の花の陰に消えてしまう。女は若女の面に、紅白段替に桧垣文の地に菊の花を散らした文様の唐織着流姿。紅白梅や軒端というのを意識した装束だったのかも。


狂言では、所の者が現れ、僧は所の者に先ほど起こったことを話す。僧は所の者に更に詳しく軒端の梅について教えて欲しいと請うと、所の者は次のようなことを語るのだった。いわく、賀茂川が北から流れてくるこの東北院は、王城の丑寅の鬼門にある寺なので、そのように名づけられた。和泉式部は歌に秀でて上東門院に仕えるが、その後、仏教に帰依する。またこの東北院に住み、軒端の梅を愛でた。そして所の者は僧から先の女の話を聞くと、僧に対して、式部の回向をするよう勧める。


後場となり、僧が法華経の譬喩品(ひゆほん)を読誦していると、白地に紅白の梅が描かれた長絹に緋大口の装束の和泉式部が現れる。かつて、御堂関白(藤原道長)が東北院の門前を通った時、御車の中から高らかに譬喩品を読んだ。それを聞いた式部は、「門の外、法の車の音聞けば、われも火宅を、出でにけるかな」と詠んだのだった。譬喩品には、火の燃え盛る家から子供を助けるために素晴らしい車が外にあるという方便を言って子供を外に出したという、火宅のエピソードがある。その後、和泉式部は成等正覚を得て歌舞の菩薩となったのだった。

さらに式部は、賀茂川が流れ、庭には池水を湛えつつ、僧だけでなく多くの人が出入りする東北院の様子を語り、東北というのは陰陽和合であると説く。序ノ舞の後、昔を思い起こし涙を流したのが恥ずかしいと言うと、方丈に消えてしまう。そして、僧の夢も覚めるのだった。


清楚な舞と力強い地謡(地頭:梅若玄祥師)で、新年に相応しい素敵な公演でした。