企画公演−鄙の雅−毛越寺の延年

<月間特集〜鄙の雅〜>◎鄙の雅
毛越寺の延年(もうつうじのえんねん) 王母ヶ昔、若女禰宜、路舞、留鳥
    毛越寺岩手県西磐井郡平泉町
新作狂言 はらべ山(はらべやま) 茂山千之丞
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2505.html

お能の先祖のひとつといわれている延年の舞。今年の春に世田谷美術館の平泉展で毛越寺の延年の舞台の飾り付け等を見た。その時、是非、延年の舞を見てみたいと思ったので、今回はじっくり拝見できて大満足。


延年の舞 王母ヶ昔(おぼがむかし)

稚児舞。最初、普段囃子方のいるあたり張った幔幕の橋掛り側の端から地謡の僧の方々が入場し、地謡座に一列に並んで後ろに置かれていた清元で使うような簡素な見台を手前に置く。
その次に先導と呼ばれる僧に導かれて子供が二人、みずらに金の天冠、青の狩衣に白と紅の段々のグラデーションになった指貫のような袴を付けて現れる。
二人は桃花の酒の謂われを知っているかという問答を行った後、舞を舞う。舞が終わると先導が一礼して二人の先頭に立って退場する。


延年の舞 若女禰宣(じゃくじょねぎ)
           
微笑んだ表情の「若女」の面は世田谷美術館の平泉展でも見た。平泉展で見たときはもっと素朴な笑顔に見えたのだけれども、こうやって微笑みをたたえながら舞を舞っている姿は優美。金の烏帽子に白地の透ける素材の舞衣で、葦の文様がさらりと描かれている。若女は鈴を持っていて、鈴を高いところに持ち上げると、シャン、シャン、シャンと少しずつ下に下げながら鈴を鳴らすというのを、ひたすら繰り返す。しばらくすると、禰宣がでてくる。禰宣は三番叟の尉のような面に、烏帽子、白の直垂に薄茶のたっつけ袴に黒の脚絆。禰宣はまるで御幣で野球の素振りをするように三回御幣をボールの芯に当たるところまで素振りすると、四回目に御幣を振り切るというのを、少しずつ前に進みながら左右交互にしていた。それだけでなくスキップもしていた気が。厳かな雰囲気の舞だった。


延年の舞 路舞(ろまい)(唐拍子;からびょうし)

地謡の僧が直径50cm強ぐらい、厚さ10cmちょっとぐらいの太鼓を持って登場し、自身の前に太鼓を平置きにした。驚くことに、太鼓を平置きにしたまま笏で叩くのだ。ご存じの通り、太鼓の音が鳴る原理というのは、太鼓の皮を打つことにより皮の振動が周りの空気に伝わり音となるので、太鼓の皮を直に床に接するように置くというのは、叩く方とは反対側とはいえ、床に接している方の皮が振動しないので、反対側に皮がある意味は全く無し、むしろ空気が抜けにくい(=音が伝わりにくい)という意味で皮は邪魔になる(!)という不思議な演奏法。しかもあの聖徳太子が持っているような笏で叩くというのも変わっている。バチは接する面が小さいほど凝縮された音が出るので、このような皮(布製?)であれば接する面が小さくなるようなバチを使いたくなると思うのだけど、ここでは笏をバチにしており、笏は頭が丸くなっていて皮に接する面が広いので当然、音はこもってしまう。狐につままれたような気分で見入ってしまった。

とはいえ、太鼓と地謡は脇役。主役は舞をする二人の童子(銅撥子[どうばつし]と瑟丁伝[しつていでん])。茶の直衣に白のたっつけ袴に脚絆。跪(ひざまず)きながら小さな円を描いて回る様子は、雅楽で見た舞に似ていた。この舞は慈覚大師(円仁)入唐の際に、清涼山の麓に現れた二人の僧の舞を移したと伝えられるそうだ。円仁が入唐の際に感得したという道教の神の摩多羅神も詞章に出てくる。


延年の能 留鳥(とどめとり)

翁(シテ)と媼(ツレ)の夫婦には梅の木があったが、帝が梅の木を所望する。しかし、鶯の家が無くなることを案じた夫婦は、結局、梅の木を持参しないまま、帝のとこころに行く。官人に梅を持参していないと指摘されると、代わりに「召しあれば、梅は惜しまず、鶯の、宿はと問はば、如何答へん」という歌を君の御目に掛けてほしいという。また、鶯故に咲き留まる花なので、これからは鶯を留鳥と名付け、歌集の題詠(鶯宿梅)に使うのがよいでしょう、という。官人は喜び、名前を名乗るよう言うと、実は翁は菅丞相だった、という内容。

休憩中に紅梅の鉢植に鶯が三羽ほど留まっている作り物が正面の階の手前に置かれた。この「留鳥」はお能とはいっても、五流のお能とは違い、「延年の能」という言い方がぴったり。「平泉展」を見たときには、中尊寺喜多流と解説に書いてあったようだけど、毛越寺は独自のお能を発達させたようだ。
なんといっても一番の違いは謡が声明風なこと。それから、地謡が一列で今回は5名だった。また、ワキが目付柱の付近にずっと座っているというのも珍しい。

思わぬところで菅丞相に出会えて大満足。


新作狂言 はらべ山

毛越寺の延年の舞、姥捨に関するものの後日談という趣向の新作狂言。ボケた育ての親の伯母を「はらべ山」に捨てて動物の餌食にしてしまった男(茂山正邦師)が家に戻ってくると、伯母を捨ててくれと頼んだ当人の妻(茂山茂師)は伯母が取り付いたのか、狂っていた。男は僧(茂山千之丞師)と出会って祈祷を頼むが、僧は自分の力では妻にとりついた悪霊を退散できないので、諏訪明神に連れて行き、湯立の神楽を行う巫女に祈祷をしてもらうことになり…というお話。

毛越寺の延年の舞の公演に相応しい狂言現代社会の問題を扱っていて、面白くかつ最後はなかなか身につまされるお話。ただ、結末は、残念ながら私の趣味とは合わず。


以下は岩波講座の「能狂言 I」からの自分用のメモ。

猿楽芸の投影としての延年芸能

鎌倉初期頃までは滑稽的寸劇の段階にあった猿楽が、その後どのような経過をたどって「能」に至ったか、それを具体的に跡づけることは現段階ではきわめてむつかしい。それはその点の解明に資し得る鎌倉期猿楽の劇的側面を示す資料が乏しいためであるが、この資料的空白を埋め、猿楽の劇的側面の成長状況を示唆してくれるのが延年芸能である。延年とは、寺院における法会の後の余興として僧徒自身によって演じられた芸能の総称で、平安〜鎌倉初期には童舞、白拍子舞、猿楽などがその演目であったが、鎌倉中期頃から劇の形態を持つ芸能が演じられるようになった。これが風流(ふりゅう)と連事(れんじ)で、前項に見た寸劇的猿楽に比べてはるかに能に近い形態を持っているのである。風流の初見は宝治元年(1247)(『三会定一記』)であり、連事は少し遅れて弘安元年(1278)(『勘仲記』)であるが、それらの当時の芸態はよくわかっていない。それが具体的に把握できるようになるのは応永(1394〜1428)、永享(1429〜41)頃の東大寺興福寺の延年(延年資料は南都のものが多い)あたりからで(ただし、いずれも風流)、さらにくだると、天文(1532〜55)年間に多武峰(とうのみね)妙楽寺の蓮華延年で演じられた風流や連事の台本が多数遺っている。それらによると、風流も連事も確かに劇形態の芸能である。素材はともかに僧徒の芸能らしく中世の故事や仏教に関する物が多いが、風流は舞台装置など演出の大掛りな点に特色があり、連事は多武峰の台本では必ず白拍子が歌われており、歌謡性の強い点に特色があったもののようである。ただ、これは室町時代の風流や連事の形態で、これをそのまま宝治や弘安の時代にまで遡らせることはできない。宝治は応永、永享頃からは二百年近くも昔なのである。しかし、その具体的形態は不明なものの、宝治、弘安頃に室町期の風流や連事という劇の祖形が存在したことは確かな事実であり、ここに能の形成をめぐって有力な材料が提供されているわけである。

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