国立能楽堂 定例公演 塗附 鉢木

狂言 塗附(ぬりつけ) 石田幸雄(和泉流
能  鉢木(はちのき) 櫻間金記(金春流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2508.html

年末にふさわしい二つの曲。特に鉢木はストーリーも詞章も素敵な曲でした。洋の東西を問わず、年末が寒いところでは、heart-warmingなお話が恋しくなるのかも。

塗附(ぬりつけ) 石田幸雄(和泉流

年末で残すところ十日あまり。御館のところに挨拶に行くことになった二人(深田博治師、高野和憲師)は、自分達の烏帽子の漆が剥げかかっていることをふと思い出す。しかし、日にちもないので年が明けてから漆を塗直そうと話し合う。そこに塗師(石田幸雄師)が現れる。一人が塗師に声を掛け、年明けに烏帽子の漆を塗り直したいので、その際は宜しくという。すると、塗師は今すぐに塗って年内に間に合うように塗ることができる、と請け合う。そこで、二人は早速漆を塗ってもらうが…というお話。

塗師が道具箱から砥粉と膠を取り出し混ぜて剥げた部分の下地用にし、つぎに漆を出してさっさっと塗る。さらに紙風呂という紙で出来たおおいを被せてしばらくおく。そして時々紙風呂の中に息を吹きかける(確か漆はある程度の湿度が無いと乾かないとか)。このような作業に思わず見入ってしまう。おもしろいのは、塗師が行商していること。昔は、こんな行商もあったのかしらん。

結局、二人の烏帽子がくっついたまま烏帽子の漆が乾いてしまう。塗師がくっついた漆をはがすおまじないである「松囃子」という謡をうたい、その結果、二つの烏帽子は上手く離れて終わりとなるのだが、他人事ながら離した後の烏帽子の表面が心配。また塗り直しが必要になって、結局、このお話は、実はループしてたりして。


鉢木(はちのき) 櫻間金記(金春流

一所不在の僧(福王茂十郎師)が、信濃の国から鎌倉に行く途中、上野(こうずけ)の佐野のわたりで大雪にあい、ちょうど見つけた家で一夜の宿を請う。すると、その家の者(井上貴覚師)は、夫が留守なので、夫が戻るまで待って欲しいという。
その後、橋掛リに夫である常世(櫻間金記師)が現れ、一ノ松のところで、「ああ降ったる雪かな、いかに世にある人の面白うらん」昔は自分も面白いと思ったが、今は落ちぶれてしまったので、この寒さをどうしよう、面白くもない雪の日だ、という。
常世が見所を見てそういったので、いきなり見所は雪野原ということになってしまった。この曲の面白いところは、舞台だけで進行するのではなく、見所も見立てで舞台の続きにしてしまうので、舞台が広々と感じるし、自分がお話の中に入り込んでしまった気分にもなれるところだ。私も前場では「野原に積もった雪の粒(その一)」の役をもらい、席にて大人しく演じておりました。
常世は、直面で深緑と緑の畳目の素襖という出立。

常世が家の方を見ると妻が外に立って常世の帰りを待っている。僧が一夜の宿を請うている一件を常世に伝えるが、常世は「われら二人さへ住みかねたる体にて」という理由で、外の雪のように冷たく断ってしまう。すると僧は、「あら曲もなや、由なき人を待ち申して候」と言い、大雪の中を出ていく。
この僧のことばは決して捨て台詞というわけではないけれども、強めの言い方で、私までどきっとしてしまった。常世も、はっとして我に返ったのだろう。妻が僧を泊めて功徳を積みたかったというと、それを口実にして、僧を探しに行く。やっと僧を見つけるが、常世が声を掛けても雪のせいで僧には聞こえない。
この時、僧は橋掛リの三ノ松のところまで行き、常世はそこから一番遠いワキ座に行って僧に声をかけるので、二人がとっても遠くにいるように見える。
そして、声が聞こえないようなので、常世は橋掛リを通って僧のところまで行って、「これは東路の、佐野のわたりの雪の暮れに、迷い疲れ給はんより、見苦しく候へど、ひと夜あ泊まり給へや」と声を掛ける。やっと僧が気づき、常世が深々と頭を下げると僧も頷き、二人はそれ以上の言葉が無くとも心が通じた様子なのだった。

その後、家に戻り、貧しい粟飯で食事をすると、夜が更けて焚き火をしなければいれない程の寒さとなった。常世は焚き火で僧に暖をとってもらおうにも薪がないので、自慢の松、梅、桜の鉢木の一つを切って薪にすることを思いつく。僧は遠慮するが、常世は色々と迷った末に木を切ることにする。
ここは、事前に詞章を読んだ時は、根本からざっくり行ってしまうのかと思って何て痛ましい場面なんだろうと思っていた。けど、実際に舞台を見たら、細い枝を数本とっただけ。期待させといて(?)、そんだけ?と、ずっこけそうになった。ま、もちろん、生木は火が付きにくいでしょうから、根本から切ってもしょうがないけど(…などという理由じゃなくて、本当は、ミニマリズムの表現なんだと思います)。

鉢木の焚き火のおかげで暖まった僧は、常世が「唯人とは見え給わず候」が、どんな事情でこのような暮らしをしているのかと尋ねる。すると常世は、一族の者に横領され、最明寺殿(北条時頼)は鎌倉にいないため訴訟もままならずこのように零落してしまった(ここで僧は実はどきっとしたのかも)。鎌倉に御大事があれば、千切れた具足、錆びた長刀、痩せた馬ではあるけれども用意はしており、一番に馳せ参じる、と、興奮して話す。落ちぶれてはいても、武士の志は忘れない常世なのだった。
そこまで話を聞いた僧は、暇請いをする。常世夫婦は名残を惜しむが、僧は「ご沙汰(訴訟)捨てさせ給ふな」と意味ありげに念を押すと、雪の中を出ていく。別れ際には常世と僧の間に友情のようなものまで感じられて、前場だけでも、しみじみ良い話だなーという感じだった。


中入り後、場面が代わって、ここは鎌倉。鎌倉殿の身内の者と称すアイの早打(月崎晴夫師)が、関東八ヶ国の武士達全員に召集を掛けた旨、触れて回る。その他、最明寺殿が、鎌倉に居ては人の善し悪しが分からないので修行の旅に出ていたこと、善い人がいれば、褒美をとらそうと考えていたことなども話す。パンフレットの特集に寄稿されている佐々木馨先生の説によれば、北条時頼の廻国というのは、かなり信憑性のある話らしい。
一方、常世は僧に話したとおり、急いで鎌倉に馳せ参じようとした。ところが、痩せた足弱の馬なので、他の武士に遅れをとりつつ、やっとのことで鎌倉に着いた。

その頃、前場で納戸色の着流姿だった僧が、後場では紫の水衣に白の大口袴、青緑の五条袈裟という出立で、実は彼こそが最明寺殿だったのだ。
最明寺殿は、集まった武士の中から「千切れた具足、錆びた長刀、痩せたる馬」の一番みすぼらしい武士を探し出すよう命じる。承ったワキツレは、アイの二階堂の従者(野村萬斎師)に伝える。二階堂の従者は、武士達の中から常世を探し出す。常世は最初、自分が最明寺殿に呼ばれる筈はないと言うが、探している武士の特徴を聞き、なるほどそれは自分だと納得して、最明寺殿のところに行く。実は、萬斎師の出番はこれだけ。なんと贅沢な配役…。歌舞伎のように「御馳走」などというのがお能にもあるのかしらん。

常世が最明寺殿の前に出ると、最明寺殿は、実は自分は雪の日に一夜の宿を請うた僧であり、今回の召集は、常世が本当に鎌倉に馳せ参じるかどうか試したのだという(他の武士にはえらい迷惑…)。そして、焚き火にした、梅、桜、松の鉢木の返報として、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝の三庄を安堵する(領有権を公認する)と伝えた。
この時、ワキの最明寺殿が、「また当参(とうさん)の人々も訴訟あらば申すべき」という台詞を言うとき、見所を見渡したので、おお、いきなり見所は関東八州の武士どもが馬で馳せ参じた現場となったのだった。私も前場の「雪の粒」役に続いて、後場でも「武士(その一)」の役をもらい、ちょっとうれしくなってしまいました。

そして常世は、武士達に安堵状を誇らしげに見せると、上野国に帰っていたのでした。


とても心が温かくなるお話で、帰りは足取りも軽かった。けれど、歩いているうちに、ふと、お能の冒頭の心が凍ったままの常世のことが思い出された。今の日本にも、あの心の凍った常世のような人がいっぱい居ることだろう。
常世が幸運をつかんだのは、どんな状況でも志を捨てなかったことと最明寺殿に出会った幸運からだった。常世の志は決して普遍的なものではなかったけれども(「いざ鎌倉」の時は必ず一番に馳せ参じる、というものだった)、志を捨てなかったからこその最明寺殿との出会いだったのだ。きっと鎌倉時代も今も、志を持ち続けるということの大切さと忘れ易さは変わらないだろう。
今、「心が凍った常世」状態の人がこのお能を見たら、きっと思うところがあるはずだと思うけど、残念かな、そういう人はきっと憔悴しきっていてお能を見る暇なんか、ない。
何人かの休職したり困難と戦っている友人を思い浮かべながら、彼らが志を捨てず、無事にそれぞれの最明寺殿に会えますように、と思ってしまった。