横浜能楽堂 企画公演「英雄伝説 義経」 安宅

横浜能楽堂企画公演「英雄伝説 義経
第4回「弁慶の機転と豪勇」
平成21年12月19日(土) 14:00開演 13:00開場

解説 三宅晶子
琵琶、語り 上原まり
能「安宅 勧進帳、酌掛、延年之舞、貝立貝付」(観世流

http://www.yaf.or.jp/nohgaku/

そういえば、そもそもお能を観ようと思ったのは、歌舞伎に移された能楽(松羽目物)が本来どう演じられているのか観てみたかったのと、歌舞伎に移す際、どの部分をどのように改変したのか、それともしなかったのか、という点について知りたいと思ったからで、観たい曲の筆頭は、「安宅」だったのでした。しかしながら、今まで漫然とお能を観ていたので、「安宅」は色んなところでかかっていたのに、観るのがすっかり遅くなった。しかも、あまりに素敵な群舞だったので、見とれてしまって、あまり覚えていない。また振り出しに戻ったような気がしないでもない。


解説 三宅 晶子

三宅先生のお話で興味深かったのは、まず、義経達の奥州への逃避行が「吾妻鏡」にも載っているというお話。岩波文庫の「吾妻鏡(二)」を見てみると、巻七の文治三年(1187)二月十日のところに下記のような記述があった。

前伊豫守義顕(義経)、日来所々に隠れ住み、度々追捕使の害を遁れをはんぬ、遂に伊勢、美濃の國を経て、奥州に赴く、是陸奥守秀衡入道の権勢を恃(たの)むに依りてなり、妻室男女を相具す、皆姿を山臥(山伏)ならびに稚児に仮ると云々

こんな公の資料に載ってしまうくらいだから、本人達は隠密行動のつもりでも、意外にバレバレだったのかも知れない。そして、「文治三年二月十日」というのは、謡曲「安宅」の中では、安宅の関の事件が起こった当日ということになっている。

また、「安宅の渡り」はあるけれども、安宅という関所は無いのだそう。加えて、「安宅」で起こる事件も、「義経記」には無い。富樫は七巻の「五 平泉寺御見物の事」に出てくる加賀国富樫の大名、「富樫介」という人の名前を借りていている。ほかに、弁慶が「是は東大寺勧進の山伏にて候」と名乗る件、富樫介の身内の者共が次々と寄進すると、弁慶が「勧進の物は、只今賜はるべく候へども、来月中旬に上り候はんずれば、其時賜り候はん」という件などの「安宅」の構成要素の元になったと思われるエピソードも富樫介の館での弁慶の発言に出てくる。勧進帳のエピソードは「義経記」にはない。義経打擲のエピソードは、同じく七巻の「六 如意の渡にて義経を弁慶が打ち奉る事」というところにある。平権守(へいごんのかみ)という如意の渡の渡守が、目敏く村千鳥の摺衣を着た判官を見つけて怪しむと、弁慶が

「あれは加賀の白山より連れたりし御坊なり。あの御坊故に所々にて、人々に怪しめらるゝこそ詮なけれ」と言ひけれども、返事もせで打俯きて居給ひたり。弁慶腹立ちたる姿になりて、走り寄りて船端を踏まへて、御腕(かいな)を掴んで肩に引懸けて、濱に走り上がり、砂(いさご)の上にがはと投げ捨てて、腰なる扇抜き出し、痛はしく続け打ちに散々にぞ打ちたりける。見る人、目も當てられざりけり。(中略)平権守是を見て、「すべて羽黒の山伏程、情なきものはなかりけり。判官にてはなしと仰せられるれば、されこそ候はんずるに、あれ程に痛はしく情けなく打ち給へるこそ心憂けれ。詮ずる所、是は某(それがし)が打ち参らせたる杖にてこそ候へ。かかる御痛はしき事こそ候はね、是に召し候へ」とて、舟をさし寄する。

という箇所があって、それが「安宅」に採用されたようだ。今、書き写していてふと気づいたのだけど、「義経記」では<扇>で打ったとあるのに、「安宅」では、<金剛杖>で打ったとある。何気に、より痛いものにグレードアップしていた。

一方、「安宅」の勧進帳読上げの際に、「おん名をば 聖武皇帝と 名づけ奉り 最愛の夫人(=光明皇后)に別れ恋慕止みがたく 涕泣(ていきゅう)眼(まなこ)にあらく 涙玉を貫く思いを 善途に翻して廬遮那仏を建立す」というところがある。が、史実では、聖武天皇の方が先に亡くなり、光明皇后の方が聖天皇の遺品を見ると泣き崩れてしまうため(『国家珍宝帳』の「触目崩摧」という箇所)、身近に置く代りに大仏に献納し、それが正倉院宝物の元となった。ここのところが、ひょっとして富樫に「それは史実とは違ふて候」などと言われたら、弁慶ピンチ!と思ったが、当時はそのように、史実と逆の俗説があったとのこと。という訳で、富樫に突っ込みを入れられる心配は無用。よかった、よかった。


それから、「地取り」についての説明。お能ではワキやシテが登場する時に、「次第」というものを謡う場合がある。これは、七五、七五、七四の三句で構成されている。「安宅」だったら「旅の衣は篠懸(すずかけ)の 旅の衣は篠懸の 露けき袖や萎(しお)るらん」の部分だ。そしてその後に、普通は地謡が低い声で同じ句を繰り返す(ただし二句目の同じ言葉は省略)。これを「地取り」というが、この起源はよくわかっていないらしい。そして、この「安宅」では地取りの代わりに、アイが「おれが衣は篠懸の おれが衣は篠懸の破れて事を欠きぬらん」というだじゃれのようなことを言う。何故、狂言方が地取り風に謡うのか不思議だ。この曲は、ツレの人数が多いせいか、ツレの連吟がとても多くて、地謡はあまり活躍しない。多分、この公演のみならず、昔からツレを沢山出すと地謡要員が払底してしまったので、地謡が活躍せずにすむような演出が考え出されたのかも、などと思った。


さて、小書については、今回は、「勧進帳」「酌掛(しゃくかけ)」「延年之舞」「貝立貝付」と沢山付いている。まず、「勧進帳」は勧進帳の読上げを弁慶の独吟にするというもの。小書が付いていないと観世流ではツレとの連吟になるそうで、これでは見せ場にならないので、通常は「勧進帳」の小書が付くのだとか。それから、「酌掛」は、パンフレットによれば、弁慶が舞の掛りに酌をする型が入るものだそう。しかし、イマイチどこのことかよく分からなかった。「延年之舞」の舞は、「延年」の型を男舞に取り入れたものとあるが、これも良く分からなかった。大体、男舞だって観ても何が常の男舞だか分からないのだ。それから、狂言方の「貝立貝付」は分かった。弁慶が安宅の関の様子をアイの強力に見てくるように言う時に自分の扇を法螺貝と見立てて渡すのだが、強力はその扇を30°ぐらい開いて法螺貝のような形にして、要の部分を法螺貝のマウスピース部分(?)と見立てて、法螺貝を吹く様をするのだ。


琵琶、語り 上原まり

今回は、「安宅」のエピソードには入っていない、義経の北の方のお話の部分も組み込んで語っていらっしゃったのが印象的。具体的には、奥州への逃避行に行く前に、弁慶が北の方にその旨を伝えに伝えに行くのだが、そこで涙ながらに義経と最後まで一緒に居たいと訴え、稚児姿になって奥州行に同道することになる、という箇所。ここで、北の方といっているのは、川越重頼の娘の方ではなく、久我(こが)大臣の娘のこと。川越重頼の娘の方が正式な北の方だそうだが、「義経記」の中では、この久我大臣の娘が北の方ということになっているのだそうだ。

この北の方のお話は、他にも笈の中身や稚児姿を怪しまれて弁慶が言い逃れをする場面があって、かなりスリリングで面白いのだけど、さすがに、そこまで語りに組み入れるとお「安宅」と掛け離れるためか、そちらのエピソードは省略されていた。


能「安宅 勧進帳、酌掛、延年之舞、貝立貝付」(観世流

歌舞伎と違うところは、まず、安宅の関に行く前に、弁慶(梅若玄祥師)が、強力(山本則直師が休演のため、山本東次郎師)に、安宅の関の様子を偵察に行かせるところ。すると黒々としたものが四つ、五つ掛けてあり、それが山伏の斬首された首と知り、驚いて、「山伏は貝吹いてこそ逃げにけり 誰おひかけてあびらうんけい」と、歌を作って逃げ帰る。この歌は、「貝吹き」と「掻い伏し」、「追ひかけ」と「笈掛け」が掛けてあるらしい。歌舞伎でここが全く省かれているのは、物語の焦点を弁慶と義経と富樫に集約するためだろうか。


勧進帳読上げのところは、弁慶が読上げ(るフリを)ていると、富樫(宝生閑師)がさり気なく、遠巻きに「勧進帳」の中身を見ようとする。弁慶は改めて富樫の方に向き直って勧進帳を読み続けるのが面白い。ここは歌舞伎では富樫の演じ方に色々と議論があるところだけど、お能は(というか閑師は、という話なのかな?)、極めて自然体なのでした。結局、歌舞伎みたいに義経を思う弁慶の気持ちを汲んで敢えて気づかぬフリをするというような芝居が無い分、富樫の心情も、あまり裏読みする必要も無いのかも。


それから、強力姿の判官が富樫達に疑われて弁慶が義経を打擲すると、歌舞伎では四天王のスクラム体勢になるところですが、お能は、ツレ9人がスクラムを組むので壮観。富樫も、美しい主従関係に感じ入ってというより、何だかわからないけど武闘派的な弁慶達の勢いに「触らぬ神に祟りなし」と言わんばかりに、「近頃誤りて候 はやはやおん通り候へ」と言って、一行を通すのだった。


無事、安宅の関を通り抜けると、弁慶が義経を打擲した件について弁慶が義経に手を付いて謝罪するところは、詞章の内容自体は歌舞伎と大体同じだ。歌舞伎ではここで判官が弁慶に対して許しの象徴である手を差しのべる所作をするのだが、私の憶が正しければ、お能では無かった。ここは歌舞伎では、最も涙を誘う場面なのだけど、これは、歌舞伎の発明なんだろうか。

最後、延年ノ舞の後、弁慶に促されると、一行は一目散に幕の内に入っていく。ふと、文楽バージョンの勧進帳で一行が幕に入る時のことを思い出した。文楽では、一行が富樫に会釈をする上に、義経は笠の縁を上げて富樫に顔まで見せて会釈するのだが、これはどうも納得が行かないなあ。弁慶が金剛杖で打擲するなどというお芝居を打つことまでしなければ通れない関だったはずなのだから、最後まで隙を見せない形で通した方がよいのではないだろうか。考えてみれば、義経は頼朝と仲が悪くさえならなければ源氏のNo.2の地位にあってもおかしくない人で、この時代、そのような地位の人がいくら感謝してるからといって、富樫のような役人に顔を見せて感謝するというのは、あまりありえないことのような気がしないでもない。


えーっと、それ以外にも色々群舞的面白さがあったのですが、すっかり頭から抜けてしまいました。私の場合、運動神経が鈍いせいか、舞がどうも頭に入らん。


それにつけても、この物語、結局は、頼朝と義経の壮大な兄弟喧嘩の一場面なのでした。日本全国を巻き込んで、800年経った今も日本で教育を受けた人なら誰でも知ってる兄弟喧嘩なのだから、すごいものです。


<番組>
解説 三宅晶子
琵琶・語り 上原まり

能「安宅 勧進帳・酌掛・延年之舞・貝立貝付」(観世流
 シテ(武蔵坊辨慶)梅若玄祥、子方(源義経)山崎友正
 ツレ(同行郎党)梅若基徳、小田切康陽、川口晃平、鷹尾章弘、鷹尾維教
 角当直隆、松山隆之、山中晶、山崎正道、
 ワキ(富樫某)宝生閑、アイ(強力)山本東次郎、アイ(太刀持)山本則孝
 笛:一噌隆之、小鼓:大倉源次郎、大鼓:亀井広忠
 後見:角当行雄、梅若靖記
 地謡:土田晏士、松山隆雄、梅若晋矢、会田昇、井上和幸、
 地謡:土田英貴、内藤幸雄、豊田祐輔