国立能楽堂 特別公演 咸陽宮 右近左近 碁(その2)

能  咸陽宮(かんようきゅう) 近藤乾之助(宝生流
狂言 右近左近(おこさこ) 茂山あきら(大蔵流
能  碁(ご) 金剛永謹(金剛流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2514.html

1/30に拝見した国立能楽堂1月特別公演の続き。


碁(ご) 金剛永謹(金剛流

源氏物語」の空蝉をシテとした復曲物。とはいいながら、演出上、原作の「源氏物語」を必ずしも踏襲していない部分があった。例えば、空蝉と軒端の萩の装束は間狂言でわざわざ原作にある服装を語るのに、その直後の後場の二人の装束は特に何の関連もない紅入唐織着流だったり、背の高くてほんわか微笑んだ孫次郎を付けた金剛永謹師と大人しそうな小面の軒端の萩の種田道一師は、どう見ても原作のほっそりとして少しやつれたような空蝉と健康的で大柄な軒端の萩と逆の印象だったり。つい素人は原作の痕跡を残した方がオシャレな気がしてしまう。しかし今回の公演に関しては、原作は原作、能は能の約束事が優先ということなのかもしれない。色々興味深い。


また、パンフレットの井上愛氏によれば、碁というゲームは陰陽道の影響を受けており、現世の理や人間の生死にも重ね合わせて喩えられることがあるという。なるほど、文楽や歌舞伎の「金閣寺」では「国崩し」と言われるクーデターを企てる松永大膳と此下東吉(豊臣秀吉)が碁を打つ場面があるけれども、あれは松永大膳が陰で此下東吉が陽という暗喩であったり、二人のスケールの大きさを印象付けるシーンだったのかも。


東国の僧(高安勝久師)が都を見に三条京極中川にたどり着く。中川は「源氏物語」の空蝉が住んでいた旧跡。僧の父親は「源氏物語」(の和歌)をいつも口ずさんでおり、僧もつい「空蝉の身をかへてける木の下に、なほ人がらの懐かしきかな」と、空蝉が源氏から逃れるために小袿を脱ぎ捨てて去っていってしまった翌日に源氏が詠んだ歌を口ずさむ。

そこに里の女(金剛永謹師)が橋掛リに現れる。里の女は「縁ある、道は妹背の中川の、逢瀬を知ればうたたかの、あはれその夜の方違へ、今はいづくにかはるらん」という地謡と共に舞台に来るが、「道は妹背の中川の」というとき、ワキの僧と向かい合い、「方違へ」という時、常座で正面を向いていたのを中正方向を見る。そしてまた歩と「幻もがな」で後ろを向いて常座に戻り、「魂の在処は懐かしや」で僧と再度向かい合う。

里の女は、旅の僧のために碁を打とうといって舞台中央に座る。僧はちょうど「源氏物語」でも客人が来ていた時に空蝉が軒端の萩を碁を打った有名な場面があることを思い出し、今夜は誰と碁を打つのかと問う。すると、里の女は、その時の片方は誰だったかご存知ですか?と僧に問い返す。僧が軒端の萩だと答えると、里の女は「忍べども、軒端の萩の穂に出でて、姿をまみえん我もまた、今は何をか包むべき」というと立ち上がり、自分が空蝉であることを告げると、しみじみと泣いて失せてしまった。


狂言では、所の者(茂山七五三師)が「源氏物語」の空蝉のエピソードを語る。紀伊守が神社にお参りに出向いた時、源氏が空蝉の弟の小君に案内をさせて空蝉の家に忍び込んで碁を打つ空蝉と軒端の萩を盗み見る。暑い時期なので空蝉は濃き紫の単襲(ひとえがさね)に薄き絹をまとい、品良く美しい。一方の軒端の荻は、白き羅(うすもの)の単襲に二藍の小袿のようなものを着ており、二人が碁を打つ姿はたいそう美しかった。その夜、源氏が空蝉のところに忍んで来ると、香が違い、源氏は人違いであることを知る。その後、空蝉は出家をしてしまう。

所の者はそう語ると、僧にしばらく逗留して回向をするよう勧める。


後見が碁のセットをもって正面先にセットすると後場が始まる。ワキの僧が木の下に伏して眠っていると、軒端の萩(種田道一師)が常座に、空蝉が一ノ松に現れる。二人は碁を打って心を慰まん、というと、「浜の真砂の石立は、げにつよからぬ心かな」でシテが舞台に出てきて、中央の床几に腰掛ける。地謡が「棋は、敵手にあうて、行(てだて)を隠さず、僅か両三目に、従来十九の道があり…」と謡うと、空蝉は静かに立ち上がり、碁を烏羽玉や生死、白道に例え、さらに源氏の巻の名を折り込んだ地謡の詞章が続く。その後、「急いで碁を打とうよ」という言葉と共に、空蝉と軒端の萩が碁の前に座る。

二、三手打ったところで空蝉が負けてしまう。空蝉は立ち上がると常座に行き、「軒端の萩の秋来ぬとかつ穂に出る芦分け舟押すこと恨みなれ」となって、シオる。

うーん、なるほど。こ辺りの詞章は、源氏のことは仄かに憎からず想ってはいた空蝉から軒端の萩が源氏を奪ってしまったということを、夏のものである「空蝉」を追いやった秋のものである「軒端の萩」が、空蝉の仄かな恋心を押し分ける芦分舟のように源氏を勝ち取ってしまった、ということを表したんだろうか。そうか、ということは、源氏物語を読んだ時には全然気がつかなかったけど、空蝉と軒端萩が碁を打って空蝉が負けたという描写も、その後の空蝉と軒端萩の関係を暗示していたのだ。ぜーんぜん、気がつかなかった。そして、この「碁」というお能を作った左阿弥という人は、「空蝉」「軒端萩」という言葉の関係や「碁」を使ったその暗示に面白味を感じてお能に仕立てたのかも。

その後、序ノ舞となる。そして一ノ松のところで「恨めしや」というと、「空蝉はもぬけとなって」で後ろを向き、「うつつに返す薄衣」で袖を返し、「夢は破れて」で回って「覚めにけり」で後ろを向くと、僧の夢は覚めてしまうのだった。

最後の空蝉の恨み節は少し納得いかない。井上愛氏は「その一生は負け続けた人生と言えるかもしれません。しかしその中で己の意思と理知を貫いた女性です」と書いているが、私もその意見に賛成。紫式部だって空蝉が源氏を奪われたことを嘆いたとは一言も書いていない(自分の不運は嘆くけれども)。そもそも空蝉のような女性は、夫ある身で興味本位の源氏と会うことこそを後悔する人だから、間一髪のところで衣を残して姿を消したのだと思う。紫式部はその空蝉の性質を際立たせるために、軒端萩を物事を注意深く考えず源氏に言い包められてしまう女性として描いたにちがいない。とはいえ、そんなことぐらい「碁」の作者も読み取っているはずで、そう考えると、これもまた、よくある「中世的理解」ってものが関係しているのだろうか?

…とかなんとか、色々考えているうちに、今までは特にどうという印象のなかった空蝉という女性が、実はなかなか芯の通った女性に思えてきたのでした。