国立能楽堂 特別公演 咸陽宮 右近左近 碁(その1)

能  咸陽宮(かんようきゅう) 近藤乾之助(宝生流
狂言 右近左近(おこさこ) 茂山あきら(大蔵流
能  碁(ご) 金剛永謹(金剛流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2514.html

咸陽宮(かんようきゅう) 近藤乾之助(宝生流

面白かった。ストーリーが面白いというよりは、近藤乾之助師と宝生閑師によるパフォーマンスが素晴らしかったのだと思う。

内容は始皇帝に対する仇討ち(とゆーか今風に言えばテロ?)のお話。もともと「史記」の「刺客列伝」(第二十六)にあるエピソードで、お能の方は「平家物語」の巻第五「咸陽宮」が元となっている。「史記」と「平家物語」とお能の詞章を読み比べてみると、「史記」がダントツで面白い。「平家物語」は残念ながら「史記」を改変していて、「史記」よりつまらなくなっている。で、お能は「平家物語」の中の仇討ち前のエピソードを削除して仇討ち実行の部分のみに焦点を当てているので、もしパフォーマンス自体が面白くなかったら、相当つまらないお能になったかもしれない。

史記」と「平家物語」は何が違うかというと、主人公が違う。「史記」の方は「刺客列伝」という名前にある通り、荊軻を主人公とする話だ。荊軻は、書を好み、冷静沈着、義を重んじる人物として描かれており、一方、仇討ちを頼んだ燕の王の丹太子や仇討ちの相手となった秦の始皇帝は、器の小さい人物として描かれている。丹太子は短略的で自分勝手な理由から荊軻に仇討ちを頼むが、荊軻は非常にシビアな条件の中、義を重んじて実行に移す。司馬遷は「刺客列伝」の最後に、

(この段で紹介した刺客達は)其の義、或いは成り、或いは成らず。然れども其の意を立つることこう然として、其の志を欺かず。名、後世に垂る。豈に妄ならんや。

(ある者は(仇討ちを)成し遂げ、ある者は成し遂げられなかった。しかしその決意のほどは明確であり、みずからの志を裏切ることなく、その名を後世に伝え得たのである。彼らの行為を愚かしいなどとは決して言うことはできない)

と記して、「史記」の中に挙げた刺客達を義を重んじた人々として描いた。

ところが「平家物語」の「咸陽宮」では、そのような荊軻の描写は大幅に削除されているだけでなく、丹太子の小心なところや始皇帝の傍若無人ぶりも同じように消し去られている。そのため、登場人物や大まかな流れは共通しているものの、「始皇帝が刺客に殺られそうになったが、絶体絶命の時に琴を奏した后と薬袋を投げた医師(お能には出てこない)の機転によって無事助かった」というお話になってしまっている。どうして「平家物語」に平家の話と直接関係ない「史記」の中のエピソードをこのような形に改変をして採録することになったのか、興味深い。

パンフレットの井上愛氏の解説によれば、この「咸陽宮」は第八代将軍足利義教の御代始という場で観世座が「秦始皇」という曲名で「多武峯様具足能(とうのみねようぐそくのう)」というアクロバティックな演出で演じたのが初演と見られるという。「史記」の荊軻の話ではなく「平家物語」の咸陽宮の話を元にしたので、このようなハレの場での上演も可能だったのだろう。


前置きが長くなったが、お能の方は、まず後見によって一畳台が持ち込まれ、真ノ来序となる。真ノ来序は太鼓が入ってゆっくりとしたヒシギと同じ旋律の笛が入った。始皇帝がシテだけあって、始まりから荘厳な感じ。

真ノ来序と共に、ワキツレの臣下三人、シテツレの侍女三人、シテの始皇帝(近藤乾之助師)が現れる。侍女達が地謡側、臣下達が脇正側に向かい合って座ると、始皇帝と臣下による都の咸陽宮が広大で宮殿の阿房宮が荘厳な様子が語られる。

そこにワキの荊軻(宝生閑師)とワキツレの秦舞陽(大日方寛師)が橋掛リに現れる。閑師は青地に龍の繊細な刺繍の法被が中国風。先に立つ荊軻がアイの官人(茂山千三郎師)に対して、「高札にある、嚥に逃亡していた樊於期の首を持って参内してきた」と言う。すると官人は取り次ぎ、参内の宣旨が出る。官人はそこで太刀刀を預かるのだが、セキュリティとしてはちょと甘かった…と、"post-911"の時代に生きる私は思ってしまうのだった。

荊軻がそのまま宮殿に進み出ようとすると、秦舞陽は共に宮殿に登ろうとしない。荊軻は橋掛リの一ノ松のところで振り返って、「今までその貧しい暮らしからは想像だにしたことのなかった眩いばかりの玉殿で足がすくんでしまったのか」と強く問う。官人どもは、特に怪しまず田舎者が気後れしただけであろうと、厳重な門を解いて二人を中に通した。


始皇帝の前に出た二人。秦舞陽が樊於期の首が入っている箱を始皇帝の上覧に供え立ち退くと、始皇帝は微笑んで(実際には乾之助師は笑わないけど)箱を開けてみると、箱の底には剣がある。あっと思い立ち退こうとすると、時既に遅し、荊軻と秦舞陽は一畳台に上がって左右から始皇帝の袖を絡めとって荊軻は剣を胸元に押し当てた。

始皇帝は観念し、最期にいつもは毎日聴いている花陽夫人(金井雄資師)という后の琴を聴きたいと所望する。荊軻がそれを許すと、始皇帝に促され夫人は秘曲を奏で歌いだす。この部分は「琴の段」と呼ばれるそう。最初は花鳥風月を歌っていて、荊軻、秦舞陽ともに段々眠そうになる。能の公演でつい気持ちよくなってウトウトとしてしまう気持ちは分かるけど(?)さっきまでの一触即発のような緊張感は何だったのだ…。その様子を見た夫人は始皇帝にこの隙に逃げるよう歌に乗せて促す。

あっという一瞬に始皇帝は袖を切って一畳台から橋掛リに逃げ後ろを向いて袖を被き、荊軻と秦舞陽は一畳台から左右に飛び降り安座する。荊軻は刀を始皇帝に向けて投げるが命中せず、始皇帝は改めて舞台に戻り立ち回りとなり、荊軻は八つ裂きにされてしまう。その後、燕の丹太子を滅ぼし、めでたしめでたし、なのでした。


右近左近(おこさこ) 茂山あきら(大蔵流

右近の田は今年は畦を区切って殊の外豊作で喜んでいたところ、左近の家の牛が作物を食べてしまった。そこで、右近は訴訟を起こそうと思い立つ。すると、妻はリハーサルをしようと提案し、地頭役を買って出る。実は妻は左近に有利になるようにしたい仔細があるのだった…というお話。

観たことがあるなと思ったら、以前、和泉流野村万蔵師で観た「内沙汰」が限りなく近い内容だった。そういえば、この時は後半、急に右近が「妻と左近の浮気の現場を見た」と言い出し、シュールな終わり方をしたのだった。その時は何が何だか意味が分からず不思議だったが、今回、パンフレットの井上愛氏の解説を読んで、1年以上後になってやっと分かった。「右近」という名は愚かを意味する「烏滸(おこ)」を含ませていると考えられているそうだ。つまり、「右近」は愚かなので、地頭役を買って出る妻の真意に気がつかず、妻が地頭役をしているということすら忘れ、あまりの地頭役の剣幕に気を失ってしまうが、その後、ふと浮気の件を思い出し、その場で叫ぶのだ。妻は右近の愚かさを百も承知だからか、「腹立たしや、腹立たしや」と言って去っていくけれども、本気で夫婦の危機とも思えなかった。


ところが、今回の茂山あきら師の右近左近は全然違うのだ。野村万蔵師の右近は天然系ののほほんとした人物だったけど、茂山あきら師の右近は特に頭が弱そうにも見えない。頭が弱そうに見えないので、最後、急に妻の浮気の件を言い出した時も、何故そのようなことをここまで引っ張って言い出したのか、よく分からない気がした。とはいえ、見所では最初から最後まで結構受けていた。で、考えてみたのですが、恐らく原作に忠実に演じたのが万蔵師で、オチが判りにくい原作の換骨奪胎をして笑いを重視したのが今回のあきら師のパフォーマンスだったのではないだろうか。…などということを、上演時間以上の時間をかけて考えてしまいました。


「碁」の感想はつづきます。