国立能楽堂 定例公演 鶯 藤戸

狂言 鶯(うぐいす) 野村万蔵和泉流
能  藤戸(ふじと) 豊嶋三千春(金剛流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2518.html

藤戸は二度目。前に観たのは08年2月の普及公演での金春流の本田光洋師。この時は両手を面の辺りに持っていっただけで号泣して見える能の所作というものに驚いた。今回の豊嶋三千春師の「藤戸」は非常に演劇的で、本田光洋師の「藤戸」とは大分印象が違った気がする。色々な演じ方があるのだと改めて思った。


鶯(うぐいす) 野村万蔵和泉流

ある鶯の飼い主(野村萬師)が鶯をさえずらせようと鳥籠に入れた鶯をもって野辺にやって来る。鳥籠を置いてさえずりに聞き入っているところに、稚児の梅若殿の家来(野村万蔵師)が竿を持って鶯を探してやってくる。梅若殿の家来は、鶯好きな梅若殿のために鶯を献上したいと思っているがイナゴ一匹刺せたことがないので、竿で刺せるようなトロい鶯がいるといいのだが的な内容のことを独りごち、鶯を探していると、お誂え向きに鳥籠に入った鶯を見つける。早速これを持ち帰って梅若殿に献上しようと意気揚々としていると、飼い主に咎められてしまう。そこで、家来は事情を説明し、梅若殿から預かった太刀を賭けて、竿で鶯を刺せたら自分に鶯を譲って欲しいと提案する。飼い主は仕方なく一度だけと了解したが、家来は案の定、最初の一刺に失敗し…というお話。


雰囲気は面白くて楽しく拝見したのだけど、実を言うと全体的に意味が良く分からず。ひょっとして昔の人とウケるポイントが違うのかも…。例えば、家来は「竿を鶯に刺せたら譲って」というが、そもそも鶯を刺してしまったらもう鶯は啼こうにも啼けないけど、そんな条件で良いのかしらんとか。しかも二度も刺そうとトライしながら結局刺すことは出来なかったのでこの条件にどんな意味があったのかは分からずじまい。それから、最後に和歌を二つ詠むのだけど、イマイチ分かったような分からないような内容。メモっておかなかったので正しいかどうか分からないけど、とりあえず、最初の歌は「初春の朝(あした)ごとには来たれどもあはでぞ帰るもとの住み処に」という歌だと思う。これは大和国の高間寺の僧の稚児が亡くなった後、梅の梢で鶯が啼いた歌がこの歌だったという内容で、「曽我物語」の巻第五「鶯・蛙の歌の事」や謡曲の「白楽天」にもあるので、きっと昔の人は皆、知ってた歌なんだろう。それから二つ目は「蛙」と「帰る」を掛けた歌で自分は鶯を見つけたけど持って帰れないという内容の歌だった気がしたが忘れてしまった。

また、話と直接関係ないけど、梅若殿という稚児の話が興味深かった。梅若殿、稚児と言われると思い出すのは「隅田川」とか「秋夜長物語」、梅若伝説等々。これだけ似たような話があるということは、三井寺に梅若殿という美しい稚児が居たという事実はあったのかも。


能  藤戸(ふじと) 豊嶋三千春(金剛流

ワキの佐々木三郎盛綱(高井松男師)が従者を引き連れて藤戸に来る。藤戸の先陣を切った御恩賞に児島を賜ったので入部したのだ。盛綱はワキ座で床几に腰掛けると従者に「訴訟あらん者は罷り出よと申し候へ」と島の人々に伝えるよう命じる。

すると前シテである漁師の母(豊嶋三千春師)が、曲見に薄茶地に縦縞、唐草の唐織着流に襟元に納戸色の内着で橋掛リに登場する。「この島のお主(ぬし)のお着きと申すは誠か。皆人の形見には、主に添ふよと懐かしきをこそ、その名残と見るものを、これはさしもに思ひし子を、失ひ給ひし人なれば、せめては参りて見参らせん」と謡いながら橋掛リを歩いて来る。そして、一ノ松の辺りまで来ると「さしもに思ひし子を」というところで盛綱を見てあっと気づく。盛綱は、自分を見て涙を流している老女はいかなる者ぞと問うと、老女は「何か恨みん元よも、因果の廻る小車の、やたけの人の罪科(つみとが)は、皆報ひぞと思へども、わが子ながらも余りげに、科も例(ためし)も波の底に、沈め給ひし御情けなさ、生きたる母が老いの思ひの恨みを申すに便なけれども、御前に参りて侍らふなり」と意味ありげなことを言いながら、「科も例も波の底に」で盛綱の方に進み出て舞台中央に座る。

盛綱はそのようなことは心得ぬとしらを切るが、老母が重ねて主張するので、動揺して「ああ音高し何と何と」と制止し、老母は「何しに隠し給ふらん」とシオルのだった。さらに母親はもし我が子の跡を弔うか生き残った母や子を訪(と)い慰めて下されば恨みも少しは晴れるでしょうに、「何と隠し給ふらん」と更に畳み掛けて盛綱を見込む。そして、老母は、仮の世に親子なっても結局は別れが来てしまう、「海に沈めしを」と言ってキッと盛綱を見、「跡弔はせ給へや」というと、またシオル所作をする。

老母の訴えに観念した盛綱は、漁師を殺した夜の有様を語って聞かせることにする。

去年三月二十五日の夜に、盛綱が浦の男にこの海を馬で渡すところは無いか問うたところ、漁師は川瀬のように浅くなる場所が月の頭と月の末に出来るという。盛綱はそのことを密かに確認したが、漁師が他人に語ることを恐れ、「ふた刀刺し」と膝を付いて前に進み出て、そのまま海に沈めたと語った。そして、目の前の老母が漁師の母であることを確認すると、跡を弔うので恨みを晴らして下さいと言う。

老母は我が子を沈めた場所を問い、盛綱が答えると、老母は身を乗り出して「さては人の申ししに、所は少しも違わざりけり」と呟く。盛綱は、夜のことだったので誰も知らないと思っていたが、悪事は千里を行くものだと嘆くと、老母も「こはそも何の報いぞや」と涙する。そして高々二十年ばかりで別れてしまった息子に「またいつの世に逢ふべき」と両手で涙を覆うのだった。

老母は、我が子が空しくなってしまって「今は何にか、命の露をかけてまし」と立ち上がり、「ありがひもあらばこそ」で常座の方に後退って涙し、「亡き子と同じ道になしてたばせ給へ」と盛綱に向かっていくが盛綱に制され、人目も顧みず伏し転び、我が子を返して欲しいと「現(うつつ)なき有様」で両手で顔を覆って号泣する。この辺りは前場の一番の盛り上がりのところで、以前、本田光洋師の公演を観たときは、(うろ覚えだけど)ここ以外の所作は非常に抑えた表現で身分の低さゆえに内に秘めた悲しみという印象があったのだけど、三千春師の老母は、ここまで畳み掛けるように我が子を殺された怒りや苦しみを表現していたので、受ける印象がかなり違って興味深かった。


盛綱は下人(野村扇丞師)に老母を家に送って行くようにいい、下人は老母を橋掛リを通って家に帰す。そして、老母の恨みに落涙したこと、しかし人々は弓取りの心得はこうであるべきと言っていることなどを独りごつ。そして盛綱に老母を家に送ったことを報告すると、盛綱は老母が不憫なので管弦講を執り行うことにするといい、管弦講の役者を呼び、皆にそのことをふれて廻るよう命じる。ここで執り行うという管弦講は音楽で法要することらしいので楽人かと思ったけど、「役者」と言っているのが興味深かった。


後場では、盛綱自ら管弦講に参加して読経をしていると、橋掛リから後シテの漁師の霊が現れる。

漁師の霊は常座に来ると、理由も無いのに「海路の瀬踏み」で右手に持つ杖で床を突き、三途の川の川瀬に来てしまった、と嘆く。夕影の水上に現れた人影を見た盛綱は漁師の亡霊だろうかといぶかると、漁師の霊は「御弔いは有り難けれども、恨みは尽きぬ妄執を、晴らさん為に現れたり」という。

漁師が藤戸の浅瀬を教えた盛綱は島を恩賞として貰うほどの稀代の例で、その喜びも私が教えたためだったのだから、自分はどのような報償を受けるだろうと思っていたのに、「思ひの外に」で盛綱に近づいて見込んで、「これぞ稀代の例なる」で再度杖を突き、「さるにても忘れがたや」で目付柱の方を見、「我を連れて行く波の、氷のごとくなる刀を抜いて」で、杖を刀に見立てて、「刺し通し」で杖で刺し通す所作をすると後退って、「そのまま海に押し入れられ」で座りこむ。地謡の「折節引く汐に」で立ち上がり、「浮きぬ」で座り「沈みぬ」で立ち、「狭間に流れかかって」で首の後ろの肩に杖を載せ流レ足で橋掛リの方に行く。そして、「藤戸の水底の、悪龍の水神となって」で盛綱を見、恨みを晴らそうと思ったが、「御法の舟に法を得て」で再度舞台中央に出て、「弘誓の舟に浮かめば水馴棹(みなれざお)」で杖を棹に見立て漕ぎ、生死の海を安々と渡ると、「かの岸に到り到りて」で杖で床を突き、「成仏得脱の身となりぬ」で杖を両手で前方に掲げると、杖を捨てて合掌し、後ろを向いて留拍子となるのだった。


ところで、「藤戸」を観るに際して、新潮社の「新潮日本古典集成」の謡曲集を見てみたところ(これは光悦謡本ということなので、多分観世流だと思うけど)、今回の金剛流の詞章には光悦謡本には無い詞章があって興味深かった。主な違い二つあって、まず前場のシテが一声で登場するところで、シテの「老いの波、越えて藤戸の明け暮れは」の前に下記の詞章が入る。

この島のお主(ぬし)がお着きと申すは誠か。皆人の形見には、主に添ふよと懐かしきをこそ、その名残とも見るものを、これはさしもに思ひし子を、失い給ひし人なれば、せめては参りて見参らせん。

ということで、独り言形式で我が子を殺した盛綱を見てやろうと言って状況説明している。この詞章は無くても分からないことはないけど、あると状況が分かりやすいかも。

それからもう一箇所は、後場の出端の部分で、シテの「憂しや思ひ出でじ」の前に次の詞章が入る。

泡沫(うたかたの)の、哀れに消えし露の身の、何に残りの、心なるらん、水烟波濤に暮れては閻浮の春を知らず、海月浮雲に沈んでは中有の巷茫々たり

中有というのは、死後四十九日のことだそうだ。前場で既に事件は去年の三月二十五日に浦の男と会って川瀬のようになる場所の話をしたとあるから、今が漁師の四十九日というよりは、漁師が自分が死んだ直後に見た世界のことから話し初めているという感じだろうか。

流儀によって詞章が異なるということは、きっとその異なる部分は新たに追加されたか古いものが残ったということになるのだろう。となると、追加した人、削った人が何を考えてそうしたのか、なんだか興味が尽きない。