国立能楽堂 名取川 熊野

普及公演  名取川 熊野
解説・能楽あんない 平家時代の遊女  馬場あき子(歌人
狂言 名取川(なとりがわ) 山本則俊(大蔵流
能  熊野(ゆや)読次之伝・村雨留(よみつぎのでん・むさらめどめ) 浅井文義(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3210.html


先日観た「西行桜」も面白かったが、今回観た「熊野」も大変面白かった。「西行桜」は京から離れた山里の西行の庵室に咲く老桜の話だったが、「熊野」は今を時めく平家の御曹司と遊女の催す花見の宴を主題としたお話。ふたつとも同じ桜を扱った曲だが、「西行桜」は静謐さと力強さを併せ持つ曲で、「熊野」の方は、囃子が全編にわたって入っていて、華やかで優しい曲。全く印象が違う。けれども、どちらも桜の持つ様々な表情をそれぞれの切り口で切り取った曲だ。

こうやって桜の話を一つづつ知るごとに、ますます街に咲く桜が美しく見えてくる。桜はそれだけでも美しいが、桜を愛でる言葉や桜を彩る物語で何重にもイメージを裏打ちされることで、より美しく感じられる気がする。今年は桜の季節も長かったし、桜に関するお能やら浄瑠璃やらを鑑賞する機会があって、いつも以上に桜を満喫できて幸せだった。


解説・能楽あんない 平家時代の遊女  馬場あき子(歌人

目から鱗だったのは、宗盛が熊野をなかなか帰さなかった理由。平安時代の遊女は今様や舞をするだけでなく、宴のイベント・プロデューサー兼ホステス的役割を担っていた。また遊女間の競争も非常に激しかった。遊女の熊野は母の病気を理由に池田宿に帰ろうとしたが、宗盛は花見の宴まで帰さなかった。それは、そのような遊女の熾烈な競争の中にあって、せっかく宗盛の花の宴をプロデュースするチャンスを得た熊野に何とか花の宴を主催させてやろうとする優しい心持ちからのことなのだという。

そういう話なら納得。実は「熊野」の冒頭で、宗盛が「(熊野を)久しく留め置き候ふ所に、老婆の労り(病気)と申して、度々暇(いとま)を乞ひ候へども、この春ばかりの花見の友と思ひ、未だ暇を出さず候」と言っているので、私は宗盛に対して「度々帰りたいと言ってるのなら帰してあげればいいのに!自分勝手なやつだ」と思っていた。宗盛、ごめん。


狂言 名取川(なとりがわ) 山本則俊(大蔵流

名取川」は歌枕でもあるけど、つい思い出してしまうのは、近松門左衛門浄瑠璃曽根崎心中」の「生玉社前」の段の詞章。

立迷ふ、浮名をよそにもらさじと、包む心のうち本町、焦がるヽ胸の平野屋に春を重ねし雛男、一つなる口、桃の酒、柳の髪もとく/\と呼ばれて粋の名取川、いまは手代と埋れ木の、生醤油の袖したヽる恋の奴に荷はせて、得意の廻り生玉の社にこそは着きにけれ。

ここでは近松は「名取川」を「名を取る」=「名を知られる」という意味で掛けている。「名取川」という歌枕は、こんな風に「名を知られる」「浮名を流す」という意味で使う場合もあるが、「埋もれ木」という言葉を導いて、(川の流れに)名(または恋仲)が隠れているという意味の歌を作ることもあるそうだ。例えば、「名取川せヾのむもれ木顕(あらわ)ればいかにせむとかあひ見そめけん」(「古今和歌集」巻第十三・恋歌三)など。上記の近松の詞章でも「名取川」の後に、さり気なく「埋もれ木」という言葉が埋め込まれている。さすが近松
この狂言では、後者の「名が隠れる」の意から一歩進んで、文字通り「名前を取られる」という意味に掛けていて、シテの旅僧が名取川に名前を流され思い出せない、というシュールなお話。

二つももらった名前を忘れないように様々な節で歌って覚えるところも面白い。学生時代、化合物だの必須アミノ酸だの丸暗記するしかないものの歌を友達と作って覚えたけど、こーゆー暗記法は、室町時代から既にやっていたのだった。看経(かんきん)は読経のような感じ、平家節は浄瑠璃のような感じ、踊り節は念仏踊りみたいな感じと大体想像通り。

則俊師の狂言を観ていつも思うのは、恐らく則俊師にとって、狂言というのは芸能の一ジャンルではあっても断じて滑稽なものなんかじゃないと思われているに違いないということ。他の流儀の狂言役者の方が台詞を言うときにニコヤカだったり、笑いをとりに行く方すらいる一方で、山本家の人達はいつも大真面目だ。


能  熊野(ゆや)読次之伝・村雨留(よみつぎのでん・むさらめどめ) 浅井文義(観世流

宗盛(宝生閑師)が従者(大日方寛師)を伴って橋掛リから舞台に出てくる。宗盛は舞台中央で、熊野が老母の病気を理由に帰国したいといっているが今年の花見の友とするために留め置いている旨述べる。そしてワキ座に着き床几に腰掛ける。


すると[次第]となり、橋掛リから朝顔(浅見慈一師)という熊野の母の侍女が現れる。小面に菊のような草花文様の紅入唐織着流姿。彼女は常座に付くと後ろ向きになり、[次第]の「夢の間惜しき春なれや、夢の間惜しき春なれや、咲く頃花を尋ねん」を謡う。朝顔は、正面を向くと熊野が京より下って来ないので、今回は熊野を迎えに来たという。

朝顔は常座で正面を向いて道行を謡いながら小さく前に進み後ろに戻って都に着いた体となる。朝顔は三ノ松まで進み出て案内を乞うと、後見座に戻りクツログ。囃子のテンポが早くなり[アシライ出シ]で、熊野(浅井文義師)が幕の内から出てくる。熊野は「若女」の面に金地に七宝文様が散らしてある唐織着流姿で七宝文の中はそれぞれ浅葱、濃紺、白等になっていて、さっぱりとした上品な印象。実は今回の花見車に桜が飾り付けられているので、敢えて桜を連想させるような装束にはしなかったのかも。熊野は三ノ松のところで正面を向くと、「草木は雨露(うろ)の恵み、養ひ得ては花の父母たり、況(いわんや)や人間においてをや、あら御心もとなや何とか御入り候ふらん」と謡う。朝顔は「況や人間においてをや」のところで後見座から立って一ノ松の辺りに移動する。

朝顔は熊野に声をかけ、熊野の母からの文を三ノ松のところにいる熊野のところに行って渡す。熊野は文を見て嬉しく思うが、母の病状が尋常でないのを見て取ると、朝顔と共に宗盛のもとに行き、宗盛に母からの文を見せて暇をもらおうと考える。熊野は朝顔に「こなたに来たり候へ」というと、熊野は朝顔をつれて宗盛のところに参上する。


熊野は常座に付くと、ワキ座の宗盛に母から手紙が来たことを告げる。宗盛は「さらば共に読み候べし」というと、床几から立ち上がって熊野から手紙を受け取り、舞台中央で座ると、手紙を読み始める。パンフレットの村上湛氏によれば、ここの段は<文の段>と呼ばれ観世流宝生流の現行演出ではシテの独吟だそうだ。今回は「読次之段(よみつぎのだん)」という小書がついていて、これはシテとワキの連吟になるという演出のようだけど、今回は、シテとワキが斉唱するのではなく、冒頭の「甘泉殿の春の夜の夢、心砕くはしとなり」から「老いの鶯逢ふ事も、涙にむせぶばかりなり」までという手紙の中でも美文の部分を宗盛の閑師が、残りを熊野の文義師が引き継ぐ形になっていた。そして、手紙の最後の部分「老いぬれば、さらぬ別れのありと言へば、いよいよ見まほしき君かなと、古言までも思ひ出の、涙ながら書き留む」の「涙ながら」の部分から囃子が入る。

熊野の謡を引き継いで、地謡が「老いぬれば」の歌は在原業平が多忙で母を訪えなかった時、長岡に住む母から送られた歌であることをいう。その地謡に合わせて「そもこの歌と申すは」で熊野は左手を宗盛に差し出す。その間に朝顔は大小前に、宗盛はワキ座の床几に戻る。熊野は宗盛に「今はかように候へば、御暇を賜はり、東に下り候ふべし」と、宗盛の方を向いて再度、暇を乞う。しかし、宗盛は、そのように心弱いことではいけないと、花見車に乗るよう促すのだった。

ここで[車出シアシライ]となり、宗盛が従者に命じ、花見車が出されることになる。後見が橋掛リから花見車を持ってくると、目付柱の付近に正面方向を向いて置かれる。この花見車には桜の花が付いていて、道すがらに車から見える桜を彷彿とさせるようになっていた。ただ、パンフレットの解説によれば、「江戸時代以前の桜は、豊麗な花をたわわに咲かせるソメイヨシノではなく、細やかな枝に優しい花と葉を付ける山桜」とのこと。今回花見車に付いていたのは、どう見てもソメイヨシノ。そういえば、先日観た片山幽雪師の「西行桜」では、作り物の塚の上に付けられた桜が緑の葉の中にポツンポツンとあって、何故葉桜?と思ったのだけど、あれは山桜ということだったんだろう。東京はソメイヨシノが多いから、桜と言えばついソメイヨシノを連想してしまうけど、さすが京都の能楽師の方は桜にはこだわりがあるのだった。でもまあ、以前観た「三山」でも桜の枝はソメイヨシノだった気がするし、お能の中ではあまり作り物の桜の種類がどうということまでは気にかけていないのかも。

宗盛は「はや御出でと勧むれど」で熊野に出立を勧めつつ立ち上がり、「心は先に行きかねる」でその他の人々もそれぞれ花見車に乗り込んで花見に出掛ける(舞台上では熊野のみが花見車に中に入り、宗盛が花見車の隣、朝顔が花見車の後ろ、従者が宗盛の後ろ、朝顔の隣にそれぞれ立つ)。

道すがら、熊野は清水の音羽の山桜を思うと、「東路とても東山、せめてそなたのなつかしや」と故郷の母に思いを馳せ、花見車から身を乗り出し地謡座方向を見てシオルのだった。道行で、花見の季節のはなやかな京の街の様子が描かれる。「四条五条の橋の上」では熊野はワキ座方向を見、「雲かと見えて八重一重、咲く九重の花盛り「名に負ふ春の景色かな」で正面を向く。さらに「愛宕(おたご)の寺もうち過ぎぬ」で中正方向、「御法の花も開くなる、経書堂はこれかとよ」で地謡方向、「そのたらちねを尋ぬなる、子安の塔を過ぎ行けば」で正面、「馬留め」でワキ座方向を見、「ここより花車、おりゐの衣播磨潟」で一同は花見車から降り、熊野は中央、宗盛はワキ座、従者は地謡前、朝顔は大小前に、それぞれ移動する。「仏の御前に、念誦して母の祈誓を申さん」で熊野は着座して合掌する。


宗盛が「いかに誰かある」と従者を呼ぶ。その間に花見車が後見により引き上げられる。宗盛が従者に熊野の居所を尋ねると、まだ清水寺の御堂にて念誦しているという。宗盛が熊野をこちらに呼ぶように従者に伝えると、従者は朝顔に伝える。朝顔は熊野に花の下の御酒宴が始まっているので急ぐようにとの仰せだと伝える。熊野は「さらば参らうずるにて候」と答えると、立つって常座近くに行く。熊野は花の御酒宴の客に向かい「なうなう皆々近う御参り候へ、あら面白の花や候、今を盛りと見えて候ふに、何とて御当座なども遊ばされ候はぬぞ」と言って、中正方向を見やり、歌を作るよう促す。「当座」とはその場で即題の歌を詠むこと。馬場さんによれば当時はこのような宴では歌を詠むことが大事だったそう。確かに万葉集古今和歌集には宴で詠まれた歌が数多く収録されている。

<クリ>の「げにや思ひ内にあれば、色外(ほか)にあらはる」で熊野は後ろを向き大小前まで行って着座すると、「よしや由なき世の習ひ、嘆きてもまた余りあり」で涙ぐむ。<クセ>で清水寺(せいすいじ)の鐘を祇園精舎の鐘にたとえ、地主権現の桜を沙羅双樹に例えると「寺は桂の橋柱、立ち出でて峯の雲」で立ち、「花やあらぬ初桜の、祇園囃子、下河原」でヒラク

「ただ頼め頼もしき春も千々の花盛り」で大小前で後ろ向きとなり、「深き情けを、人や知る」で扇でお酒を掬う。「わらはお酌に参り候ふべし」で宗盛にお酌をする。宗盛が熊野に舞を所望すると、地謡の「深き情けを、人や知る」で熊野は再びシオルと、橋掛リへ足早に行き二ノ松の辺りで気を調え舞台に引き返し、舞を舞う([イロエガカリ中ノ舞])。

この[中ノ舞]では、途中で笛が転調して盤渉調となり(ならない時もあるらしい)、熊野は足早に橋掛リに行くと、一ノ松あたりで両袖に雨が降りかかっている様子を確かめる。そして「なうなう俄(にわか)に村雨のして花の散り候ふはいかに」と言う(小書「村雨留」)。

「降るは涙か、降るは涙か桜花、散るを惜しまぬ、人やある」で熊野は舞台中央に来て着座する。[イロエ]で、短冊を取り出し、扇を筆を持つような形で持つと、扇で筆に硯の墨を含ませ、短冊に書きつける様子を見せる。扇を広げると囃子のテンポが速くなる([短冊ノアシライ])。熊野はその扇の上に短冊を載せ、宗盛に渡す。

宗盛は短冊を取り上げ、上の句「いかにせん、都の春も惜しけれど」を詠み上げる。熊野が引き継ぎ、「慣れし東の花や散るらん」と謡う。宗盛は和歌に感じ入って「げに哀れなり道理なり、この上は早々暇取らするなり、疾く疾く東に下るべし」と熊野に言う。熊野は「あら嬉しや尊やな、これ観音のご利生なり」と合掌する。そして「かくて都にお供せば、またもや御意の変わるべき、ただこのままにお暇」と言うと、立って扇を広げて足早に橋掛リに行き、東路に急ぐのだった。


という訳で、熊野ですっかり桜気分だったので、翌日大阪に文楽を見に行った帰りにでも京都によって、そのまま「熊野」の道行の通りに歩いてみようかな、という素敵なプランを考えたのだが、文楽劇場の「妹背山婦女庭訓」があまりにすごかったので、そんな計画、すっかり忘れて帰ってきましたとさ。