国立能楽堂 定期公演 伯母ヶ酒 玄象

定例公演  伯母ヶ酒 玄象
狂言 伯母ヶ酒(おばがさけ) 野村小三郎和泉流
能  玄象(げんじょう)窕(くつろぎ) 木月孚行(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3219.html

狂言 伯母ヶ酒(おばがさけ) 野村小三郎和泉流

都合により拝見できず。残念無念。


能  玄象(げんじょう)窕(くつろぎ) 木月孚行(観世流

この曲の中で中心的な役割を果たす琵琶「玄象」は、中啓で見立てることもあるのだそうだが、今回は琵琶の作り物が出たので、楽器を見るだけで楽しい人間には大変面白かった。

今回の小書「窕(くつろぎ)」というのは、パンフレットの井上愛氏の解説によれば「早舞の中に変化を持たせ、囃子も緩急をつけたものになります」とのこと。私が分かった限りでは、早舞の途中でテンポが段々とゆっくりとなり、また早くなるというテンポの変化があったのと、その後、笛が転調したという変化があったので、そのあたりかと思ったが、シテの舞の変化については、よく分からず。


ヒシギが響くと[次第]となる。笛の旋律はいつも聞くものより音程が高い旋律。橋掛リからシテツレの藤原師長(観世芳伸師)、ワキ、ワキツレの師長の従者(高井松男師、則久英志師、梅村昌功師)が現れ、4人で向かい合い、[次第]の「八重の汐路を行く船の、八重の汐路を行く船の、唐土はいづくなるらん」を謡う。

師長が名乗ると、従者が引き継ぎ、この方は天下に並び無き琵琶琴の上手であるが、この度入唐の望みがるので名所の月をご覧になるために、今津の国須磨の浦へ御下向するのだと言う。そして道行となり、山崎、湊川、生田の森、駒の林、須磨の浦と辿っていく。

須磨の浦に着くと、近くにある塩屋の主を待って御宿を申しつけようと従者がいうと、師長はワキ座の床几に座り、ワキ、ワキツレは地謡前に下居する。

そこで再度ヒシギが奏されると、[一声]で、橋掛リにシテツレの姥(大松洋一師)が現れ、続いてシテの漁翁(木月孚行師)が田子を持って現れ、姥が一ノ松、漁翁が三ノ松付近でお互いに向かい合うと、「待ちかぬる、汐汲む桶の苦しきに、また力づく、老いの杖、つたなき業を須磨の浦、眺めに憂きや、忘るらん」と謡う。漁翁は朝倉尉の面に、熨斗目、小豆色の水衣、腰蓑という出立。

囃子の中、姥が舞台中央に、漁翁が常座に進みで、「面白や浦に入日は海上に浮かみ」と謡うと、まっすぐ正面を見据えながら、須磨の浦をめぐる風光明媚な風景(明石の浦、紀の路の小島、由良の門(と)、住吉、富島、昆陽、難波、絵島、淡路潟)を詠み込んだ謡を謡う。

そして、「あは沖舟の漕ぎ来るは、雨ごさめれ今ひと返りも汐汲めや人々」で中正を見る。「そよや陸奥の」で姥は大小前に移動し、「千賀の塩竈は名のみにて遠ければ」でワキ座方向を見、「いかが運ばん伊勢島や」で数歩歩き、「阿漕が浦の汐をば度かさねても汲み難し」で肩に乗せていた竿の両端に紐を絡めていた田子を下に落とし、「田子の浦の汐をいざ下り立たんわくらはに、問う人あらば、詫ぶと答へて、須磨の浦の汐汲まん」で、正面の目付柱付近で舞台下の白砂から田子で水を汲む体となり、さらに常座に戻って田子を置く。

そして、漁翁の「塩屋に帰り休まふずるにて候」という詞を合図に、漁翁、姥は立ち位置を換え、漁翁が中央、姥は目付柱付近に座る。


塩屋に戻った主を見たワキの師長の従者は、師長が太政大臣で琵琶の上手であり、入唐の望みがあめ下向中である旨を説明し、一夜の宿を参らせて下さいと申し出る。ところが漁翁は一度は異浦(ことうら)で宿を探してほしいというが、従者の再度の申し出により、見苦しく候へども宿を参らせましょうと言う。

そして、二人の問答を聞いた姥が、神泉苑で琵琶の秘曲を遊ばして、龍神も賞(め)でたのでしょうか、晴天が俄に曇り、大雨が降ったあの、雨の大臣とはこの方のことでしょうか、と感慨深げに言う。

姥は続けて、もし、秘曲を聴聞できるのなら、例のない思い出となることでしょう。かの蝉丸も逢坂の藁屋にて琵琶を弾かれました。里を離れた「須磨の家居の習いとて」で笛が入る。松の柱や竹で編んだ垣は一重で風もたまりませんのでお傷わしい限りです。「海は少し遠けれども」(と言って姥はワキ座方向を見)、波の音を聞いているうちに夢をもご覧になることでしょう。「よしよしそれも御琵琶を、寝られぬままに遊ばせや」という詞と共に、後見が切戸口からラベンダー色の琵琶の作り物を持ち込み、ワキの師長の従者に渡すと、「我等も聴聞申さん」でワキが師長の前に琵琶を持って座る。

ワキは取り次ぎ役となって、師長に、「今宵は月も面白う候へば、夜もすがら御琵琶を遊ばされて、尉に聞かせられふずるにて候」と進言して、琵琶を師長に渡す。

師長は、須磨が源氏が遷(うつ)された失意の場所であり、「まだ汐じまぬ旅衣、泣くばかりなる涙の露の、玉の小琴(おごと)を弾き鳴らし、恋い侘びて、泣く音に紛ふ浦波は、思ふ方より、風や吹くらん」の「弾き鳴らし」で手にしていた中啓で琵琶を弾く様子をする。

そして、さらに「それは浦波の、音通ふし琴の音の、音通ふらし琴の音の、これは弾く琵琶の、折からなれや村雨の古屋の軒の板庇(いたびさし)、目覚ます程の夜雨(よさめ)や管弦(かげん)の障りなるらん」という地謡の後、師長は琵琶を弾くのを止めてしまう。

漁翁が不審に思い「何故、琵琶を遊ばすのをお止めになられるのでしょうか」と問うと、師長の従者は「今の村雨によって演奏に水をさされたのです」と答える。すると、漁翁は改めて村雨に気付き、目付柱近くに座る姥に向かって、「苫(とま)を取り出しておくれ」と言う。姥は何のためかと問うと、漁翁は苫で板屋を葺(ふ)き渡し静かに聴聞しましょうと答えると、二人は扇を苫に見立てて早速苫を取り出して葺く体となり、「塩竈の名の、近々と寄り居つつ、耳をそばだて聞き居たり」で師長の方に向き直り、座して耳を立てる。

従者が二人の行動を不思議に思い、「何とて漏らぬ板屋を苫たて葺き給ひて候ふぞ」と問うと、漁翁は舞台中央に進み出て、「ただ今遊ばされ候ふ琵琶の御調子は黄鐘(おうしき)、板屋を敲(たた)く音は盤渉(ばんしき)にて候ふ程に、苫にて板屋を葺き隠し、今こそ一調子になりて候へ」と答えるのだった。なんと、このような貧しい塩屋に恐ろしく音感の良い漁翁と姥が居たのだった。もし楽器で弾いた音のように音程がはっきりしていれば、さすがに普通の人でも音程や調が合っていなかったり不協和音だったりすれば気持ち悪く感じるものだけど、この夫婦は、板屋に当たる雨音の音のように、普通の人は音程を気にしないようなものの音程にまで心を配る、紛れもない優れた音楽的才能を持つ人達なのだった(なるほど、そんなにも音程に敏感なら、都のような騒音のヒドいところには住んでいたらたちまちノイローゼになることだろう。こんな鄙びたところに住んでいるのも道理なのだった…?)。


師長達が、(地謡)「さればこそ始めより、常人(ただびと)ならず思ひしに、心にくしや琵琶琴を、いかでか弾かであるべき」と言うと、その間に後見が漁翁の肩上げしていた水衣の袖を下ろす。そして、「思ひも寄らずも琴の音の、押してお琵琶を賜はりて」で、ワキの師長の従者が漁翁に琵琶を渡すと、二人は琵琶と琴を、ばらりからりと、感涙も零(こぼ)れ、嬰児も踊る程に弾き始めるのだった。

師長は二人の演奏を聴きながら、(地謡)「師長思ふよう、我日の本にて琵琶の奥義を極めつつ、大国を窺(うかが)はんと、思ひし事の浅ましさよや、目のあたりかかる堪能(かんのう)ありける事よ、所詮渡唐を止まらん」と、忍びて塩屋をお出になるのだった(師長達は扇を置くと後ろを向く)。

この渡唐を止めるというお話は、先日観た「春日龍神」にも明恵上人の渡唐を止めるという話があったが、興味深いなあと思う。このお話の平安時代の人々も、この曲が作られたであろう室町時代の人々も、中国文化には憧れつつも、日本のセンスも捨てたものじゃないと思っていたに違いない。現代人から見れば、本当は唐の方が日本より音楽的研究成果のレベルは高かったんじゃないかと思えてしまうけど、どうも今も昔も日本人は、内心、日本が一番、日本大好き、と思う傾向があるようだ。


話を元に戻すと、師長等が塩屋を出たのも知らず、琵琶琴をかき鳴らしていた二人は「越天楽」の唱歌、「梅が枝にこそ、鶯は巣をくへ、風吹かばいかにせん、花に宿る鶯」を謡う。ここは、「越天楽今様」の旋律をほぼそのまま取り入れた節回しで謡われていたと推定されているそうだが、先日観た喜多流の「梅が枝」の同様の部分とは少し違った風に聞こえ(こちらの方が、より謡に近く感じた)、なかなか興味深かった。

「宿人(やどりうど)の帰るも知らで弾いたり琵琶」、ふと、姥が旅人がひっそりと旅立ったと気づく。漁翁も「なに旅人の御立ち候ふとや、何とて止め申さぬぞ」というと、二人は師長に走り寄る。「琵琶琴よりも、御袖を、ただ引けやただ引けや横雲の、夜はまだ深し浦の名の明かしてお立ち候へ」と言いながら、漁翁は師長にすがりつくと、数歩下がり、じっと師長を見つめる。

師長は、「何しに留め給ふらん、まづこの度は帰洛して、重ねて尋ね申すべし、御名を名のり給へや」というと、漁翁はその間に橋掛リに移動し、一ノ松で振り返り(姥は笛前に移動し)、「今は何をかつつむべき、我玄象(げんじょう)の主(ぬし)たりし、村上の天皇、梨壺(なしつぼ)の女御夫婦なりと、名乗る。師長は驚いて後ずさって座り込むと、村上天皇は「御身の入唐止めん為、夢中にまみえ須磨の浦、故院の昔の夢の告」でシオルと、「思ひ出でよ人々」で足早に幕の方に向かうと「かき消すように失せ給ふ」で三ノ松で振り返ると中入りとなる。


ここで、太鼓入りの[来序]となる。ここの囃子はあまり聴いたことのない囃子で、太鼓が「ヨー」という掛け声の後に一音、打つと、大鼓と小鼓が一斉に「ホー」という掛け声を掛けて同時に打つ。笛はシテの中入りの時と同様の旋律を吹き続け、その中を姥は静かに橋掛リを去っていく。

[来序]というのは、出端(シテなどの登場の時の囃子)の一種かと思っていたけれども、今回のように、シテの退場の際にも奏されるものらしい。確かに村上天皇の名のりがあった以上、何かそれにふさわしい囃子が入ってほしいし、後場村上天皇の[出端]は間狂言が入るので間が遠すぎるし…となると、この場合、[来序]を奏するとすれば、前場村上天皇の退場の時しかないのだった。囃子というのはつい何となく聞き流してしまいがちだけど、気を付けて聴いてみると、囃子の入り方には大抵ロジカルな理由付けがある。そして、それが分かるとその曲の構成や演出意図が分かったりするので、舞台の流れに気を付けながら囃子を聴くのは、かなり楽しい。もし囃子のいずれかの楽器を習っていれば、もっと楽しいに違いないのに、なかなかそういう時間までは取ることができず、本当に残念。


この後、間狂言となり、アイの龍王の眷属が登場し、常座で語り始める。曰く、ある時、師長が秘曲を演奏したところ、晴天がかき曇りにわかに雨が降った。その後、雨の大臣(あめのおとど)呼ばれるようになった師長は琵琶の大事を訪ねて下向し、須磨の浦までやってきた。村上天皇は師長の天分を感じ、琵琶を御所望され、師長は琵琶を弾いた。そのとき、雨音が琵琶の調子と違ったため、板屋の屋根を茅で葺き、調子を揃えた。
師長は大唐で琵琶の上手に玄象、青山(せいざん)、獅子丸という三本の琵琶を与えられ、三曲の秘曲を授けられた。
ある日、月の面白い夜、清涼殿で村上天皇が琵琶を弾いていると、月影に怪しきものが現れ、天皇の琵琶を誉めた。天皇は不審に思い尋ねると、「我は大唐にて三曲の秘曲を授けられたが、あまりに惜しみ一曲伝えなかった曲があった。そのため地獄に落ち苦しんだので、天皇相伝したい」といった。(…イマイチ、きちんと書きとれなかったようです)

アイの龍王の眷属は、改めて、これから村上天皇という琵琶の上手が琵琶を奏するので、下界の龍神たちに琵琶を聴くよう告げる。


狂言が終わると、ヒシギとなり、これに被って[出端]の太鼓、大小が奏される。幕が上がり、後シテの村上天皇が一ノ松にて扇を差しながら、「そもそもこれは、延喜聖代の御譲り、村上の天皇とは我が事なり」と名のる。村上天皇は、中将の面に紅色の紐のついた白地に銀の横雲文様の狩衣に、初冠、紅地の指貫という出立。天皇は、「いかに下界の龍神確かい聞け、獅子丸持参、つかまつれ」と橋掛リの幕の方に行き後ろを向きながら宣言すると、囃子が早くなり、ヒシギに似た[早笛]が奏される。村上天皇は舞台に入ると床几に座る。

そこに黒髭の面に赤頭に龍戴、紅地に山形の半切という出立で紅色の琵琶を手にした龍神が現れる。「獅子丸浮かむと見えしかば、獅子丸浮かむと見えしかば、八大龍馬(はちだいりゅうめ)を引き連れ引き連れかの御琵琶を、授け給へば、師長賜はり弾き鳴らし」で、龍神は舞台に入り目付柱の一ノ松で足拍子を踏むと師長のところに行き、琵琶を手渡し、さらに橋掛リに戻り一ノ松で下居する。地謡の「八大龍王も弦管(げんかん)の役々あるいは波の、鼓を打てば、あるいは岩の、名にし負ふ、獅子団乱旋(ししとらでん)に村上の天皇も、奏で給ふ面白かりける、秘曲かな」で村上天皇は祈るような仕草をする。


この後、[早舞]となるが、小書「窕(くつろぎ)」がつくので解説によれば「江戸時代中期に観世元章が考案した小書『窕(くつろぎ)』がつきますので、早舞の中に変化を持たせ緩急を付けたもの」となるのだそうだ。実際、囃子は途中、テンポがゆっくりとなり、また早くなるという部分があった。また、その後、笛が転調する(調子が高くなるのだが、よく聞く盤渉調ではなかったような?)。

村上天皇は[早舞]の途中、幕の前まで行き、その場で一周り、逆周りをし、そのまま静止する。その後、囃子のテンポが早くなると、また舞台中央へ進み出る。[早舞]が終わると、常座に行き、「獅子には文殊や、召さるらん」と謡い足拍子をすると、目付柱に行き、地謡の「御門は飛行(ひぎょう)の車に乗じ」でぐるっと廻って大小前に行くと、「八大龍馬に引かれ給へば師長も飛馬に引かれ給へば師長も飛馬(ひば)に鞭を打ち、馬上に琵琶を携へて、馬上に琵琶を携へて、須磨の帰洛ぞ、ありがたき」で、村上天皇は後ろを向き、龍王を先導として橋掛リを去っていく。後に残った師長は常座に行くと中正方向を遠く見やりながら、村上天皇を見送るのだった。