五島美術館 「書跡の美」

五島美術館 書跡の美―古写経・古筆・墨跡
2010年5月15日〜6月20日

6月20日で終了してしまったけど、五島美術館の「書跡の美」展と講演についてのメモと感想。


五島美術館というと、思いつく筆頭は「源氏物語絵巻」や「紫式部日記絵巻」、光悦&宗達の「鹿下絵和歌集断簡」等の大和絵だ。しかし、実際には、書跡が国宝2点、重文35点と、コレクションの中のカテゴリとしては最も充実しているとか。

今回の展示は主に「古写経」、「古筆(仮名筆跡)」、「墨跡」。このうち、私が好きなのは「古筆(仮名筆跡)」。なぜなら、書自体が繊細で美しいし、料紙も贅を尽くしているものが多いし、和歌が書かれていたりすると書かれている内容を読む面白さもあり、何重にも楽しめるから。今回も、高野切第一種(伝紀貫之筆、古今和歌集の冒頭)、升色紙(伝藤原行成筆)、継色紙(伝小野道風)、石山切(伊勢集)など出ていてうれしくなる。

一方、いつもそんなに面白いとは思わないのは「古写経」(奈良時代から鎌倉時代ぐらいまでの写経)。今までは見ても「昔の人は字が上手いなあ」という以上の感想は特に持たなかった。もちろん、平家納経や久能寺経のように美しい料紙を使っていたり、大和絵が描かれた見返しがあったり、金泥、金粉、金箔、雲母、下絵等の装飾を施してあるというような豪華絢爛な美術品と呼ぶのがふさわしいようなものは別だけど。


しかし、ひとくくりに「古写経」といっても、奥が深いようだ。例えば、書体ひとつとっても、奈良時代の前期・中期・後期、平安時代、と書体がかなり違うらしい。簡単に言うと、奈良時代は中国の書風の影響が強く、平安時代になると和様になってくるとか(奈良時代の古写経は王羲之風のきっちりとした楷書、平安時代になると、文字によっては線の太さのアクセントがはっきりした、四角のマス目の中には納まらない書き様、といった風)。


そういわれてみると、私のように古写経はいつもぼーっと見ているだけの人間でも、奈良時代の古写経の書体と平安時代の古写経の書体は見分けられる程、書体が違う。また記憶の中の東博の平常展や様々な美術館の様々な展示で見た古写経の書体も、そういわれてみれば、奈良時代平安時代とそれぞれ特徴をもった書体だったように思う。一度その違いを得心すれば結構見分けられる。東博の平常展では古写経の部屋はいつも何となく流して観ていたけれど、俄然、行くのが楽しみになってきた。

それに特に、奈良時代の書で現在まで伝来されているものは主に写経なのだそうで(他に木簡、正倉院文書等)、今の人間が奈良時代の人がどういう書体で書いていたのかを知ろうと思ったら、一番身近なもののようだ。例えば菅原道真大伴家持淡海公柿本人麻呂山上憶良額田王といった人々はこんな書体で字を書いたのかも。おおお!


もうひとつ興味深いのは、同じタイトルの古写経が複数の美術館に存在すること。例えば、今回の五島美術館の展示で見た藤原夫人願経、五月一日経、絵因果経、藤原道長金峰山舞経、私の大好きな久能寺経等は、東博にもある。なぜ同じ写経が何点もあるのかというと、写経が大体三千巻、五千巻、七千巻というオーダーで行われていたから、数十巻、数百巻という数が残っているためらしい。


五千巻とか七千巻とか、口で言うのは簡単だが、気の遠くなるような作業だ。今だって五千部複写することになったら、即、Kinko's行きだ。当時は写経を担当する下級官吏が居たとはいえ、人手で一文字一文字、丹念に細心の注意を以て書いていき、何人もの人が目を通して校正するのだ。しかも、その作業はそれほど大した賃金ではないし(しかも奈良時代の初期と末期では給料の額は二分の一程度になってしまっていたそうだ)、文字を間違えたり校正でミスを見落とせば減俸だった。

そんな話を聞くと、写経をする人は、どんなことを思いながら、一文字一文字、写経したのだろう、などと想像したくなる。少ない給料でどうにか養っている家族のことかもしれないし、いつ終えると知れない写経をひたすら繰り返す自分の行く末かもしれない。あるいは、お経に書かれた内容に内心感動しながら書写していたのかもしれない。どの古写経の話か忘れてしまったが、ある教典(五月一日経だったかも)を写経した下級官吏は、当時の資料を調べていくと、家や妻子を質に入れて借金をしていたという記録があるそうだ。家や妻子を質に入れてまで彼は写経の仕事を続けたのだろうか。その時、彼にとって写経をするということはどういう意味をもつ行為だったのだろうか。


そういったことは当然のことながら古写経の文字だけからでは伺い知ることはできない。けれども、古写経というのは発願した人や写経した人の思いや人生が背後にあるのだという風に考えてみると、簡素な古写経もなおざりには見られない気がしてくる。


ちなみに、五島慶太がコレクションを始めたそもそものきっかけは古写経だったせいもあって(その当時、古写経は比較的安かったのだとか)、彼の号も「古経楼」といったそうだ。そのおかげで、五島美術館は古写経が充実しているとのこと。

古写経の面白さにちょっとだけ開眼してしまった展示だった。