横浜能楽堂 美の世阿弥 華の信光 第2回第1部 砧

企画公演「美の世阿弥 華の信光」 第2回  平成24年11月3日(土・祝)
<第1部>  開場:正午 開演:午後1時
解説:西野春雄
能「砧」(観世流)浅見真州
http://ynt.yafjp.org/

とても素晴らしい演能を観てしまった。

以前、観世流宗家の観世清和師の「砧」を拝見したことがあったけれども、同じ観世流の宗家筋でも、浅見真州師の「砧」は、宗家のそれとはまた若干演出が違っていた気がする。「砧」という曲ひとつとっても、様々な解釈の余地のある奥深い世界があるんだなあと、改めて思わされる経験でした。

本当は、第2部の「玉井」の貝尽の小書も、面白かったに違いなく、観れなくて残念。


能「砧」(観世流)浅見真州

ワキの蘆屋の某(森 常好師)と侍女の夕霧(北浪 貴裕師)が舞台に現れる。芦屋の某は、名乗リ座に立つと、「訴訟があって上洛したが、早、三年となってしまった。古里のことが心もとないので、召し使っている夕霧を下向させて今年の暮には帰ることを伝えようと思っている」という趣旨のことを述べる。某が地謡前に下居する夕霧に下向するよう告げると、某は中入りする。

夕霧が「このほどの、旅の衣の日も添ひて」で始まる上歌・下歌の道行を歌い終えると、蘆屋の里に着く。

夕霧が一ノ松まで行き、案内を請うと、[アシライ]の囃子となり、シテの蘆屋の妻(浅見真州師)が幕から出てきて、三ノ松の近くに佇む。このシテの出の[アシライ]は、鬘物らしい柔らかな音というよりは、力強く緊張感のある音で、しかも非常にテンポのゆっくりとしたものだった。神様が出てくるような雰囲気さえあって、どういう意味なんだろうと思ったが、シテの物憂い足取りや風情を観るに、どうも、そういった、蘆屋の妻の深刻で思い詰めた気持ちを表現していたのかもしれない。蘆屋の妻の装束は、紅無しの金と濃青の段替に菊の花が散りばめられており、襟の返しが紫の唐織を壺折にしている。面は、曲見のような凛としているが悲しみをたたえた表情。

蘆屋の妻は、<サシ>で、妹背の仲であった夫婦がお互い離ればなれで、涙の雨の晴れ目も稀であるのを嘆く。この謡いは大変ゆっくりと、思い詰めたように、かつ「妹背の仲」などのシテの思いの募る言葉が強調され感情を込めて謡われる。蘆屋の妻は最初から。「清経」の妻や「鳥追舟」の妻などよりずっと沈痛な気持ちを抱えて舞台に現れるのだ。

蘆屋の妻が夕霧に気付くと、夕霧にこちらに来るようにと促す。ここで、蘆屋の妻が舞台に入って地謡前に置いた床几に座る。代わりに夕霧が一旦、橋掛リに出て、蘆屋の屋敷の中へと場面転換する。その際、蘆屋の妻と夕霧は橋掛リですれ違うが、この場面は、はからずしも、この曲のテーマとなる「すれ違い」を暗示するかのようだ。

蘆屋の妻は常座あたりに下居した夕霧に対して、今迄、風の便りすらなかったのに珍しい、と少し皮肉を込めて対応する。

夕霧は、蘆屋の某は、都では忙殺されていて「心の外(ほか)に」三年も経ってしまっていたのです、と、某を弁護する。

すると、蘆屋の妻は、「なに都住まひを心の外とや」というと、視線を夕霧から、この三年に想いを致すように、脇正方向に移す。都の花盛りには心を慰むものも多いが、鄙の里の秋には、人目も離れ、草も枯れ、頼みに出来るものもなく、思い出だけが身に残ったが、何もかも変わってしまった。人の言葉を信じた自分の心の愚かさよ、と、沈む心を、ゆっくりとしたテンポで謡うのだった。

そこに、秋の夜長、砧を打つ音が聞こえてくる。蘆屋の妻は、昔、唐土(もろこし)の蘇武(そぶ)が、胡国(ここく)に捨て置かれた時、古里の妻や子が、蘇武の夜寒の寝覚を思いやり、高楼に上って砧を打ったところ、その志が通じたのか、蘇武の旅寝の夢に故郷の砧の音が聞こえたという古い逸話を思い出す。この逸話は、小学館の『日本古典文学全集 謡曲集(二)』(赤い本の方)によれば、『和漢朗詠集私注』(平安末期成立)に記述があるそうで、やはりここでも、中世の注釈書に拠った解釈がなされているのだった。蘆屋の妻は、この砧の逸話通りに、自分も砧を打ちたいという。

夕霧は、砧は卑しき者が打つものであるが、奥様の気持ちが慰むのであればご用意いたしましょう、という。


ここで、夕霧は地謡前に行って下居し、蘆屋の妻は後見座に行き、物着となる。このとき、またもや、シテと夕霧は舞台上ですれ違う。人間はすれ違う二人を見ると無意識に寂しさを感じるようで、その場面は、まるで、モダンバレエの一場面のような気さえした。

蘆屋の妻は[アシライ]の中、物着で、唐織の右肩を脱ぎ、白地に金の露芝文様の小袖の着付が現れる。そして、後見が砧の作り物を正先に出す。

蘆屋の妻は、「恨みの砧打つとかや」で、扇で砧を一度打つ所作をする。以前、観世清和師の「砧」を観た時は、ここでは夕霧と蘆屋の妻の二人が砧を打つ所作をしていたように思うのだが、今回は、蘆屋の妻のみだったように見えた。蘆屋の妻の心情に焦点を当てるためだろうか。そういえば、この夕霧が実は、蘆屋の某と通じているとか、妻に心からは同情していないというような解説や感想をみることがあるけれども、今回の真州師の「砧」では、面も優しく思慮深そうな増系の面だし、妻を出し抜こうというような意図は感じなかった。

そして、<一声>の囃子で蘆屋の妻は立ちあがってゆっくりと舞うのだが、「衣に落つる松の声、衣に落ちて松の声、夜寒を風や知らすらん」の後、イロエのような箇所があり、寂寥感あふれる笛の音と相まって、妻の感の極まって行く様子が描かれる。

さらに謡いは続き、砧の音よ、夫のところまで届けという妻の願いや、七夕の一夜ばかりの逢瀬、八月、九月と秋になり、千声万声(せんせいばんせい)の憂きを人に知らせたい、という想いを地謡が謡うなか、妻は舞を舞う。この舞は夫を狂おしく慕う気持ちから、ほとんど狂気に近づく。

「ほろほろ、はらはらと」で砧を打つ所作をすると、「いずれ砧の大やらん」で、面を伏せる。

そこに、蘆屋の某の使いが来て、夕霧がそれを取り次ぐ。夕霧によれば、殿は、この秋も下向は無いという。

その言葉を聞いた妻は、嘘とは知りながら年の暮を待っていたのに、「さてはまことに変り果て給ふぞや」というと崩れ落ち、シオル。

「思はじと、思ふ心も弱るかな」という地謡と共に、妻はよろよろと立ち上がると、夕霧に後ろから支えられて、虚ろな足取りでゆっくりと橋掛リを歩いて行く。「乱るる草の花心、風狂じたる心地して、病の床(ゆか)に臥し沈み、つひに空しくなりにけり」で妻は中入りとなる。妻を幕の中に見送り、三ノ松でしばし立ち尽くした夕霧は、妻の不憫さにシオリをすると、そのまま中入りする。


狂言では、アイの下人(山本泰太郎師)が、常座に現れる。下人は、蘆屋殿が訴訟のため上洛したものの三年も経ってしまい、夕霧を先に送って、妻に年の暮には帰ることを伝えたこと、夕霧は妻に同情し、片時も離れることなく砧を打つ相手をしたこと、そこに都からの使いがあり、年の暮も帰れなくなったことを伝えると、妻は弱り空しくなったことを語る。痛わしいことをしたと、身内や見聞きしたものも話しあった。蘆屋殿も嘆き悲しみ、せめて梓にかけようと、今際の際まで使っていた砧を手向けた。今日、御弔いを執り行うので、所の者は、皆々、罷り出るよう心得候へ。そうと語ると、アイの下人は、橋掛リに出てきていた蘆屋殿に、仰せの通り触れ回った旨、伝える。蘆屋殿は、砧を置いてあるか尋ねると、アイは、さん候と答えて、切戸口から退場する。


後場では、蘆屋の某が、正先の砧の前で「無慚やなさしも契りし爪琴の、引き別れにしそのままにて、つひの別れとなるけるぞや」と、語る。その詞が、何か通り一遍な感じがしてしまって、ちょっと不満。しかし、考えてみれば、「無慚やな」という詞自体、少し突き放した視点を感じさせ、もしそうだとすると、このような悲劇が起こる片鱗を少し垣間見るような気もする。

<一声>では、太鼓が入る。これもまた、神様でも無いのに、と、思うが、クレッシェンドしていくその音は「船弁慶」の知盛の霊の出端に似ていて、梓弓で呼ばれた後シテの蘆屋の妻の霊の妄執の強さに背筋がぞっとする感じがする。面は本などには泥眼と書いてあるが、痩女のような表情。白地に細い金の縞に萩の花の文様の舞衣に白の大口。杖を突いて出てくる。蘆屋の妻の霊は、幕から出ると、じっと三ノ松のあたりに佇み、一ノ松まで、一足一足踏みしめて歩いて行くと、一声の「三瀬川、沈み果てにしうたかたの、あはれはかなき身の行方かな」を謡う。

何故、蘆屋の妻はそこまで思いつめてしまったのだろうと思うが、その後に、「さりながらわれは邪淫の業深き」という<サシ>があり、なるほどと思う。中世には、男女の恋の妄執に駆られた人は邪淫の罪となり、地獄に落ちると考えられていたのだった。

その後の地獄の描写は、いかにも中世のもので、「因果の妄執」、「炎にむせべば」、「呵責の声のみ、おそろしや」、「六つの道」、「火宅の門を出でざれば」という表現が続く。妻の霊は、古里を遠く離れた蘇武の夢に妻が打った砧の音が聞こえたのも、契の深い志があったからだと言い、どうしてあなたの夢には私の打った砧の音が響かなかったのでしょうか、と、ワキ座に居る蘆屋の某に詰め寄り、扇で床を打って、「思い知らずやうらめしや」で、シオル。妻の霊の激しい怨念が行き着くところまで行き着いてしまった時、舞台は一瞬の静寂に包まれる。

そして、地謡が、低い静かな声で「法華読誦の力にて、法華読誦の力にて」ではじまる<キリ>を謡うと、シテは、あれだけ強かった怨念からふわっと開放されたように立ち上がり、「幽霊まさに成仏の、道明らかになりにけり」で常座の方に行くと、「菩提の種となりにけり」で、成仏して、無音の中、橋掛リを去っていくのだった。


<番組>
能「砧」(観世流)浅見真州

シテ(蘆屋の妻・妻の霊) : 浅見真州
ツレ(夕霧) : 北浪貴裕
ワキ(蘆屋某) : 森常好
ワキツレ(従者) : 森常太郎
アイ(下人) : 山本泰太郎

笛   : 一噲隆之
小鼓 : 飯田清一
大鼓 : 亀井広忠
太鼓 : 小寺佐七
後見 : 小早川修, 浅見慈一
地謡 : 観世銕之丞,浅井文義,柴田稔,馬野正基,長山桂三,谷本健吾,安藤貴康,青木健一