国立劇場 文楽素浄瑠璃の会

平成24年度(第67回)文化庁芸術祭協賛 文楽浄瑠璃の会
源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき) 九郎助住家の段(くろすけすみかのだん)
      豊竹 咲大夫  鶴澤 燕 三
大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい) 身替り音頭の段(みがわりおんどのだん)
      竹本 文字久大夫  野澤 錦 糸
壷坂観音霊験記(つぼさかかんのんれいげんき) 沢市内より山の段(さわいちうちよりやまのだん) 
      豊竹 嶋大夫 豊澤 富 助 ツレ 鶴澤 寛太郎
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2012/1723.html

三者三様の面白い会でした。しかし、休日の楽しみが素浄瑠璃なんて、我ながら渋すぎる趣味。かつては、かわいいおばあさんになりたいと思っていたけれども、このまま行くと、渋いおばあさんになりそう。


源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき) 九郎助住家の段(くろすけすみかのだん)
改めて聴いてみると、語りも聴いていて面白いし、三味線もいちいち、感心したくなるほど、詞章に合っている。老若男女、上臈も武士も里人も出てくるし、涙もあるし、緊張感のある場面もあるし、最後はスカっとするし、どこを切り取っても面白い、さすが人気曲なのだ。

冒頭、ヲクリがしっとりとした感じで始まり、あれ、「九郎助住家」ってこんな始まり方だったっけと思ったら、段の後半、瀬尾の肘の詮議が終わって九郎助住家を出て行き、葵御前が太郎吉を連れて出てくるところから始まった。なるほど、上臈の女性が出てくる時は、こんな風にヲクリも変わるのだった。私は、その段の前半の九郎助と女房の小よしが、慌てて大まじめに「御台が肘を産んだ」と主張するところや、肘に関する瀬尾と実盛のやりとりも結構好きなので、ちょっと残念。けど、まるまる一段だと、演奏する方も大変だろうけど、聴く方も一日にこれだけの素浄瑠璃を聴くのは結構つかれるので、まあ、致し方無しというところだろうか。

最後は大満足で盛大に拍手をしたのでした。


大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい) 身替り音頭の段(みがわりおんどのだん)

国立劇場の事業として、錦糸さんらが中心となって復曲にあたり、明治二十五年以来百二十年ぶりに、今年3月に試演された、稀曲とのこと。好評だったため、今回も演奏されたのだという。

物語の筋は、いかにも浄瑠璃風に入り組んでいる。

後醍醐帝の若宮を討とうとする佐藤太郎左衛門から若宮を守ろうとする永井右馬頭宣明・花園夫婦が二人の子供、鶴千代を若宮の身替わりにしようとする。物語の中では、右馬頭宣明夫婦と鶴千代の悲劇を、中世説話の『満仲』に出てくる多田満仲の末息子、美女御前と、美女御前を討てという命を受けた満仲の家臣、仲光が美女御前を討つのに忍びなく、自らの子、幸寿丸を身替わりにして討ったという物語を引いて哀れを際だたせる。しかし、佐藤太郎左衛門が討ったのは、若宮でも鶴千代でもなく、実は自分の孫、力若丸だった。朝廷方に仕えた自分の娘聟が無駄死といってよいような死に方をしたため、子の力若丸を若宮の身替わりとして父の汚名を晴らさせた、という複雑な筋。

その様子を見た右馬頭は、鶴千代の髻(たぶさ)と自分の髻(もとどり)を切って仏門に入り、諸国修行を志す。何故、右馬頭がいきなり仏門に入るのか、ちょっとピンと来なかった。後から考えてみて、太郎左衛門が自分の孫の命を奪ったのは、娘婿の死を無駄にしないためと言いつつ、本当は若宮と鶴千代とを助けるためだったと右馬頭は察して、その情けに深く感じ入ったからかな、という気がした。もう少し集中して聴けば良かった。反省。

また、若宮のかわりに自分の孫の首を討つというのは、何となく、「熊谷陣屋」を思い出させるラストだ。「熊谷陣屋」で最後に直実が出家するのは、御伽草子幸若舞の『敦盛』の影響だと思っていたけれども、肉親による身替わりの打ち首と出家いうモチーフは、こんな物語からもヒントを得ているのかもしれない。


壷坂観音霊験記(つぼさかかんのんれいげんき) 沢市内より山の段(さわいちうちよりやまのだん) 

嶋師匠の描く、お里と沢市のお互いがお互いを真剣に思い遣るが故に、崖からの投身というところまで、それぞれに自分達を追い込んでしまう二人の切実な想いに、心動かされた。先の二つの浄瑠璃らしい浄瑠璃とはまた違った物語だけれども、シンプルに二人の心情のみを追いかけていくだけに、語りと三味線だけの力で惹き込まれて行くのが快い体験なのでした。

それから、段切に出てきたツレの寛太郎さん。演奏自体はちとバラけていたけれども、堂に入った弾きぶり。嶋師匠の大団円の語りに花を添えて、気持ちの晴れ晴れとする終わり方でした。