東二口文弥人形 レクチャー&デモンストレーション

【関連プログラム:レクチャーデモンストレーション】
日 時:2012年11月3日(祝)18:00
会 場:富士ゼロックス(株) 会議室 (港区赤坂9-7-3)
料 金:一般2000円/学生1800円
http://www.puppet.or.jp/puppetArchives/entryarchive/post_125.html


先月、文楽の地方公演の相模原公演に行った時にもらったチラシの束の中に、石川県白山市の東二口というところの伝統芸能、「文弥人形」というものの公演についての、パンフレットが入っていた。江戸時代初期の大和絵から飛び出して来たような古風な面立ちの、もの言いたげな表情の人形の写真が何ともゆかしく、また、演目も、近松門左衛門の『出世景清』とあって、興味を押さえ難く、レクチャーと『出世景清』の公演を観に行きました。

レクチャー&デモンストレーション

今回観たのは、白山麓の東二口という村に伝わる一人遣いの人形を使った芝居で、「でくのまわし」と呼ばれるもの。文弥節とうい浄瑠璃なのだそうだが、近松の『出世景清』や『大織冠』、『門出八嶋』等がレパートリーというだけあって、義太夫節を素朴にしたようなもの。その昔、村の若者が京や大阪に赴き当時流行の人形芝居を習い覚え、明暦1年(1655)頃に始まったという伝承があるという。

文弥人形というのは、構造はとてもシンプルで、肩板となる部分と、心棒(文楽でいう胴串)、それから頭部しかなく、いわば、案山子(かかし)のような構造だ。三百年以上前も前からあるのだから、その間に一人くらい、「手をつけてみようか」、とか、「足をつけてみようか」とかいう人が出なかったのか?と思ったりもしたくなるが、そういう発展の仕方はしなかったらしい(胴串と頭部を切り離して、肩板と頚部の間に少し遊びをつくって頭部を動かせるようにした人形はある。「ガクガク」、「ウナズキ」と言うそう)。しかし、実際の公演を観れば、たちまち、そういう小細工的な改良は文弥人形においてはむしろ邪道だと理解することが出来る。

そして、そのような人形を、どうやって動かすかというと、人形廻しの人は、右手を人形の右手側に入れ、左手は胴串に当たる部分を持ち、両脇を締めた姿勢で人形を自分の顔の前に持っていく。基本の動きは、「三番叟」の「揉の段」のように足をクロスさせながらの横歩きで上手方向に三歩歩いて下手に二歩で下がるというのを延々と繰り返すというものだ。

私は「人形廻し」という言葉の「廻し」が何故、「旋回する」という意味の「廻し」が当てられているのか、今まで疑問だったが、その人形を顔の前に当てながら三歩前進二歩後退という動作を繰り返す様子を見て初めて、これは「廻す」という字が当てられているけれども、実は、「舞わす(make a puppet dance)」という意味なのだということを悟った。実際、翌日、文楽公演を観に行ったのだが、そのパンフレットには、中沢新一氏が、人形を「舞わす」と書いていらっしゃって、ますます合点がいった。また、文楽人形のようにその動きの演劇性が強くなると、「人形廻し」という言葉がしっくりせず、「人形遣い」という言葉が使われるようになるのも、考えてみればもっともなことだ。

しかしながら、こんな「三歩前進二歩後退」という単純な動きだけで、何時間も飽きずに観ることが出来るのか不安になってくるが、実際に公演を観てみると、ぜんぜん飽きたりしない。むしろ、浄瑠璃のシンプルな旋律と人形廻しの人の舞のリズムが心地よく、いつまでもいつまでも観ていたくなる。人形と呪術の関係性というのは、こういうリズムから生まれるのだと納得できる気がする。

レクチャーでは、文弥人形保存会の会長の方も、人形を廻す心得として「人形を廻すのではなく、人形に廻される気持ちで廻すのだ」とおっしゃっていた。この言葉を受けて、ゲストスピーカーの宇野小四郎さんが、「大変良い言葉だ。これは人形劇に共通する考え方で、自分の力で廻そうとすると自分の力の分しか廻すことが出来ないが、人形に廻されるという気持ちで廻せば、自分の力以上のことが出来るのだ」という趣旨のことをおっしゃっており、強い感銘を受けた。きっと、観る方だって、自分の理解の範囲内で解釈しようとするのでなく、人形や語り、三味線、そしてそれらが作り出す物語そのものにも心を委ねてみた方が、自分の理解を越えたところにあるものに触れることが出来るかもしれない。

また、レクチャーでは、語りと三味線についても、解説があった。

語りは独特の抑揚とメロディで語られる。文楽などのように首に応じて、声色を遣い分けるかの如き語り方はしないが、お能の謡のように、女人形(と言っていた)の時は柔らかい語り口に、男人形の時は勇壮に語るというような語り分けはある。

曲節には、様々なものがあり、1.言葉(たぶん台詞の意)、2.憂い(うれい)、3.道行、4.舞、5.攻め(段切に必ず入るという)、6.口説き、7.三重(三味線の三重)、8.掛け合い、9.立掛け、10.落とし、11.競い(きおい)、12.突止め、13.三番叟、14.口上等があるという。これらの中でもたとえば、道行は、さらに、女道行、男道行、船道行といった種類に分かれる。たとえば、女道行は、『源氏烏帽子折』の中の、常盤御前が平家に追われ、牛若丸等を引き連れ雪の中を逃避行する時の語りが典型とされている。船道行は、『門出八嶋』で佐藤継信、忠信兄弟のために父の佐藤庄司が鷲尾信夫兄弟に重代の家宝の鎧を継信に届けさせようとするが、その船での鷲尾信夫兄弟の道行の際に船道行の例だという。

床本は、昔は金沢に浄瑠璃を加筆修正する人がいて(主に近松の字余り字足らずの詞章を五七五のリズムに改変する人がいたとのこと。名前失念)、そこに本を買いに行ったのだそう。また、近松の時代以降も古い版木が残っていたので、その後も入手出来たようだ。しかし、当時、本は大変高価だったため、若手の語り手は師匠の語りを聞いてそれを紙に書き写して自分の本を作ったのだとか。そして師匠がある日、若手の語り手に語ってみるように言い、合格すると、その貴重な本を貰い、受け継ぐことが出来るのだとか。

三味線の方は、基本的には、文楽のように語りと平行して演奏されるのではなく、平曲の琵琶のように、語りの合間に、合いの手として短調アルペジオがジャランと入る。そのようにして、語りにリズムをつけているようだ。また、語りと平行して演奏される旋律もある。たとえば半音ずつ音階を上がっていくもので、リズムも四分音符3つの後に続けて三連符3つというような、とってもシンプルな旋律を延々と繰り返すのだ。船道行という曲節にもこれが使われる。これが、波間を漂っているような、哀愁に満ちた情景を描き出すという効果をもたらす。

ただ、残念なことに、三味線の音階と語りの音階は、無関係で、三味線は純粋にリズムを刻むために使われているようだ。語りには独特の抑揚があり、時として複雑な旋律がつけられていることを考えると、ひょっとすると当初は三味線も文楽のように語りと同じ音階で演奏されていたが、どこかの時点で伝承が途絶えてしまってしまったのではないかという気もする。実際、昔は三味線の譜面もあったのだとか。しかし、以前、文楽関係者が村に来て三味線の譜は無いかと尋ねたので、村の人が蔵を探してみたが、無かったのだという。三味線のような楽器演奏技術の修得・維持には、幅広い音楽的修練も必要とするはずなので、村に熟達した三味線奏者がいるならいざしらず、文弥人形の人形芝居の伝承だけで三味線演奏技術を継承して行くのは、確かに難しいだろうとも思う。

現在、文弥人形の公演は基本的に、2月の土日に行われるそう。もともとこの時期の文弥人形の芝居は、2月の節分、つまり旧暦の正月に行われる行事なのだそうだ。演目やその順番も決まっており、『源氏烏帽子折』(義経元服するお話)から始まり、『大江山』(酒呑童子のお話)で終わるのだという。特に『大江山』で終わるというのは、鬼退治があるからで、年の始めに当たって鬼を退治し、新年を寿ぐ意味があるのだそう。かつて二十数演目のレパートリーだった文弥人形は今は、5演目になってしまっているが(パンフレットには、「出世景清」、「大織冠」、「源氏烏帽子折」、「門出八島」、「嫗山姥」、「酒天童子」とあるが、レクチャーでは、このうち「嫗山姥」は現在やっていないと言っていたような)、その生き残った演目というのは、生き残るべくして生き残っており、たとえばこういう公演で重要な意義を持つものなのだとか。したがって、文弥人形の芝居は、単にお芝居を観るというものではなく、呪術性をもった神事に近いものがあるのだというのが、宇野先生の解釈だった。

古浄瑠璃の一分野に金比羅浄瑠璃というのがあり、渡辺綱坂田金時等の四天王、さらに時代が下るとその子供世代が主人公となって、敵と戦を繰り広げる。この金比羅浄瑠璃がある時期、非常に盛んになったのだが、そんな単純な話がどうしてそんなに人々を魅了したのか、良く分からなかった。でも、そういう話を聞くと、「大江山」という物語が、私が思っている以上に中世や江戸初期の人々にとって、身近な物語だったということが、少し分かる気がする。


というわけで、11月10日の『出世景清』の公演の感想に続きます。