横浜能楽堂 連歌盗人 雨月

横浜能楽堂企画公演「能・狂言に潜む中世人の精神」
第1回「歌」 平成23年1月8日(土) 14:00開演 13:00開場

講演 馬場あき子(歌人
狂言連歌盗人」(大蔵流
 シテ(盗人・甲)山本東次郎 アド(盗人・乙)山本則俊 アド(主)山本則重
能「雨月」(観世流
 シテ(尉・宮人)大槻文藏、ツレ(姥)上田拓司、ワキ(西行法師)福王和幸、アイ(末社の神)山本則秀
 笛:松田弘之 小鼓:古賀裕己 大鼓:柿原崇志 太鼓:金春國和
 後見:赤松禎英、武富康之
 地謡:阿部信之、小早川修、松木千俊、泉雅一郎、馬野正基、北浪貴裕、長山桂三、安藤貴康
http://www.yaf.or.jp/nohgaku/

大槻文蔵師のシテに、山本東次郎師のアイ、笛の松田弘之師、大鼓の柿原崇志師に加えて、馬場あき子さんの解説、西行が出てくる和歌の功徳を讃える曲と、私好みの素敵な企画。大変楽しい観劇始めとなりました。


講演 馬場あき子(歌人

馬場さんのお話で面白かったのは、中世の人々は、「清貧」と「巨万の富を使い無に帰する」という二つの全く反対の態度を持ちつつも、それにより「無」に通じるという共通の美意識を持っていたというお話。「清貧」というのは、地位も名誉も富も無い状態でも、魂さえ高級であればよいという考えで、中世の美意識を象徴しているという。一方、平安時代とは違い、桁違いの豪奢な富を湯水の如く使うことで実現される美というのもまた中世の美意識なのだという。例として、『太平記』に出てくる戦国の世の婆姿羅大名、佐々木道誉の花見の宴の逸話を引いていらっしゃった。

太平記』巻三十九の「大夫入道道朝讒言に依りて没落の事」には、佐々木道誉大原野勝持寺の庭に、周囲が十囲(約15m)にも及ぶ桜の大木が四本あったのを二組の立花と見立てて、周囲に一丈(3m)あまりの真鍮の花瓶を鋳掛けたという話が載っている。佐々木道誉はその二組の立花と見立てた桜の間に香炉を置いて一斤(600g)の名香を焚き、その陰に幔幕を引き、贅を尽くした宴を行ったという。よくよく読むと、そもそも道誉は求道心からそのようなパフォーマンスを行ったのではなく、道朝という自分の気に食わない金満大名が同日に将軍の館の桜を愛でる宴を執り行うというので、これ見よがしにこのような一大パフォーマンスを行ったのだった。まるで子供のケンカだが、このようなしょうもないことに浪費してしまうところが、室町時代の時代の空気を色濃く反映しているのだろう。考えてみれば、勝持寺の桜といえば、お能の『西行桜』に出てくる西行の愛でた桜であったわけで、鎌倉時代室町時代は随分と時代の雰囲気が違うのだと改めて思わされる。もし、道誉が宴を催した時に西行が生きていたら面白かったのに!


狂言連歌盗人」(大蔵流

連歌の会の当番に当たった東次郎師は七十人分のもてなしをしなければならなくなった。裕福でない東次郎師の持つの七十人分かい敷のみ。副当番の則俊師の方でそれ以外の準備が整わないかと相談に行くと、こちらも七十人分の杉楊枝があるのみ。これでは連歌の会を催すことができない。そこで考え付いたのが裕福な則重師の家から調度品を盗んでくること。二人は早速則重師の家に押し入り、居間を物色する。そこで見つけたのは、「水に見て月の上なる木の葉かな」(水鏡に映る月に水面の木の葉がかかっていて、まるで月に木の葉がかかっているようだ)という連歌の発句。思わずその場で二人は脇句を考えていると…というお話。

付句の中で、「時雨の音を盗む松風」というのがあって、「雨月」の詞章と呼応していて、さりげなくオシャレな選曲。

盗みに入った盗人(山本東次郎師)が、主の家の居間にある茶道具や武具を一品一品いちいち感心するのが、おもしろい。これだけ感心されたらこの家の主ならずとも嬉しく思うだろう。盗人が家の主の発句をみて、つい連歌を始めてしまうところや、主が発句に盗人が附句したものに興を覚えてさらに新しい発句を作って盗人の成敗はそっちのけで連歌を始めてしまうあたりは、描写が生き生きとしていて、この狂言を作った人はきっと連歌が大好きだったのではないかと思わせるものがある。最後は盗人が小舞を舞い、めでたく収まるのでした。この狂言、とっても気に入ってしまいました。


能「雨月」(観世流

最初に作り物が後見によって運び込まれてくる。作り物は屋根の一部が欠けた板屋で、カーキ色の地に細い金の線で繋ぎの文様が施してある。

ヒシギの後、[次第]の囃子でワキの西行法師(さいぎょうほっし、福王和幸師)が出てくる。濃紺の水衣に納戸色の着付無地熨斗目、ターコイズブルーの角帽子の上に更に黒の塗傘をかぶっている。西行法師は名乗り座で後ろを向き、次第の、
「心を誘ふ雲水の。心を誘ふ雲水の。行方やいづくなるらん」
を謡う。塗笠を脱いで正面を向くと、名乗りをする。名乗りの中で、
「嵯峨の奥に住まいする西行法師にて候」
というのが面白い。一昨年の秋、関根祥六師の「定家」を観て定家が隠遁して小倉百人一首を編纂したという時雨亭の跡にどうしても行ってみたくなったので、後日、時雨亭の跡である可能性が高いとされる嵯峨の常寂光院と、もうひとつ、そこに程近い二尊院に行った(二尊院にも時雨亭の遺構と言われるものがある)。その際、二尊院内の門付近に西行の庵の跡、そして二尊院から少し離れたところに西行の使った井戸の跡があった。このお能に出てくる西行は、あの二尊院西行の庵から住吉神社のある住之江まで歩いて来たのだろうか。

そして西行は、
「住み慣れし、嵯峨野の奥を立ち出でて。嵯峨野の奥を立ち出でて。西より西の秋の空。月を行方のしるべにて。難波の御津(みつ)の浦傳ひ。入りぬる磯を過ぎ行けばはや住の江に着きにけりはや住の江に着きにけり」
という道行を謡う。

住吉に着いた西行は、ここかしこをさすらい歩く。そうこうするうちに、日が暮れ、火の光が灯る釣殿を見つけたので、宿を借りようと考える。

ここで引き回し幕が下ろされ、笛側にシテの尉(大槻文蔵師)、太鼓側にツレの姥(上田拓司師)が板屋の中に現れる。尉は床几に座ったまま、
「風枯木(こぼく)を吹けば晴天(はれてん)の雨。月平沙(へいさ)を照らせば夏の夜の霜。それさへあるに秋の空。余りに堪へぬ半ばの月。あらおもしろの折からやな」
と謡う。

西行が庵の主の尉に宿を貸してほしいと所望すると、尉は見苦しき柴の庵なのでもっと先で宿を探してほしいと一旦は断る。しかし、姥が尉に、法師は世捨人で痛わしいので泊めてあげましょうと口添えする。二人は、「しかしながら、月を見たいので屋根を葺きたくないという姥と雨音を聞きたいので屋根を葺きたいという尉の意見が折り合わず結局屋根を葺いていないので、どこにお泊めいたしましょう」という内容を謡う。

そんな話をしていると、
「賤が軒場を葺きぞわづらふ」
という下の句が出来たので、尉は西行がこの下の句に上の句を付ければお泊めしましょうと申し出る。西行はその下の句が出来た理由を考えて、
「月は漏れ。雨は溜まれと兎に角も」
と上の句を付ける。
尉は、
「面白の言の葉や」
と感嘆すると、西行を招じ入れ、
「折しも秋半ば。折しも秋半ば。三五夜中の新月の。二千里の外(ほか)までも。心知らるる秋の空。雨は又瀟灑(しょうしょう)の。夜のあはれぞ思はるる」
という地謡の上歌と共に板屋を出て尉は舞台中央、姥はシテ柱近く、西行法師はワキ座にそれぞれ下居する。

姥が尉に、
「なうなう村雨の聞こえ候」
と言いかけるが、実は秋風が軒端の松に吹き来たのだった。
さらに地謡が引き継ぎ、
「雨にてはなかりけり。小夜の嵐の吹き落ちて。なかなか空は住吉の。所からなる月をも見。雨をも聞けと吹く」
と謡うと、尉と姥は立ち上がり、「住吉の」で尉は中正方向を遠くを見晴らす。
「閨の軒端の松の風。ここは住吉の。岸打つ波も程近し。仮寝の夢もいかならん。よしとても旅枕さらでも夢はよもあらじ」
の「軒端の松の風」で尉は後ろを向き、作り物の屋根を見る。
「いざいざ砧打たうよいざいざ砧うたうよ。」
で尉は姥を見る。
「浮世の業(わざ)を賤(しづ)の女(め)は。雨寒しとて衣うつ。身の為はさもあらで。秋の恨みの小夜衣月見がてらに打たうよ。」
で尉は舞台中央で正面を向くと扇を取り出して舞を舞う。

尉は西行に、
「はや夜も更けたり旅人も御休み候へ」
と言うと、地謡が引き継ぎ、
「ここはもとより所から。年も津守の小尉なれば、老衰の眠り深き夢に返る古(いにしへ)を。松が根枕して共にいざやまどろまん」
と謡う。この「老衰の眠り深き」以降の前場最後の地謡のフレーズから、急に一拍が2秒近いかと思われるような大変ゆっくりとした謡に変わり、尉が実はただならぬ者であることを予感させる。そのことは、舞台中央から橋掛リの入り口までゆっくりと歩みを進める尉が、今までとは違い、その後ろ姿に神がかった雰囲気を漂わせていることからも読みとれる。さらに太鼓入りの[来序]の囃子が、観客にこれから何事か尋常でないことが起こるということを確信させる。そして、尉が中入りし、作り物が下げられると絶妙なタイミングで笛の音が軽やかな[狂言来序]に変わり、囃子に引かれてアイの末社の神(山本東次郎師)が神妙に踊り出てくる。この「老衰の眠り深き」の地謡からアイの出のところまでの地謡と囃子(特に笛)の旋律の変化の妙と、シテの去っていく後ろ姿が段々と神がかって来る様子、狂言来序と共に出てくるアイの軽やかさといった一連の舞台上の変化が、本当にぞくぞくするくらい、素晴らしかった。リムスキー・コルサコフの音楽の、切ない哀愁を帯びた短調の旋律が展開に展開を重ね、一気に明るい長調に転じるのを聴くのと似たような面白さがある。

アイは住吉神社末社の神であると名乗る。頭巾に水衣、括袴で面を付けているが、この面が東次郎師にちょっと似ていて少し微笑ましかった。

末社の神は、まずは住吉明神が異国の戎から国土を守る国土安全の神であり、中でも和歌の道を守護していることを告げる。そして住吉明神西行が参詣したことをうれしく思い、松の下に結んだ庵の主である尉となって、先ほどのような次第となったのだという。明神はことのほか喜び、和歌の極意について西行と朝方まで語りあったが、西行が少し微睡み目を覚ますと、明神も庵も無かった。西行は不審半ばであったので、明神から急いで子細を知らせよとの神勅があった。それで末社の神は西行に知らせに来たのだという。

末社の神は西行に先ほどの尉は住吉明神であったことを告げ、今度は宮人に乗り移って御託宣を下されるという。しかし、宮人がまだ来ないので、舞を舞って西行をお慰めしよう、というと、太鼓入りで、ソラ、ソラ、ソラーシラソラというような感じの笛の旋律の囃子に乗って狂言小舞を舞う。末社の神は舞おさめるとそのまま幕入りし、それと入れ違いにヒシギが響く。

[出端]の囃子の中、後見が幣の乗った幣台を正先に置くと、後シテの住吉明神の乗り移った宮人が幕から現れる。烏帽子にくすんだ茶の狩衣に黄土色の大口。面は舞尉で、「翁」の面のようにほとんど微笑んでいるかのように見える。宮人は一ノ松で止まると、
「あら面白の詠吟やな。陰陽二つの道を守る。その句を分かつて五体とす。木火土金水なり。上下は即ち天地人の三才はこれ詠吟なるべし」
と謡う。
宮人は西行を見ると、
「われをば誰とか思ふ。忝くも西の海。檍(あをき)が原の波間より。(地)現れ出でし。住吉の。(シテ)神託正に。疑はざれ」
と謡い、舞台に出てくると、幣台の上の幣を両手で掲げて一礼する。
宮人は、
「抑(そもそも)もこの神の因位(いんに)を尋ね奉るに。昔は兜率(とそつ)の内院にして。高貴徳王菩薩(こうきとくおうぼさつ)と号し。居間はまた玉垣の。内の國に跡を垂れ。和歌を守りて住の江や。松林(しょうりん)の下に住んで。久しく風霜を送る。ここに和歌の人稀なる処に。西行法師歩みを運び給ひ。心を述ぶる和歌の友とて。神明納受(しんめいのうじゅ)垂れ給ふこれによつて。神慮の程を知らしめんと。宣禰(きね)が頭に乗りいうつる。謹上」
といって幣を振りかざすと、地謡
「再拝」
と受ける。

この後、[真序舞]となる。

荘重な地謡が、
「ありがたの影向や。ありがたの影向や。返す心も住吉の。岸打つ波も松風も。颯々(さつさつ)の鈴の声。ていとうの鼓の音和歌の詠吟舞の袂も同じく。心詞(ことば)に現るる。その風等しかりけり」
と謡う。鈴の音を「颯々」、鼓の音を「ていとう」というのは、当時の定まった擬音らしく、そういえば幸若舞の『舞の本』の中にも同様の表現があった。

地謡が続いて、
「これまでなりや居間ははや疑わで神託を。仰ぐべしと木綿四手の神は。上(あが)らせ給ひければ。」
で宮人は座ると、「上らせ給ひければ」でがくっと力を落とし、
「もとの宮人となりて。本宅に帰りけりや。もとの方に帰りけり」
で、宮人は名乗り座近くでくるっと正面を向くと左の袖を巻いて、留拍子を踏む。


ちなみに写真は秋の嵯峨野の写真です。奥に映っている生垣の左手辺りに西行井戸があります。右手は芭蕉が『嵯峨日記』を書いた落柿舎です。