国立文楽劇場 4月文楽公演 妹背山婦女庭訓(その1)

関西元気文化圏共催事業 平城遷都1300年記念事業協会=後援
4月文楽公演 吉田簑助文化功労者顕彰記念

通し狂言妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)

◆第1部 11時開演
 初 段 小松原の段・蝦夷子館の段
 二段目 猿沢池の段
 三段目 太宰館の段・妹山背山の段

◆第2部 16時開演
 二段目 鹿殺しの段・掛乞の段・万歳の段・芝六忠義の段
 四段目 杉酒屋の段・道行恋苧環・鱶七上使の段・姫戻りの段・金殿の段
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3173.html

去年の「千本」の通し以上といいたいくらい、素晴らしい狂言だった。観ることができて本当に良かった。

どの段の誰が良かったなんて一々書くのは愚かしい程、どれも素晴らしかったけど、敢えて言えば、やはり山の段だ。今の文楽座の最高の配役、最高の床と手摺で最高峰の曲を鑑賞することができる幸せを噛みしめた2時間だった。もう聴く機会がないなんて、とても悲しい。東京でも是非にやってほしいけど、あの両床は文楽劇場の方がきっと迫力あるし、東京だとチケット争奪戦もどうなってしまうことか!

それから第2部のハリケーンお三輪(勘十郎さん)。今までお三輪の印象というと、特に「金殿の段」のお三輪は、運命に翻弄される少女というイメージだった。が、勘十郎さんのお三輪は周囲を騒動の渦に巻き込んで行く、台風の目のような少女だ。観ているうちに、通しならそれもアリかなという気がした。というのも、天智天皇、曽我入鹿、藤原鎌足という人々の思惑渦巻く国家レベルのスケールの謀略の物語を、在所の酒屋の平凡な娘、お三輪が締め括らなければならないからだ。お三輪があれだけ大車輪で観客をも有無を言わさず夢中にさせてくれなかったら、「これだけ話広げるだけ広げといて最後は在所の娘の生血と鹿の血で解決なんてレベルの結末でいいの?」みたいな拍子抜けな気分になってしまうかもしれない。

改めて思うのは、半二の「妹背山女庭訓」が名作だということ。これまで、私の中では近松といえば「情」、竹田出雲・並木宗輔といえば「本格派大曲路線」、半二といえば「どんでん返し」という、何となく近松・竹田出雲・並木宗輔の一段下というイメージがあった。しかし、今回、半二の「妹背山」の詞章を改めて読んでみると、その緻密さに驚く。特に、様々な歌や説話から引いた設定を緻密に構築しているのだが、この緻密さは伊達ではない。更には、必ずしも詞章に現れない部分にも色々な仕掛けがある。例えば、今回通しで観て初めて気がついたけど、妹背山は山の段に象徴される春の話だけでなく、初段は紅葉の秋から始まり、蝦夷館の段の雪、山の段の桜、杉酒屋の段のお三輪の持つホオズキ(夏)、鱶七上使の段の入鹿館の菊、と一年の季節が廻る様子をさり気なく描いている。そんな調子で全般に亘ってイメージの洪水で頭がクラクラしてしまう。

しかもその設定を活かしながら、緊張感を孕みつつ、スピーディーで飽きさせない筋にして成功を収めている。例えば、ほとんどすべての主要人物が各々対立する立場に属しており、人対人の対立が物語に緊迫感を与えている。それだけではなく、各々の登場人物は、その対立から切羽詰った心理状態に追い詰められており、平静を装って対話しているように見えても、その実、ちょっとバランスを崩せば爆発するか崩れ落ちる危険を秘めている。そういった尋常ならざる様子が大夫の語りや三味線、人形のちょっとした仕草から感じられるだけでなく、何度も観れば観る度に発見があるはずで、初演で大当たりをとったというのも納得できる。私だって事情が許せば何度でも観たい。

ちなみに、その半二の緻密な仕事には、ツッコミたくなるようなご愛嬌の部分もある。
例えば、先にも書いたが、入鹿に対向する秘策が「爪黒の血汐と疑着の相のある女の生血」っていうのも一見オドロオドロしいが、ちょっと考えてみると疑問も湧く。だいたい入鹿は一応人間で妖怪とかではないのだから、流石にそこまで小細工しなくても普通に対抗すればいーんじゃないの?
それから、鹿の一件では芝六家の悲劇があったけど、鱶七の主=鎌足天智天皇側なのだから、鹿の禁猟の件は天智天皇の免罪符発行などで何とでもなったのではないだろうか?
もう一つ、宮越玄蕃。こやつは初段の「小松原の段」で雛鳥と久我之助の出会いの場に割って入り、「一体この雛鳥には某が大執心」などというから、てっきり筋に絡んでくるのかと思ったら、登場シーンが多いわりには全然絡んでこない。近松だったら、まず最初に雛鳥と久我之助を窮地に陥れるのが玄蕃の役なのに、腰元のお菊にいいようにあしらわれて終わり。

…ああ、全然書き足らないので、後日に続きます。