国立文楽劇場 4月文楽公演 妹背山婦女庭訓(その2)

通し狂言妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)
◆第1部 11時開演
 初 段 小松原の段・蝦夷子館の段
 二段目 猿沢池の段
 三段目 太宰館の段・妹山背山の段
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3173.html


つづきです。

初 段 小松原の段・蝦夷子館の段

太夫は並び(南都大夫、つばさ大夫、芳穂大夫、文字栄大夫、始大夫、希大夫)で三味線が団吾さん。三味線が非常に面白いのだが、パンフレットによれば、この初段と二段目の猿沢池の段は、野澤松之輔の補曲となっている。野澤松之輔は色々な狂言の端場の補曲をしている。私は端場が結構好きだけど(大体三味線がいいか、チャリ場や大夫の芸の見せ場があるから)、端場の楽しさの一部は松之輔のお陰だ。そして団吾さんの三味線も采配も素晴らしかった。最近、団吾さんの三味線はまるでロックなのだ。


春日大社の社頭近くにあるという小松原という場所が舞台となっているけれども、不可思議でもあり象徴的でもある。不可思議というのは、春日大社が出来たのは、神護景雲2年(768)に創建されたという記録があり、もし記録通りならこの物語の時代にまだ存在しなかったから。しかし、一般的には和銅三年(710)、藤原不比等淡海公; 659-720)が勧請したと考えられているのだそうだ。どちらにしても、淡海が若かった頃には春日大社は無いのだけれども、淡海との関係で春日大社が出てきたに違いない。

そして、春日大社は半二にとっては、「妹背山女庭訓」のアイディアの源の一つだったようだ。まず、橘姫にも関係あるように思える。「春日権現験記絵」にあるエピソード(巻一)には、橘氏(たちばなうじ)の女(娘)が、春日社頭で宣託を受け、自分は「慈悲万行菩薩(じひまんぎょうぼさつ)」という名であり、「太政大臣はおろか、左右の大臣、公卿の要職まで、すべて辞任するよう」という託宣を告げた、とある。橘氏というのは、ここでは橘諸兄等を先祖とする橘氏だけれども、この橘氏の女というのが、橘姫の名前の由来なのではないかと思う。また「すべての大臣、公卿の辞任」を求めるというのが、この物語の筋に影響を与えているのかも。何故そんなことを半二や江戸時代の観客が知っていたのかというのが疑問だけれども、例えば、藤原家の近衛家煕(1667-1736)が渡辺始興(1683-1755)と共に「春日権現験記絵」の模本全二十巻を作っているので、ひょっとしてそういうプロジェクトがあることを人づてに聞き知っていたりしたのかもしれない。

ついでに雛鳥と久我之助の名前の由来は、謡曲の「船橋」だと思う。「船橋」は 「上野佐野の船橋取り離し 親は離(さ)くれど吾は離るがへ」(万葉集第十四、3420)という歌の背景にある伝説からとったもので、川を挟んだ所に住む男女が親の反対にあって二人とも死んでしまうという悲恋のお話。間狂言には、先に死んだ男の死体を探すために死体のところに飛んでいくという雛鳥を川で飛ばしてみるが、いなくなってしまったということが語られる。ここに雛鳥という名前が出てくる。ちなみに、船橋というのは、舟をつなげて橋にしたもので、久我之助清舟という名前は船橋から来ているのだろう。

全然終わらないのでつづきます。