国立能楽堂 定例公演 吹取 烏頭

定例公演 吹取 烏頭
狂言 吹取(ふきとり) 石田幸雄(和泉流
能  烏頭(うとう) 塩津哲生(喜多流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3211.html



西行桜」、「熊野」に、文楽「妹背山女庭訓」の妹背山の段を見て、すっかり桜気分だったので、「烏頭」みたいな陰惨な話の詞章を事前に読むのが億劫で仕方なかった。けれど、観てみればこれもまた心に突き刺さるお話。折しも、公演当日はみぞれかと思うような雨も降って、能楽堂を出たらまるで「烏頭」の舞台である日本の北限、奥州外の浜に来たみたいだった。「烏頭」の公演に合せて観測史上44年ぶりの寒気まで呼び込んでしまう塩野哲生師、恐るべし!


狂言 吹取(ふきとり) 石田幸雄(和泉流

男(石田幸雄師)が清水寺で妻を娶りたいと観音様に祈る。すると、五条橋で笛に引き寄せられて来る女が妻であるという。男は早速妻を見つけに行こうとするが、実は笛を吹けない。そこで男は笛を吹く何某(野村萬斎師)に代わりに吹いてもらうことにする。そこに観音様のお告げ通り、小袿をかづいた女(竹山悠樹師)が現れるが…というお話。

笛は通常は演者は吹く真似をし、笛方が吹くとか。しかし今回は萬斎師が自分で吹いていらっしゃいました。最初こそ音がかすれていましたが、途中からは十分管も鳴って良い感じでした。さすが。

ところで、パンフレットの井上愛氏によれば、「笛は古代より貴族の必須教養として求められてきました」とか。そーなんだ。ということは、牛若丸が五条の橋を笛を吹きながら歩くとき、実は、「誰だか知らねど高貴なお人」という意味があったのか。私はてっきり、「iPodウォークマンもない時代、音楽聴きながら歩きたかったらポータブルな笛を持って歩くのは当然だろう、琴彈きながら歩くわけいかないし!」ぐらいに思っていたが…壮大なる的外れだった。


能  烏頭(うとう) 塩津哲生(喜多流

喜多流のみ「烏頭」と書くとか。チケットをとったときは「からすあたま」ってなんじゃ?と思ったが、公演2週間ぐらい前に自分のスケジュールをチェックしていて、たまたま「烏」を「う」と読み、あれっと思い、そのまま「頭」を「とう」と読んでみたところ、「うとう(善知鳥)」だということに気がついたのだった…。

で、公演はかなり面白かった。「烏頭」の詞章がかたち作る物語世界を表現するために様々な演出が施されていて視覚的にも音楽的にも「烏頭」の世界がそのまま舞台に現れた感じだった。一番印象に残ったのは後場の烏頭を殺傷するところなどの一連の劇的な動きで、謡も囃子も速いテンポで進んで行き、所作は鋭利で激しく、「烏頭」の人公の猟師の殺生を生業として行ってきた後悔や衝動に逆らえない焦燥感が私にも伝わってきた。


幕が上がると、子方とシテツレが橋掛リを歩いて来て、ワキ座近くに下居する。

[名ノリ笛]で、ワキの旅僧(殿田謙吉師)が登場する。常座で、旅僧は立山を見たことがないので、立山禅定(霊山で行う修行)に行き、その後、陸奥まで行脚しようとしていることを告げる。ここは新潮社の「新潮日本古典集成 謡曲集(上)」では、「外の浜」という当時の日本の北限であり、シテが生前住んでいた場所の地名が出てくるのだが、下掛りでは「奥州の果て」としか出てこないのだそう。また、パンフレットの解説によれば、「現世で罪を犯したものは立山地獄に送られるという信仰」があったとか。

また、詞章の中に「木の芽も萌ゆる遙々と」という言葉が出てきて、新緑の季節であることが分かるのが興味深い。話は陰鬱なのに、曲の季節を色々な生物が生まれる新緑の季節に設定している。対比のためにそのような季節にしたのかもしれないけど、総てのものが死に向かう晩秋や冬に設定されるよりは、そこには少しだけ救いがあるような気がする。


旅僧が立山禅定を終え、下山していると、橋掛リの幕の中から「なうなう御僧に申すべき事の候」という声がする。旅僧はワキ座付近で幕の方を振り返る。すると前シテの老人(塩津哲生師)が橋掛リを歩きながら、自分は去年の春に身まかった漁師であるが、奥州に下るのであれば、妻子の家を訪ねて、そこにある箕笠を手向けてほしいと伝えてくれいう。面は小尉、濃いたまご色の水衣に無地熨斗目。

旅僧は、届けるのは良いが何の証拠も無くてはどうして了解してくれようと言う。

すると老人は、一ノ松あたりでふと考え「や、思い出でたり」と言うと、「在りし世の、今はの時までこの尉が、木曽の麻衣の袖を解き」で左袖を右手で引きちぎる。「これを証にと、涙を添えて旅衣」で引きちぎった袖を面に近づけ涙ぐむと旅僧の方に掲げる。旅僧は橋掛リまで老人の片袖を取りに行く。「亡者は泣く泣く見送りて、行き方知らずになりにけり、行き方知らずになりにけり」で、老人は思いを残して旅僧の方を振り返りつつ幕の中に戻って中入りとなり、旅僧は舞台のワキ座方向に戻っていく。

旅僧は、中正方向を見つつ言語道断なことだというと、橋掛リの一ノ松付近に居る所の者(深田博治師)に去年の春、身まかった猟師の家の在処を尋ね、旅僧は猟師の家に向かう。


ちょうどその頃、ワキ座にいたシテツレの猟師の妻(井上真也師)は、座ったまま「げにやもとよりも定めなき身の習いぞと、思ひながらも夢の世の、あだに契し恩愛の、別れの後の忘れ形見それさへ深き悲しみの、母が思ひをいかにせん」とひとりごちながら、シオル。そこに旅僧が現れ、猟師の簑笠を手向けて欲しいと老人から言付かったこと、猟師本人である証拠麻衣の袖を受け取ったことを話すと、旅僧は老人から預かった片袖を妻に差し出す。妻は「これは夢かやあさましや、しでの田長の亡き人の、上聞きあへぬ涙かな」といいシオルのだった(その間に猟師の片袖と同じ水衣が後見によって妻の手元に運び込まれる)。妻は「いざや形見を簑代衣間遠に織れる藤衣」で手元にある猟師の着物を両手でもち掲げる。

妻と旅僧はお互い衣と袖を両手で差し出しながら向い合って、「頃も久しき形見ながら」を旅僧が、「今取り出し」を妻が謡うと、二人の連吟で「よく見れば」の後、地謡が引き継いで「疑ひも夏立つ今日の薄衣」と続く。僧が預かってきた袖は、やはり猟師の片袖だったのだ。新潮社の「謡曲集」では、「よく見れば」のところは旅僧の独吟になっていたけれど、旅僧と妻が連吟で「よく見れば」と謡うことで、それぞれの持つ衣と袖がぴったりと一致したことが象徴的に表されるオシャレな演出なのだ。

二度目の地謡の「夏立つ今日の薄衣」で、旅僧は片袖を妻に渡すと、「やがてそのまま弔いの御法を重ね数々の」で旅僧は猟師の簑笠をとりに行く。「簑笠をこそ手向けけれ」で正先に簑笠を置いて合掌し、「南無幽霊出離生死頓証菩提」と読誦するのだった。


読経にかかるようにヒシギの笛が入ると、[一声]の囃子となる。これもまた変わった旋律の笛なのだけど、その旋律は西洋音楽の音階では表現できず。

[一声]の囃子の中、後シテの猟師の霊が橋掛リを杖を突きながら歩いて来る。面は痩男、黒頭に白い縷水衣、納戸色の無地熨斗目に、茶、黒、白の羽根のついた羽蓑(鳥の羽で作られた前垂のようなもので猟師を表す)。猟師の霊は常座に来ると、態勢を低く構え全身に力を込めた様子で「陸奥の、外の浜なる鳴子鳥、鳴くなる声はうとうやすかた」を謡う。猟師の霊は鳥獣を殺した思い罪科の報いの地獄の苦しみから逃れるために「衆罪如霜露恵日の日に照らし給へ御僧侶」と旅僧の方を向いて言う。そして、正面を向き直ると、地謡が猟師の住処であった貧しいあばら屋の様子を謡う。猟師の霊は「籬(まがき)が島の苫屋形」で中正方向を見、「囲ふとすれど疎(まば)らにて、月の為には外が浜、心ありける住まひかな」で舞台を一周して中央に立つ。地獄の責め苦の中で戻りたいと心から願っていた家に戻ってきたのだ。

妻の「あれはとも言はば形や消えなんと、親子手に手を取り組みて、泣くばかりなる有様かな」で妻は子供の千代童を母の猟師の霊の方に連れて行く。猟師の霊は、善知鳥安方を殺した後悔に苛まれながらも「千代童が髪をかき撫でて」で、子供の髪をかき撫でる仕草をし、「あら懐かしやと言わんとすれば」で子供に近付こうとするが、子方は後退り猟師の霊は千代童を抱くことが出来ない。

猟師の霊は「横障の雲の隔てか悲しや」でシオリ、嘆き泣く。「今まで見えし姫小松のの、儚(はかな)やいづくに木隠れ笠ぞ」で子供を探し回るように舞台を周り、「誰簑笠ぞ隔てなりけるや」で簑笠を見、「松島や」で足拍子をし、「音に立てて啼くより外の事ぞなし」で滂沱の涙を流す。結局、彼は、雛鳥を捉えられ血の涙を流すという烏頭と全く同じ悲劇を今ここで味わうのだった。


この後、<クリ>で、「往事渺茫(びょうぼう)として都(すべ)て夢に似たり」で下居し杖を置く。<サシ>で、「とても渡世を営まば、士農工商の家にも生まれず、又は琴棋書画(きんぎしょが)を嗜む身ともならず」、一心不乱に殺生をし続けたことことを述懐する。

<クセ>で、何もかも忘れて罪を犯したことを悔やむ。「末の松山」で中正方向を身、「干潟」で正面の下の方を見、「報いを忘れける事業を為しし悔しさよ」で思い余ったように合掌する。「そもそもうとうやすかたのとりどりに品異(かわ)りたる殺生の」で下居したまま杖をとり、「中に無残やなこの鳥の」で立つ。

「愚かなるかな筑波嶺の、木々の梢にも羽を敷き」で目付柱の方に数歩歩き、「平沙に子を産みて落雁の」で千代童を見、親鳥は雛鳥を隠そうとするが「うとう」という声がすると雛鳥は「やすかた」と答えてしまうという謡が続く。

猟師の霊は「うとう」と足拍子をしながら呼ばわり、中正方向に進むと子供を探してゆっくりと見回す。ここから早いテンポの囃子が入り[カケリ]となる。


猟師の霊は中正方向を一度見ると、橋掛リに行き、一ノ松で子供を振り返る。そしてゆっくりと子供の方に戻って行き、舞台中央に歩みでると前髪を掴んできまる。その時、猟師はまた何もかも忘れて殺生の誘惑に囚われたのか、囃子のテンポが速くなり、蓑笠を杖で叩いて足拍子をする([追打(オイウチ)ノカケリ])。この場面は非常に印象的で思わず息を呑むほど。

地謡の最初の「親は空にて血の涙を」で杖を捨て、二度目の「親は空にて血の涙を」で簑笠を取り、「降らせば濡れじと菅簑や」で笠をかざして烏頭の血の涙から逃れるように舞台を回り目付柱に行く。「便りを求めて」で足拍子し、「隠れ笠」で座り込む。「隠れ簑にもあらざれば、なほ降りかかる血の涙の、目も紅に染み渡るは」で簑笠をかざして歩き、「紅葉の橋のかささぎか」で簑笠を目付柱の近くにおくと、猟師の霊はぐるぐると回りながら常座に下がる。

「娑婆にては」で、扇を取り出し、「うとうやすかたと見えしも、冥土にしては怪鳥(けちょう)となり」」で前に出てきて、「罪人を追つ立て」で、扇で簑笠を叩く所作をする。先は善知鳥だった簑笠が今度は猟師の霊となって逆の責苦を受ける様子を示しているのだろうか。「銅(あかがね)の爪を研ぎ立てては」で手を前に出し、猟師は抵抗しようとするが、うまくいかない。「逃げんとすれど」でおろおろと後退りするが、「立ち得ぬは羽抜け鳥の報いか」でぐるぐると回る。

烏頭は鷹となり、「我は雉となって」で、羽ばたく所作をすると、「遁れ交野(かたの)の狩場(かりば)の吹雪に空も恐ろし」で扇で顔を隠し、地を走る「犬鷹に責められ」で足拍子をし、心休まる暇がない。地謡の最初の「助けてたべや御僧」で足拍子をして旅僧を見、二度目の「助けてたべや御僧と」で合掌し、「言ふかと思へば失せにけり」で、橋掛リ方向を向いて足拍子を踏む。


というわけで、今思い出しても凄まじい圧倒的な迫力の「烏頭」だったのでした。


ところで、パンフレットの解説によれば「子方の千代童の名は、蝦夷の英雄・安倍貞任の息子である千代童子が、背景にあるとも推定されています。本曲の悲劇は、蝦夷の迫害とも響き合っているのかもしれません」とのこと。おおお、なるほど。確かに、前九年の役後三年の役では源義家ら朝廷側の策略もあり、安倍氏の親族が敵味方に別れざるをえなくなり、血で血を洗う争いを繰り広げ、結局安倍氏は滅びることになったのだった(というのが日本史が大の苦手の私の精一杯の知識)。

それから、善知鳥と安倍貞任といえば、文楽・歌舞伎の「奥州安達原」に「善知鳥」の詞章と安倍貞任の関連からヒントを得たと思われる設定が沢山出てくるのも興味深い。つまりこれは、謡曲「善知鳥」と安倍貞任の息子の千代童子蝦夷討伐等との関連性の指摘というのは、既に近松半二の「奥州安達原」が初演される宝暦十二年(1762)までには、そのような説が一般に流布していたということなのだろうか?何気に博学な半二、すごい。例えば、その「奥州安達原」では、「外が浜」の段とか「善知鳥文治住家」の段等、謡曲「善知鳥」を意識したと思われる段がある、といった具合だ。それに「袖萩祭文」の段も、主人公の名前の「袖萩(そではぎ)」が「袖剥ぎ」を連想させるし、盲目の袖萩から子供のお君が引き裂かれるというところが謡曲「善知鳥」を連想させる(パンフレットに烏頭のことを母鳥と書いてあってなるほどと思った。シテが猟師なので男親と思ってしまっていたけど)。

さらに、同じく文楽・歌舞伎の「傾城恋飛脚」の「新口村」の段では、追手から逃げる子供の忠兵衛と恋人の梅川を忠兵衛の父、孫右衛門が逃がすという、涙無しには観ることができない場面があるのだが、その最後にとても印象的な形で「平沙の善知鳥血の涙、長き親子の別れには、やすかたならで安き気も、涙々の浮世なり」という「善知鳥」の詞章を借りた表現が出てくる。

とりあえず私が知っているのは文楽・歌舞伎の一部だけど、他の邦楽や文芸の分野にもこの謡曲の様々な本歌取りがあるんだろう。こんな風に本歌取りされてどんどん話のモチーフが発展・変容していくのをみるのは本当に面白い。