国立能楽堂 魚説経 藤戸

定例公演  魚説経 藤戸<月間特集・瀬戸内をめぐって>
狂言 魚説経(うおぜっきょう) 大藏吉次郎(大蔵流
能   藤戸(ふじと) 観世恭秀(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2012/1097.html?lan=j

狂言 魚説経(うおぜっきょう) 大藏吉次郎(大蔵流

都合により拝見できず。残念無念。


能   藤戸(ふじと) 観世恭秀(観世流

新潮の『謡曲集』の解説には、「藤戸」の作者について、「作者未詳。『能本作者註文』『自家伝抄』等の作者付資料には世阿弥とするが信じ難い」とあり、「天鼓」や「隅田川」との詞章や劇的構造から元雅が作者であるということを暗示させる書き方になっている。確かに、「藤戸」と「天鼓」と構造が類似しているし、「藤戸」を改めて観てみると、「隅田川」というのは、「藤戸」を研究した上に成り立った作品という感じがする。

まず、「天鼓」と「藤戸」を比べてみると、「藤戸」は「天鼓」をなぞって作った作品と想像することが出来るように思う。

「天鼓」の前シテは父。もう一方の「藤戸」の前シテは母。そして、共に、後シテはその息子だ。両曲とも、前場では前シテは、共に、彼らの息子を殺した位の高いワキに(「天鼓」の場合は帝の勅使であるが、帝が近くにましますことが暗示されている)、息子を失った嘆きを吐露する場面が劇の盛り上がりを形成する一つの山場となっている。このように特に前場に関しては、劇的構造が、かなり類似している。

面白いのは、「藤戸」の間狂言で、亡くなった息子のために佐々木盛綱が管弦講を執り行おうとするところだ。「天鼓」でも同じように管弦講にて弔うべしという勅諚が下る。「天鼓」は、天から降って来た妙なる音色を持つ鼓が重要なモチーフになっており、また、後場では天鼓の霊によって舞が舞われるので、管弦講を執り行うのは、この曲「天鼓」という曲にふさわしい。一方、「藤戸」の方は、後場に舞があるわけでもなく、何故、あえて管弦講を執り行うのか、この曲の中には、その理由となるようなことは、はっきりとは示されていない。この管弦講が「天鼓」の管弦講をなぞった本歌取りだからではないだろか、と考えてみると興味深い。

後場は「天鼓」も「藤戸」も後シテとして前シテの息子が現れ、自分を殺した高位の人の執り行った管弦講による回向により成仏することになる。ただし、その内容は両曲の間に違いがある。「天鼓」では、後シテの天鼓が帝の管弦講に喜びを示し舞を舞うことが後場の主眼だが、「藤戸」では、盛綱に対して恨み言を言い、殺された時のことを盛綱の前で再現してみせる。

恐らく、「藤戸」の作者は、後場では、「天鼓」を離れて、盛綱に殺される場面とその時の漁師の心情を再現した上で成仏させることにより、観客の気持ちを昇華・発散させるために、このような場面にしたのだろうと思う。というのも、本説の『平家物語』巻十の「藤戸」を読んだ時に、かつて、『平家物語』を読んだ昔の人々も、自分の身勝手な理由で漁師を殺した盛綱が恩賞を賜り、彼の行為が肯定的にとらえられていることに対して違和感を感じたのだろう。

さて、改めて「藤戸」を観て感じる戯曲としての難点は、後シテの漁師本人よりも前シテの漁師の母の方に、観客は感情移入をしてしまいがちなところな気がする。以前、宝生流の近藤乾之助師の「藤戸」を観たときは、「藤戸」の前シテと後シテが違っていても、そのことが必然性をもち、一つの大きなドラマとして「藤戸」を観ることが出来たが、考えてみれば、あれは、乾之助師だから成し得た舞台とも言える。私は、今回のシテの観世恭秀師もそのドラマティックな演技で好きな能楽師のひとりだけれども、やはり、どうしても前場の母の方に盛り上がりがあったように思えた。

そのような「藤戸」の難点について検討し、そのまま母をシテのまま通して息子を亡くした嘆きのドラマを中心に据えて描いたのが「隅田川」ではないだろうか。

「藤戸」と「隅田川」の違いに注目してみると、他にも、興味深い点がある。

まず、「藤戸」の母は登場した時点ですでに息子の死を知っているが、「隅田川」では、後半、渡守から聞いた話で息子の梅若丸が既に死んでしまっていることを知り、まさに観客は舞台上でリアルタイムに母が梅若丸の死について知った瞬間を目撃することになる。「藤戸」よりもこちらの方が何倍も劇的だ。渡守の話は最初は、シテにとっては旅の道中、様々な人から聞かされる噂話のひとつであるが、その昨年三月十五日に亡くなった幼き者が都北白河の吉田の某のひとり子と知った時、シテも観客も動揺する。探し求めていた子供は死んでしまっており、結句、シテが子は生きていると信じて歩いた長旅は、梅若丸は既に亡くした後のものであり、その望みはずっと昔に全くの無駄に伏してだったのだ。そう思うと胸が締め付けられる。

それから、「藤戸」と違い、子を殺した本人が出てこないというのも、シテの母の悲しみを深くする要素になっていると思う。「藤戸」の母は、盛綱が現れ、直接息子を失った苦しみを盛綱にぶつけることで、息子を失った悲しみを表現した。一方の「墨田川」では、梅若丸をこのような目にあわせた人商人は出てこず、母の嘆きは梅若丸の霊を抱きしめることができないという場面で象徴される。世阿弥が子方を出さないことを提案し、元雅が子方を出すことを主張したという、あの有名なエピソードの場面だ。私は、元雅がどうして子方を出すことに固執したのか、今まで、はっきりとは分からなかったが、「藤戸」をベースに考えると少し分かるような気がする。恐らく、元雅は、母の息子を失った嘆きを、殺した本人に対して怒りをぶつけるという第三者を介する形で表現するのではなく、「母=息子の関係の喪失」という根本に立ち戻って、「もう梅若丸を抱きしめることが出来ない」という様子を見せることで表したかったのだと思うそのために、嘆きの思いの依代としての子方がどうしても必要と感じたのではないだろうか。


こうやって「藤戸」のことを考えていると、どうしても、文楽の『近江源氏先陣館』の「盛綱陣屋」について考えたくなる。盛綱陣屋では、盛綱が、母の微妙に対して、盛綱の弟・高綱の息子、小四郎に自害させるよう頼む。微妙は、小四郎の祖母であって、「藤戸」の漁師とその母との関係とは異なる。しかし、むしろ、微妙は、母=息子のシンプルな関係ではなく、小四郎は「子よりも可愛い孫」であり、小四郎の父親と、彼に敵対するその兄は、共に自分の息子達という、より複雑な柵に絡め取られている。さらに、「盛綱陣屋」では、盛綱が小四郎に手をかけるのではなく、微妙自身が小四郎に自害を説得しなければならない状況に追い込まれるのだ。微妙は、「エヽ見れば見る程目付なら鼻筋なら、眉に一つの黶(ほくろ)まで父親に此似よう、智恵才覚まで逢はぬもの、生ひ先も見ずむざ/\と莟(つぼみ)の花を散らすか」と嘆く。微妙にとって孫の小四郎を自害させるということは、息子の高綱まで殺すのと同然であり、二人の息子が敵味方に別れた悲劇が微妙一身に振りかかる。微妙が三婆と言われるほどの大役となっているのは、そういった「藤戸」の前シテの母にも勝るとも劣らない微妙の深い苦悩にあるのだろう。


話がお能から離れてしまったので元に戻すと、この公演の恭秀師の「藤戸」は、前に観た師の演能同様、演劇性に富んだものだった。例えば、最初、盛綱に、何故漁師を海に沈めたのか問う時、最初は思いを内に貯めてゆっくりと動くが、息子を弔って欲しいと言いながら、怒りをたたえながら盛綱の方を見る。逃れられなくなった盛綱が、「今はなにをか隠すべき」「近う寄つて聞き候へ」と言うと、おそるおそる近づき、海に沈める様子が語られるにつれ、息があがり肩で息をする。緊迫した前シテの演技に惹き込まれる。

ただ、今回は演劇性だけでなく、シテの造形も面白かった。特に前シテ・後シテの面の選択は興味深かった。前シテの面は、舞台を観た印象では、曲見と姥の間で、輪郭や表情に女性らしい柔らかさにやや欠ける印象があったのだが、後で確認すると、痩男だった。痩男を女性のシテに使うということは、ちょっと思いつかなかった。何故、恭秀師が痩男を使おうと思われたのか、お聴きしてみたい気がする。前シテと後シテが別人であることから来る分断を少しでも少なくしようという考えだろうか。また、後シテの面の河津と黒頭も、まるで死んだ人が水から上がってきたかのような様子で、まるで、未だ海の中でもがき苦しんで憔悴しきっているかのような恐ろしい有様だった。

そのような演劇性と、観世宗家筋特有の力強く音楽性の高い謡で、また今まで観た「藤戸」とは違う「藤戸」を観ることが出来た。


ちなみに、余談だが、パンフレットの井上愛氏の解説に、「現在の藤戸は、江戸時代の干拓事業によって埋め立てられ、その名残を留めていません」と書いてあった。どうりで…!実は、この辺りを電車で通ったことがある。、「藤戸」の現場はどこなのか、興味津々だったのだが、JRの児島駅周辺は陸続きで、思いっきり肩透かしを食らった気分だったが、そういうことだったのだ。ひょっとして、藤戸の漁師は、その後、江戸時代に武士に生まれ変わって、親の敵のように児島周辺を干拓してしまったのだったりして…!