国立能楽堂 謀生種 須磨源氏

普及公演  謀生種 須磨源氏 <月間特集・瀬戸内をめぐって>
解説・能楽あんない  貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)の系譜 久富木原玲(愛知県立大学教授)
狂言 謀生種(ほうじょうのたね) 障游V祐介(和泉流
能   須磨源氏(すまげんじ) 渡邊荀之助(宝生流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2012/1098.html

解説・能楽あんない  貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)の系譜 久富木原玲(愛知県立大学教授)

久富木先生によれば、源氏が須磨に蟄居したのは、『竹取物語』という貴種流離譚を下敷きにしているという。先生は、折口信夫が、貴種流離譚の定義として、「罪を犯してさすらう」と述べており、源氏の須磨行きは『竹取物語』で、かぐや姫が天上から地上に降りてきたことを下敷きとしているのだと説明されていた。具体的には、『源氏物語』の「須磨」「明石」では、光源氏は直接的には帝の寵愛を受けていた朧月夜との密会が発覚して須磨に蟄居することになったが、『竹取物語』も、月から迎えにくる人が「かぐや姫は罪をつくりたまへければ、かく賤しきおのれがもとにしばしおはしつるなり」と言う。また、源氏もかぐや姫も流離していたのは約三年なのだとか。

最初は、それは少しこじつけすぎではと思ってしまったが、お話をお聞きして、確かに『竹取物語』をある意味、下敷きにしているというのは納得できた。

源氏は、八月十五夜の夜、月が華やかに差し込む様子を眺めながら、かつて宮中にいた時の、殿上での御あそびを思い出す。宮中を恋しく思い、都を月の宮と仮託し、「みるほどぞしばしなぐさむめぐりあはん 月の都ははるかなれども」と詠う。久富木先生は、この歌に出てくる「月の都」という言葉は、『竹取物語』の中でも、かぐや姫が「おのが身は(中略)月の都の人なり」と使用していることを指摘していた。源氏が「月の都」という言葉を引いているということは、彼が、十五夜の月を眺めながら、自分の身に、かぐや姫の物語を重ねているのだろう。

さらに、その直後に「恩賜(おんし)の御衣は今ここにあり」と、菅原道真太宰府に流された後の家集『菅家後集』の七言絶句を誦じる。源氏も帝からの恩賜の御衣を身近から放さず持っていて、菅原道真にも自分の身を重ねているのだ。菅原道真太宰府への左遷も、一種の貴種流離譚に当たるという。

源氏のこのような描かれ方を見ると、この当時の人々は、自分の折々の感情を、古歌や物語に重ね合わせて体験するような生き方を理想としてのだろうと思う。


また、もうひとつ興味深かったお話が、『源氏物語』の「明石」における、住吉明神のご加護について。この住吉明神のご加護で明石から都に帰るという話の枠組みは、『日本書紀』の神功皇后応神天皇の神話によるものという。源氏も、明石で嵐に遭い、暴風が吹き荒れ海も波高い中、『我はいかなるつみをおかして、かくかなしきめをみるらん。ちち母にもあひみず、かなしこめこのかほもみで(愛しい妻子の顔も見ないで)、しぬべきこと』と思い、住吉の神に祈る。その後、嵐は止み、源氏は無事、都に戻ることとなる。

考えてみれば、源氏が住吉明神に祈るその前に、既に、明石の入道は、住吉明神に娘の明石君の良縁を祈っていたし、源氏と明石君は源氏の住吉明神へのお礼詣でで、再び運命的な巡り会いをすることになる。さらに、最終的には、明石の姫君は東宮に入内し、男子を出産する。住吉明神への信仰とそのご加護が、『源氏物語』では、意外に大きな意味を持っていて、面白く思う。


狂言 謀生種(ほうじょうのたね) 障游V祐介(和泉流

シテの甥は、ほら吹き話が得意な伯父にいつも担がれている。悔しく思った甥は、ほら話を二つ、三つ考えついたので、早速、伯父をかついでやろうと伯父の家に行く、甥のほら話にすっかり関心した伯父は、今度はその話で思い出した話をしてくれるが…というお話。

この話にでてくる伯父は、ほらを吹くことを得意としているだけあって、相手の話に同調し、ありきたりの話から始めつつ、さりげなく横滑りして行って、最後にはあり得ないことを、いかにも本当のことのように話す。

その様子に何となく既視感があって、何だろうと思ったら、そうだ、身に覚えがあった。仕事で提案書やら新規サービスの紹介資料やらを書いたりする場合、ちょっと大げさに書くのが当たり前になっている。たとえば、「弊社は全社一丸となって、お客様の競争優位の最大化をご支援いたします。」などなど。ま、相当のことでもなければ「全社一丸」にならないし、そのサービスを採用したぐらいで「競争優位」が「最大化」したりすることが無いことは、お客様も分かっているだろうけれども、このくらい威勢のいい書き方でないと、お客様だって満足すまい。大体、競合他社だって似たようなことを書いている。…などと、自己弁護しながら、誰も、ちょっと大げさに書くのを止めようとしない。

きっと、この狂言に出てくる伯父も、「甥は、なんだかんだ言って、内心、担がれるのを喜んでいるに決まっておる!」などと、我田引水なことを思いながら、今後も甥をだまし続けるに違いない。


能   須磨源氏(すまげんじ) 渡邊荀之助(宝生流

[次第]で、ワキの日向国宮崎の社官、藤原興範(おきのり)とその従者が現れ、伊勢参りに行くと観客に告げる。藤原興範といえば、遊女桧垣の伝説で、白河を観光するついでに桧垣と会った人だ。

パンフレットの解説の井上愛氏によれば、この曲の「作者ははっきりしませんが、独立した謡物に世阿弥が手を加えたのではないかと考えられています」とのこと。なぜ、世阿弥は、あえて、日向の神官ではない藤原興範を神官ということにして登場させたのだろう。それに世阿弥の作った曲では、ワキが九州からの旅僧であることが多いような気がする。何故、そうなのか、興味深い。たとえば、当時は本当に九州から上ってきた僧が多かったのだろうか。

興範は、須磨に着くと、そこは源氏が流離してきたところであり、源氏手植えの「若木の桜」があることを思いだし、それを見に行こうと思う。この桜は須磨寺の桜で、後の文楽の「熊谷陣屋」で、弁慶が制札を立てた「若木の桜」と同じものを指しているようだ。

そこに前シテである老人が現れる。三光尉の面に、納戸色の熨斗目に赤銅色の水衣という装束。

興範が老人に桜の若木について尋ねると、老人は、「有名な須磨の桜について問うとは、さてはあなたは田舎人か」と応える。興範が須磨の桜を見に、遥々ここまで来たのだというと、ここは、光源氏のご旧跡とお聞きしているので、年頃に語って欲しいと言う。

すると、老人は、『源氏物語』の巻名を引きながら、源氏の生涯を物語る。そして、光源氏はかつては須磨を住家としていたが、今は、(弥勒菩薩が住むという)兜率の天に住んでいるという。そして、夜、月宮の影から天下り、須磨の海に影向するでしょう、というと、「源氏の巻の名なれや、雲隠れして失せにける」と、洒落た消え方をして中入りとなる。


後場では、興範が、光源氏の影向を拝もうと、待謡を詠う。すると、後シテの光源氏の霊が、中将の面、初冠に、深緑の地に立涌、金の唐花菱の狩衣、紫地に白の丸紋の指貫という出立で現れる。

源氏は途中変調する[早舞]を舞うと、夜が明けるのと共に、袖を翻して、帰って行く。


全体として、源氏が官位の最高を極め、華々しい人生を送り、死しては兜率天に行ったことを語るという、源氏の栄達、栄華を讃える曲だ。けれども、普通、人々が『源氏物語』を思い出す時、源氏に関して思い起こすことと言えば、恋愛遍歴をのぞけば、むしろ、須磨への流離、藤壺と契り冷泉帝が生まれてしまうこと、頭中将との競争やすれ違いと和解、柏木との確執等の心理的葛藤や悲劇ではないだろうか。

「須磨源氏」という曲名ながら、内容は源氏の須磨流離以降の栄華というのが面白い。「実方」とは対極の曲だという気がする。実方は源氏と同じように失意と共に都から離れた土地に行ったが、源氏とは違い、二度都に戻ってくることはなかった。目出度く都に戻り、栄華を誇る源氏のこの曲は、たとえば、不遇な貴人を慰めるために作られたといったことがあったのかも等と思ったりした。