国立劇場小劇場 5月文楽 第二部

国立劇場小劇場 5月文楽公演<第二部>4時開演
 傾城反魂香(けいせいはんごんこう)
    土佐将監閑居の段
 艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)
    酒屋の段
 壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)
    阿古屋琴責の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2012/5100.html

傾城反魂香(けいせいはんごんこう) 土佐将監閑居の段

5月公演のパンフレットの山川静夫さんのエッセイに、昭和三十年代から四十年代にほとんどの口上をやっていた人形遣いの吉田兵次さんという人のことが書いてあった。不器用なところがあって、人形遣いとしては大成こそしなかったけれども、長年一途に勤めあげた功労により、勲七等青色桐葉章を叙勲されたという。

そのエッセイを読んで、吃又に出てくる浮世又平という人も、ひょっとしたら、吉田兵次さんと同じように不器用なやり方で、一つのことに専心した人だったのではないかな、という気がした。

たしか、この浮世又平のモデルが、あの独特の極彩色の細密な大和絵を描く、岩佐又兵衛だとどこかで読んだ。そのため、この物語の主人公を、江戸時代の大和絵の世界を代表する鬼才の一人の立身出世の物語とばかり思いこんでいた。しかし、そういう先入観をもって観ると、色々と理解できないところがあって、本当はどう捉えるべきなんだろうと、気になっていた。

けれども、件のエッセイを読んで、この浮世又平は、むしろ、吉田兵次さんの延長上に存在するような人なのだという気がした。つまり、又平という人は、木訥で不器用で、残酷なことを言えば、絵師としての資質は乏しいのかもしれない。けれども、絵を描くことが何よりも好きで、絵師として認められたいというのが唯一の切実な望みだという人。もし望みが叶うのなら、命と引き替えにしても良いと、本気で言い切ることさえ出来る人。

又平は、修理之介のように若くして才能に恵まれて絵師としての道を順調に歩んでいく人が軽々と壁を越えてしまうのを後目に見ながら、いつまでもその壁を越えることが出来ない。だから大津絵を描いて口に糊しなければならないし、家計が火の車だから、夫婦で暇なく働き続けなければならない。

又平と妻のおとくは、師匠の土佐将監に、せめて贈り名でも良いから、土佐の名を認めてほしいと懇願する。しかし、将監は一喝する。将監は、自分自身がライバルの小栗宗丹との絵師としての実力の競争が高じて御前から勘当を受けた、浪人蟄居の身だ。そのため生活が逼迫し、娘を傾城勤めに出さざるをえなかったが、それでも宗丹に屈しないのは、土佐派の絵師という衿持を保つという一事のためなのだ。そのような将監にとっては、又平の懇願は、自分の土佐の名を惜しむ気持ちと通じるもので、誰よりも良く分かる。さりながら、懇願によって土佐の名を許すなどということは、絵師としての筆の力を以て土佐の名を守ろうとする将監にとっては、出来ない相談なのだ。

人は必死に道を捜し求めてる時、その必死さと焦りが仇となって、ますます本質から外れてしまうことがある。又平も狩野四郎次郎の姫の危機の報を知り、将監に姫を奪い返しに行かせてくれと申し出る。手柄を立てて、土佐の名を賜りたい一心からの申し出だ。しかし、その行為こそが将監の怒りをかってしまうことになる。土佐の名を得たくば絵師としての功をあげよ、と言っているのに、又平が必死さと焦りで盲目的に功をあげることばかりを求めているからだ。将監は、又平に対して「ヤア不具の癖の述懐涙不吉千万」と酷いことをいう。将監は、心の中にいる、もう一人の認めたくない自分を見るような心地がして、思わず強い言葉を吐くのかもしれない。

又平は、弟弟子の修理之介にも願いを聞き入れてもらえず、万策尽きて、狂ったように、声を限りに嘆き泣く。将監は、「絵の道の功によって、土佐の苗字を継いでこそ手柄」と諭すが、おとくは「今生の望みは切れたぞや」と断言し、手水鉢に自画像を描き止め、自害して贈り号に望みを託すよう進言する。おとくは、又平が絵師としての修練で思いつくようなことは全てやり尽くしてしまったことを、よく知っていたのだろう。

そして、今生の望みを絶って、無心で描いた絵が、奇跡を起こす。文楽の手水鉢の絵が御影石を通って反対側に浮き出る仕掛けは、歌舞伎よりも簡素で、観ている方が驚けないのが、ちょっと残念。けれども、とにかく、奇跡が起きて、無事、又平は土佐の名を得て大団円となる。

何かひとつのことを続けていれば、誰もが多かれ少なかれ必ず経験する、壁やスランプ、それを乗り越える時の感覚を鮮やかにドラマティックに描き出した近松は、本当にすごいと思う。これだけ切迫した物語を作れるということは、天才と思える近松も、己が才能の無さに対する焦燥感に苛まれるようなこともあったのだろうか。私のような凡人の日常の世界では、同じところをぐるぐると回っているか、たまに何か小さな壁を乗り越えたと思った途端に、乗り越えたせいで次の壁にぶつかることの繰り返しだけど、だからこそ、近松はこういう物語を人々と共有することに意味を見いだしたのかもしれない。

久々に拝見した文雀師匠のおとくと玉女さんの又平が、やはりすばらしかった。文雀師匠のおとくは、又平を常に気に掛けつつ控えめに座った姿を一目見るだけで、人柄か伝わってくるようだったし、又平がたどたどしく、おとくに必死に何かを伝えようとし、おとくが一生懸命、それを理解し他の人に伝えようとする様子を見ることで、又平がどういう人なのか、気がついた。


艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ) 酒屋の段

このお話は前半は感動するけれども、最後はいつも「半七っつぁん、サイテー!」という感想で終わってしまう。しかし、今回、後半の三味線がなかなか面白いことに気がついたので、今後は、後半は三味線鑑賞の時間とすることにしようと思う。

もー、半七っつぁん、お通ちゃんが将来、真実を知ってグレちゃっても知らないからね!


壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき) 阿古屋琴責の段

阿古屋や重忠、この場には出てこないものの景清と、他の物語にも登場する人物が出てくるので、文楽ではもっと物語性が強くなるのではと思ったが、むしろ景事の一バリエーションという感じの演目だった。歌舞伎の阿古屋同様、阿古屋は特別な演目と捉えられているらしい。阿古屋は三人とも出遣いで、勘十郎さんは淡い萌葱の地に小さな金と白の菊か何かの繋ぎの文様の入った肩衣。たしかに、阿古屋の堂に入った遊君ぶりは、歌舞伎の助六の揚巻や落語の紺屋高尾の高尾と並ぶ、遊女の一人として数えることが出来るかも(落語はあまり知らないので自信ないけど)。

鎌倉殿の厳命により、景清の行方を追う畠山重忠は、遊君阿古屋の詮議を行う。責め道具として琴と三味線、胡弓を持ち出し、楽器を弾くか景清の在所を明かすかのいずれかだと言う。

詮方無く阿古屋は、琴で、『菜蕗(ふき)』の組歌に事寄せて景清が自分の元からいなくなっってしまったこと歌い、三味線の『班女』で一人景清を待つ心許なさ、胡弓の『相の山』『鶴の巣籠』で景清は跡形なくいなくなってしまったのは誠なのだと歌う(三味線の『班女』となっているのは、確かにお能の『班女』の詞章にある言葉も引かれているが、ほとんど、『冥途の飛脚』の「道行相合かご」の冒頭と一緒)。

阿古屋にとっては責め苦、観客にとっては三曲が聞けてとても楽しい演奏が終わると、重忠も感に堪えたらしく、「阿古屋が拷問只今限り。景清が行方知らぬと云うに偽りなき事見届けたり。この上は構いなし」と宣言する。若干、そもそもこの段は何のための場面だったのかという疑問は残るが、眼目である三曲の演奏が楽しかったので良しとしよう、というところでしょうか。

それにしても、畠山重忠を見ていたら、畠山記念館に行きたくなってしまった。駅から遠くて真夏の訪問は遠慮したいので、暑くならないうちに行きたいな。