国立劇場小劇場 5月文楽 第一部

国立劇場小劇場 5月文楽公演<第一部>11時開演
 八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)
    門前の段
    毒酒の段
    浪花入江の段
    主計之介早討の段
    正清本城の段   
 契情倭荘子(けいせいやまとぞうし)
    蝶の道行
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2012/5100.html

八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)
    門前の段
    毒酒の段
    浪花入江の段
    主計之介早討の段
    正清本城の段
   

全十一段の時代物のうち、今回の上演は、四段目と八段目とのこと。2008年に大阪の文楽劇場で、浪花入江の段以降を見た。その時分からなかったことが、今回、「浪花入江の段」の前に「門前の段」と「毒酒の段」が付いて、いくつか疑問が解決した点があって興味深かった。

たとえば、「浪花入江の段」で、どういう理由で加藤正清と息子の嫁らしい雛絹の二人が船に乗り合わせているのか分からなかったが、「毒酒の段」を観て、事情が判明した。加藤正清の嫡子・主計之介清郷と、北条時政徳川家康を仮託)の家老、森三左衛門(池田三左衛門)の娘が夫婦になることとなり、雛絹は三左衛門に正清に付いて帰国するよう命じられたからだった。

しかし、実際には、観ている時にはしっくりと理解できなくて、後から色々考えてみていることもある。

たとえば、この物語の中で、時政=家康が悪役であること。ドナルド・キーン氏は、日本の歴代の日記文学を紹介した自著『百代の過客』の「戴恩記」の紹介の中で、芭蕉の「あらたふと青葉若葉の日の光」という徳川将軍家を賛美する俳句を作ったことを引き合いに出し、江戸時代の文人が徳川家への敬慕の情を表すのが通常だったことを指摘している。たしかに能楽の世界でも、一例を挙げれば観世流の『鉢木』で、松梅桜の盆栽を旅僧のために薪にする場面で、「松はもとより常磐にて。薪となるは梅桜」と詞章を変えるなど、松平家を賛美する詞章を加えている曲があるし、少なくとも将軍家の威厳を損なうような詞章は変更されることはいくつか例があった。加藤清正が民衆に人気があったにも関わらず、清正が主人公の物語が少ないのは、家康を悪者としなければならないことが、恐らく大きな問題であったのではないだろうか。この八陣守護城は、家康は北条時政に仮託しているが、観れば誰でも北条時政が本当は誰がモデルなのか分かるのに、こういった作品が作られ、上演されて今日まで残っているというのは、面白いなと思う。

それから、三左衛門が、お主が盛った毒酒の毒が回っていながら、敢えて切腹す場面も、考えさせられる。彼は、「このまま死なんより腹かつさばき相果てて死なば、君の悪名散ずる通り、忠義の鑑見すべし」と言う。時政の小田家から四海を奪おうという野望を正義にかなわないこととして諌めつつ、忠義を尽くすために、敢えて切腹するのだ。ここでは、忠義が正義をほとんど凌駕してしまっている。悪を行うお主の罪を帳消しにしてお主を助ける形になっているのだ。今の感覚では、なかなか理解しにくい。私が今、万が一、そういう状況に陥ったら、お主を本当に尊敬していて守りたいと思ったとしたら、黙秘する可能性はあるかもしれないが、自分から切腹してお主の罪を帳消しにするということは考えないだろう。『仮名手本忠臣蔵』も、そういえば、忠義が正義を凌駕する話といってもいいかもしれない。「鮒だ、/\、鮒武士だ」って嫌がらせされたからって、刃傷に及んだ場合、刃傷に及んだ方が悪いだろう。大人の世界はそーゆーもんです。ところが、赤穂浪士達は、その塩冶判官の敵を討つのだ。師直が元々性格が悪かったから何だか辻褄が合っているように思えるけど、もし、塩冶判官と師直が逆の立場だったら、師直と判官の家臣達はどうするのだろうか。

話が逸れてしまったけれども、色々、疑問がありながらも、最後は、力強い終わり方で、非常に爽快感がある演目でした。ただ、主人公は明らかに正清なのに、話のメインは雛絹と清郷のロマンスなので、イマイチ、心に響いて来ないのが難点といえば難点でしょうか。

曲そのものは、江戸時代も19世紀に入って出来ただけあって、三味線や大夫の語りの旋律もこなれていて、詞章の詞の選択も如何にも浄瑠璃という感じで大変面白かった。私は半二が好きなのですが、この曲は、半二の時代の残照とでも言いたい感じなのでした。


契情倭荘子(けいせいやまとぞうし) 蝶の道行

北鎌倉に東慶寺というお寺がある。東慶寺は、江戸時代には女人の駆け込み寺だったせいか、木立に囲まれた、しっとりとしたたたずまいの、小じんまりとしたお寺だ。静寂、風に揺れた木の葉の擦れ合う音、鳥の声、深い緑、小さな野花、尼寺らしい柔和な表情の石仏や鎌倉時代室町時代の苔蒸した石塔もあり、愛らしいお寺なのだ。和辻哲郎小林秀雄鈴木大拙西田幾多郎、それに大阪市立東洋陶磁美術館の安宅コレクションを形成した安宅英一のお墓もあるというのも、心惹かれる。

ある日、東慶寺のお墓を巡っていると、あるお墓の両側に、白と紫の仏花が美しく供えられていた。思わず見とれていると、モンシロッチョウが二頭、どこからともなく飛んできた。二頭の蝶がじゃれ合いながら、仲良く両方の仏花の周りを交互に飛び交っている。あまりに幻想的な光景なので、思わず写真を撮ろうとして、シャッターを何度か押した。ところが、カメラの画面を確認すると、どこにも二頭の蝶が写っていない。私の目の前には、まだ、二頭の蝶が仲良く飛び回っているのに、デジカメにはその蝶は写らないのだ。

おそらく、シャッタースピードと蝶の羽ばたく速度や空間移動がかみ合わず、デジカメには写らなかったのだろう。それでも、目の前にひらひらと舞う二頭の蝶が、手元のデジカメには写っていないというのは、不思議な光景だった。「胡蝶の夢」は、喩え話だったけれども、今の世の中でも、別の形で同じようなファンタジーを見ることがある。本当の現実とは何なのだ?デジカメに写る蝶のいない風景なのか、それとも目の前に舞う二頭の蝶なのか。

「蝶の道行」は、パンフレットによれば、もともと初世並木五瓶の歌舞伎『けいせい倭荘子(やまとぞうし)』の道行を人形浄瑠璃に移したものだとか。どんな内容かはよくわからないが、外題の当て字から、傾城が出てきて、中国風の趣向を取り入れているのかなということぐらいは分かる。

この「蝶の道行」も、荘子が蝶になった夢を見たという「胡蝶の夢」をモチーフにしている。そして、「胡蝶の夢」は、夢の話だが、パンフレットによれば、「蝶の道行」は、小巻と助国という二人の男女の死後の世界をモチーフにしたという変わった趣向だ。

前半は二人の馴れ初めや美しい花々の咲く極楽浄土の世界を描くが、最後は「修羅の迎ひはたちまちに、狂ひ乱るゝ地獄の責め、夢に夢見る草の露おもかげばかりや、残るらん」と、地獄に落ちて終わってしまう。中世に成立したお能でも、死んだ人の霊が夢に出てきて地獄の責め苦について語ることはあるけれども、ある意味、ワキの僧は回向をしてシテを成仏させるためにいるようなものなので、成仏できないシテといえば、殺生を生業にしているか、中世の独特の世界観で悪徳とさるようなことをした人(二人の男性に思いを寄せられる女性とか)ぐらいだ。この道行の主人公達は一体何をしたのだろう。

そういえば、先日聴いた「空也念仏」でも、「後生も前世も空々寂々」という詞があった。江戸時代も時代が下って行くと、人々は、善行を積んだり念仏すれば極楽浄土に行くことが出来るとは、考えることが出来なくなってしまっていたのかもしれない。江戸時代といえば、太平な世の中というイメージを持っていたけれども、こういった醒めた考え方と幕末の鬱屈した雰囲気というのは、つながるものがあるのだろうか。

パンフレットによれば、現在の「蝶の道行」は、昭和六年に素浄瑠璃として復活した時に三世野澤吉兵衛が作曲したもので、振り付けは昭和四十四年に尾上墨雪師(当時菊之丞)が行ったものとのこと。語りも三味線も変化に富んでいて聴きどころが多く、聴いていて、とても楽しかった。

そう。久々に文楽を観て、本当に楽しかった。