国立能楽堂 千切木 鍾馗

国立能楽堂 普及公演  千切木 鍾馗
解説・能楽あんない  鍾馗について―伝説と風習―井波律子(国際日本文化研究センター名誉教授)
狂言 千切木(ちぎりき) 山本東次郎大蔵流
能   鍾馗(しょうき) 金春安明(金春流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2012/1107.html

解説・能楽あんない  鍾馗について―伝説と風習―井波律子(国際日本文化研究センター名誉教授)

鍾馗といえば、京都の古い家の屋根や軒先等に、瓦製の小人さんのようにちょこんと乗って偉そうなポーズをとっていたり、まれに神社仏閣の資料館にその像を描いた掛軸が展示されていたりする。その服装から察するに、中国あたりから来た神様で、また、ポーズや顔の表情から、魔除けの役割でも担っているのだろうと思っていた。今日の井波先生の解説を拝聴したところ、当たらずしも遠からずだったが、先生の話からすると、私が感じているよりもっとずっと、日本人の習俗に関係しているようだ。


鍾馗は、元々は後漢の高祖の時代に科挙を受けたが及第できず自害した人とされている。しかし、井波先生によれば、実在の人物というわけではなく、同じような境遇の人々が数多存在し、そういった人々の記憶が鍾馗という像を結んで伝説となったということだという。

その後、唐の時代、玄宗皇帝が病に倒れて伏せていた時、玄宗皇帝の夢の中に鍾馗が現れ、病気を起こしていた鬼を退治し、皇帝を守った。それで、玄宗皇帝は画家の大家の呉道子(ごどうし)に鍾馗の図を描かせたという。その絵が唐から宋に伝わり、北宋時代は木版印刷が盛んになっていたこともあり、皇帝が臣下の者に鍾馗木版画を賜り、南宋の頃には、これが一般にも流布したのだそうだ。

そして、明の末期、清の時代には、端午の節句と結びつけられ、端午の節句には鍾馗図が飾られたのだという。日本には一九世紀頃に端午の節句鍾馗を飾るという風習が入ってきて、主に関東で鍾馗像が飾られるとか。知らなかった。私には弟がいるが、うちは端午の節句の飾り物は鎧櫃の上の兜と両脇に弓と刀というごく一般的な飾り物だった。

また、端午の節句についても、井波先生が興味深い話をして下さっていた。端午の節句のもととなったのは、かつて入水した官吏の屈原という人の供養の行事なのだという。屈原という官吏は中国の戦国時代の楚の時代の人で、あまりに高潔で潔白な性格であるため、周りの人から疎まれ、左遷されてしまった。屈原は、そのことを嘆いて、五月五日に沼で自害したのだという。その話を聞いた皇帝は屈原を懇ろに葬ったという。その後、地元の人々が屈原を弔うために、五月五日に粽を供えたり、供養で舟で競争をしたりするようになったのが、端午の節句の風習になったそうだ。そして、粽が笹にくるまれている理由は、沼で入水した屈原のために沼にお供えするので、魚に食べられないよう、笹でお米をくるんでいるんだそう。

そういえば、端午の節句の粽は近松門左衛門の『女殺油地獄』の豊島屋の段に出てくるが、『枕草子』の端午の節句の描写には出て来ない。『枕草子』に描かれた端午の節句の風俗といえば、軒に飾る菖蒲や蓬、薬玉、菖蒲の飾りを腰や髪に差すこと等だ。清少納言端午の節句の風俗を複数の段でこと細かに書いているのに、粽のことだけ書き漏らすとは考えにくいから、そうなると、粽を食べるという風習が中国から日本に入ってきた時期は、(あまりに大ざっぱだけれども)少なくとも『枕草子』成立の1000年頃以降から『女殺油地獄』の初演の享保6年(1721)迄の間、ということになるだろうか。そして、先に引いた通り、井波先生の話では、端午の節句鍾馗を飾る風習は、日本では一九世紀頃の江戸時代に盛んになったということだった。

とすると、私の分かる範囲で日本での端午の節句の祝い方の歴史を大まかにみると、上代は、菖蒲や薬玉を飾ったりすることがメインであったが、江戸時代かそれ以前から端午の節句に粽を食べたりする屈原由来の風習が広まり、そこに江戸後期の一九世紀に別ルートで、中国から鍾馗を飾る風俗が広まったということになる。しかも、これらの話を総合して考えると、鍾馗を飾る風俗が入ってきたのは、日本が鎖国していた時代だったと考えられるのだから、なかなか興味深い。鎖国時代であっても、中国の文化は日本に流入し、一般の人々の風俗にまで影響を与え続けていたのだ。

なお、先生のお考えによれば、鍾馗端午の節句と結びつけるものは特に無いらしい。端午の節句の元となった屈原の悲劇と鍾馗の悲劇が似ていることから、結びつけて考えられるようになったのでは、というお話だった。

また、もう一つ興味深かったのは、これらの悲運の人を祭るという風習だ。井波先生のお話では、悲劇的な最後を遂げて遺恨のある人を祭ることで「祟る神」から「守り神」になるという考え方が中国にもあるのだという。こう言われて古典や古典芸能が好きな人の誰もが思い出すのは、菅原道真ではないだろうか。菅原道真が神となったのも、彼の悲劇的な人生に加えて、太宰府という当時の中国との交流拠点に左遷されたことや、彼が当時随一の学者で、豊かな漢学の学識を持っていたこと等も関連があるのだろうか。


狂言 千切木(ちぎりき) 山本東次郎大蔵流

連歌の会を催そうとした何某(山本規俊師)は、連歌宗匠で何かと口うるさい太郎(山本東次郎師)には声を掛けないようにしようと思い、太郎冠者(若松隆師)にその旨を伝えて他の人々を誘いにやる。連歌の連中が集まり、早速連歌を始めようとするが、悲しいかな、初心者ばかりでは発句一つ出てこない。皆で呻吟していると、連歌の会が行われていることを聞きつけた太郎が猛烈な勢いで座に割って入って来る。案の定、口汚く連中を非難した上で、何かと連中を馬鹿にしたような口調で批判する。みるみる座の雰囲気が剣呑になったかと思うと、太郎が席を外した隙に、連中は太郎を打擲することで意見が一致し、太郎が戻るや否や、皆が一斉に太郎を打擲する。そこに、太郎が打擲されたという話を聞きつけた妻が千切木を持って駆けつける。妻は太郎を見つけると、この千切木でもって連中に仕返しをするよう、太郎を鼓舞し、太郎は仕返しに向かうが…というお話。

久々に東次郎師の狂言を観て、改めて、すごい方だと感心してしまった。私の印象では、狂言というのは、割に最初から最後まで、ほわーんとした雰囲気のまま進行することが多く、こちらの方もほわーんとしたまま観終わることが多い。けれども、東次郎師の狂言は、緩急、特にスピード感が持ち味で、太郎が連中の間に割って入って片っ端から批判して行き、みるみる場の雰囲気が険悪になるところ、打擲されて一転して太郎が弱気となるところ、妻に鼓舞され、修羅能よろしく千切木を意気揚々と振り回して立ち回りを舞ってしまうところなど、観ている方は、ぐっと惹きつけられる。

また、この妻というのも面白いキャラクターだった。以前観たときは気がつかなかったけど、この妻はなかなか賢女なのだ。

まず、太郎が打擲されたと聞いて千切木を持って駆けつけるところがすごい。多分、太郎が打擲されているのを報告しに行ったのは、太郎のお付きの者だろうから、日頃からこの従者は、太郎に何か起こったら間違いなく妻が助けてくれると思っているのだろう。そしてこの妻は従者の期待に違わず、太郎の打擲現場に急行したのである。

それに、太郎に千切木を持って仕返しせよ、というところもえらい。太郎みたいな威張りを倒しているタイプの人は、ダメージを受けると意外に脆かったりする人もいるので、もしあの場で泣き寝入りしたら、今後は、一転して、いつまでもいじいじと引きずる可能性もある。だから妻は太郎に、仕返しして鬱憤を晴らすよう、言ったのだと思う。仕返しに行っても、打擲した人々は居留守を使い、結局、仕返しは成就しない(まあ、常識的な対応だ)。けれども、太郎冠者は、仕返しに行ったということで気分が晴れ晴れとなり、千切木で立ち回りの舞まで舞ってしまうのだ。

狂言の中には、連歌に夢中になる夫をなじる妻やそのせいで離縁しようとする妻まで出てくるけれども、この「千切木」の妻は自分の夫のことをむしろ誇りにしているようだ。多分、この人は、どうすれば人生を楽しくできるのか知っているのだと思う。

というわけで、東次郎師のおかげで、意外に楽しいお話なことを、知りました。


能   鍾馗(しょうき) 金春安明(金春流

井波先生のお話によれば、南宋時代には民間に鍾馗図が流布していたらしいということだった。日宋貿易等の影響だろうか、どうも、その一部は日本にも平安末期には既に届いていたらしい。後白河法皇時代の鍾馗図が、国宝として奈良博に所蔵されている。
http://www.emuseum.jp/detail/100247/005?word=&d_lang=ja&s_lang=ja&class=1&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=7&mode=detail¢ury=

パンフレットの村上湛氏の解説によれば、<クセ>の一部の謡は既に世阿弥の「五音」にあるが、それをこの鍾馗という曲に仕立てたのが誰かは不明だという。そして、「世阿弥の孫世代に観世信光があり、彼の作った『皇帝』は同じ鍾馗伝説を扱った名作ですから、あるいはこれと何らかの関係があるのかもしれません。」とのこと。現行曲で鍾馗関係の曲が2つもあるとは興味深い。今の人はそれほどまでに鍾馗を重要視しているようには思われない。この曲が作られた当時は、まだ鍾馗が日本に伝わってまだ十分に広まっておらず、例えて言えば、まだ市場に出て日が浅い抗ウィルス新薬が薬物耐性を得ていないウィルスに良く効くように、その目新しさから霊験あらたかなように思われたりした、などということなのだろうか。


唐土(もろこし)の終南山(しゅうなんざん、鍾馗の故郷)というところに住むワキの旅人(高安勝久師)は、都に奏聞することがあるので、都に行こうとしている。

すると、旅人に自分も帝に奏聞したいことがあると声を掛けてくる者がある。旅人がそちらの方を見ると、橋掛を、シテの里人(金春安明師)がこちらに向かってくる。面は真角(しんかく)という痩男系の面に、黒頭、黒の水衣に、萌黄と白の山形文様の地に金の飛雲と笹竜胆(?)の着付。裏地が淡い紫で、その表が萌黄と白で浦が紫という色目が菖蒲の花のように爽やかでおしゃれ。

旅人が何を奏聞したいのか里人に尋ねると、里人は、皇帝が自分を敬意を示せば、宮中に現れ奇瑞を見せるだろうと言い、実は自分は鍾馗であることを明かす。

旅人が驚くと、里人は、人の生命の儚いことを美しい詞を連ねて語る。その、<クセ>の「一生は風の前の雲、夢の間に散じ安く、三界は水の上の泡、光の前に消えんとす」で始まる部分が世阿弥の伝書「五音」に掲載されているところだという。

旅人がもし奇瑞を自分に見せてくれれば、必ず皇帝に奏聞しましょうと言う。すると里人は、「げにげにこれは理なり」というと、急に人間離れした様相となり、そのまま去っていってしまって中入りとなる。


狂言では、山麓の者(山本則重師)が、現れる。旅人が鍾馗について知っていることがあれば教えて欲しいと頼むと、鍾馗の生涯について語る。その時、鍾馗が試験に及第できず、頭をかち割って自害したというところはちょっとどきっとしてしまった。


後場は、ワキの待謡にはじまり、[早笛]で、後シテの鍾馗が現れる。小べし見の表に赤頭、唐冠、黒地に金の菱形繋ぎ狩衣、紅地に金の山形文と飛雲の半切、中国風の劔という出立。[早笛]は早舞のバリエーションのような旋律とリズムだが、太鼓が力強く、勇壮な雰囲気。太鼓というのは、叩き方でひとつで、神聖な雰囲気も、おどろおどろしい雰囲気も、勇壮な雰囲気も、自在に出すことが出来る、囃子方の中では、一番表現力の豊かな楽器だと思う。

鍾馗は示現して、力強く舞を舞う。最後に両手に袖を巻く型をして、ああ、そういえば、『陽極大観』の何かの解説に、こういう風に両袖を巻くのは神様を表す型と書いてあったな、などと思っていると、曲は終わりを迎えて、鍾馗は橋掛を去っていくのだった。