観世能楽堂 第三回世阿弥シンポジウム〜世阿弥の謡い〜

第3回世阿弥シンポジウム〜世阿弥の謡い〜
日時 11月28日
会場 観世能楽堂(渋谷区松濤)
料金 一般1,000円
講座内容 総合司会 沖本幸子(青山学院大学准教授)
・『世阿弥(一調二機三声をめぐって)』
 講師 小林康夫東京大学教授)、松岡心平(東京大学教授)
・ワークショップ『能の謡い・世阿弥の謡い』
 講師 観世清和(二十六世観世宗家)、横山太郎(跡見女子学園大学准教授)
・ディスカッション
 出演 観世清和小林康夫、松岡心平、横山太郎
http://www.kanze.net/

途中から聴講したので、イマイチ全体の話が分からなかったが、印象に残ったのは、ひとつは世阿弥の心象表現に関するお話。

横山太郎先生が、「世阿弥の詞章は掛け詞が多く途中で全部の意味を耳で聴いて辿っていくのは難しくなってしまうが、そのようなあふれる詞からイメージが浮き上がってくる」という趣旨のことを述べられた際に、小林康夫先生がおっしゃった、「世阿弥は風景を描くことで<自分の心>を語っているのが当時としては革新的で、ルネッサンスなのだ」という趣旨のお話をされた(これを書いているのは、聴いてから結構時間が経っているので、多分に自己流の解釈になっている可能性がありますが)。

たしかにそれは私もそう思う。小林先生のお話のレベルからは大幅にレベル・ダウンするが、私はお能を観初めた当時は、初見のお能を観る前に詞章を読み、その後に入門書などで粗筋を確認すると、「そんなこと詞章に書いてあったけ…?」と思うことがしばしばあった。そして、お能を観続けているうちに、情景描写と思われるところは、単なる情景描写ではなく、実は心理描写でもあるということに気がついた。

和歌では情景描写が叙情描写になっているというのは常套表現なので世阿弥が発明した表現というわけではないけれども、小林先生がおっしゃるとおり、能楽でそういう方法をとることを考えついた世阿弥は天才だと思う。

たとえば、その日、お家元が独吟された「関寺小町」のシテサシの中に、

老の鶯の。百囀の春は来れども。昔に帰る秋はなし。あら来し方恋しや/\。

という詞があった。

この詞章の中の「老の鶯の。百囀の春」という一節は、表面的には春に鶯の鳴く情景を描いているように思われるが、「老」という詞や「百囀」という詞から、百歳の老女、小町が浮かび上がってくる。鴬の囀というのは、歌を詠むことを暗喩しているのかもしれない。

その次の「昔に帰る秋はなし」という詞では、その美貌と歌の才で一世を風靡した小町のこの世の春は過ぎてしまい、二度と戻ってくることは無いということが表現されているのだと思う。この「秋」という詞は、その言葉そのものが郷愁をかき立てるし、「飽き」に通じ、人の気持ちが一度離れたら二度と戻ってこないということを示唆しているのかもしれない。それに、「人生の秋」という言葉があるように、「老境」という意味にも通じる。

また、「昔に帰る秋」という言葉は、在原業平の「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」という歌を思い出させるし、「いにしへのしづのおだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」という歌も思い出させる。しかし、その「昔に帰る秋はなし」と言うことにより、自分の過去や、かつて恋した人への恋慕の情が一気に押し寄せ、「あら来し方恋しや/\。」という詞につながっていく。

こういう詞は私のような初心者では詞章を読んだだけでは、それほど鮮やかには心に浮かび上がってこないけれども、お家元によって音律を伴って謡われたものを聴いて初めてはっとさせられ、後で改めて読み直して、意味の深さに気づく。そんな風に、演じられたものを聴いたり観たりしてはっとさせられる瞬間と、その後に考えを巡らすことでそれまで気が付かなかったことがすとんと腑に落ちる感覚は、私にとってお能文楽などの古典芸能を鑑賞する楽しみの一つだ。

そしてその詞章は端的で凝縮された表現であるにもかかわらず、散文的に心情を叙述しただけでは絶対に描けないような豊かなイメージを喚起することで、重層的な意味を内在している。逆説的だけれども、散文的に心情を表現するより、情景を描くことで心情を表す方がずっと本当の心の動きに近づくのではないだろうか。心というのは、表面的な思いと深層での思いが何重にも重なってできている複雑なものだからだ。

世阿弥は心に焦点を当てており、世阿弥の「心」というのは、過去やかつての恋人が「恋しき」という心の発露だという話があり、それも非常におもしろかった。たとえば世阿弥は曲舞を心理描写をする場として採り入れ、観阿弥が作った「李夫人の曲舞」を、「花筐」で心理描写のために採り入れたりしたという。


それからもうひとつ印象に残ったのは、またもや小林先生の「和歌さえあれば、650年持つ」という言葉。実はその意味するところはよく分からなかった。先生によれば、「檜垣」が最後、「罪を浮べて給べ」といって消えていき、「姥捨」の姥は「姥捨山にぞなりにけり」で終わる。一方、「関寺小町」では、「本の藁屋に帰りけり」となっており、何の解決もない。今でも藁屋にいるかもしれない。仏教的な救いは無いが、和歌の心によって永遠に永らえている…というような話だったと思う。

そのときは分かったような分からないような気分で話を聴いていたのだけど、ずっと頭にひっかっかっていた。そして、諸行無常な世の中にあって、「ことば」だけは伝承され続けさえすれば生き残るということに思い至った。和歌も、伝わっていさえすれば、上代や中古、中世の人々の心情に共感することが出来るのだ。


今回はワークショップで、お家元が「関寺小町」の独吟と素謡をされたが、お家元が「関寺小町」は今後十年は「関寺小町」をしないという話をされていたのが印象的だった。理由は地謡が育っていないからだそう。その話から地謡の話あれこれとなり、なかなか興味深かった。確かに、シテ一人主義とよく言われるけれども、地謡の役割はものすごく大きいと思う。地謡のせいでシテの名演が台無しになった舞台を観ることは結構あるし(これは演じているシテの方も悔しいだろうけど、観ている方も残念でしかたない気分になる)、地謡が全然まとまらずシテの人が舞いながら地謡の部分まで謡っているのをみたこともある。逆に地謡が良いのにシテが良くなかったというのは(わたしの基準でしか分からないけど)、あまり無い気がする。多分、地謡が良いとシテも演じやすいのだろう。

そこで、横山先生が世阿弥の「一調二機三声」の話を話を持ち出された。「一調二機三声」とは、音をあわせ、機をみて発声するという意味だという話だった気がする。その機をみるというのが、お互いに感じ合って演じることだという。それは西欧の演出家による演出とは対極の演出法であると語られていた。演劇については良くわからないけれども、クラッシック音楽に関して言えば、指揮者がディレクションし、演奏者はただ黙って指揮に従えばいいということはないと思う。クラッシックの合奏では、演奏者は指導者や指揮者からお互いの音を聴き合うように常に注意される。演奏者がお互いの音を聴き合って演奏しないと、ハーモニーは作れないからだ。多分、クラッシックではお互いの音を聴き合って演奏する演奏者達に方向を示す指揮者がいるが、お能では演奏者達がもっと高度にお互いの演奏を聴き合うことが求められているということなのかもしれない。クラッシックでは指揮者がいないとデメリットの方が大きく感じられるけれども、世阿弥は指揮者がいないデメリットを乗り越えた先に、演奏者が感じ合うことで本当に素晴らしいハーモニーを実現するチャンスがあることを重視し、その至難の業を実現しようとしたのかもしれない。そういった考え方は、中世の茶道や連歌の精神にも通じるものである気がする。


この第三回で世阿弥シンポジウムは、とりあえずこの第三回で完結したようだ。観世能楽堂による「世阿弥シンポジウム」は、私が今年参加した能楽関係のイベントでは、最も刺激的で最も面白い催しでした。また今後も面白いイベントを期待しています。