高輪区民センター区民ホール 床だけコンサート

浄瑠璃】豊竹呂勢大夫
【三味線】鶴澤燕三、竹澤宗助、鶴澤清志郎、鶴澤清馗、鶴澤寛太郎、鶴澤清公

Vol.1プログラム
1.オープニング
2.三味線トーク
3.素浄瑠璃 新口村の段より
4.冬八景
http://labunraku.jp/2013/10/03/121-%E5%BA%8A%E3%81%A0%E3%81%91%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88/

楽しいおしゃべりと三味線&語りで、素敵な日曜の夜になりました。

冒頭は「卅三間堂棟由来」の木遣り音頭から始まる三味線6挺によるメドレー。

続いて、三味線の燕三さん、宗助さん、清志郎さん、清馗さん、寛太郎さん、清公さんプラス呂勢さんの楽しいお話。

燕三さんが開口一番、「床だけコンサート」と発音した時、自分が思っていたイントネーションと違ったので、ショックだった。これは東京弁ではなく大阪弁で発音するのでした。

それから、呂勢さんが「床だけっていうけど、人形だけのコンサートって無いですよね」、などとつっこみを入れられていたが、要するに、「床だけコンサート」という公演名は、最初は「三味線だけ」の公演を企画して、「そんだったら素浄瑠璃というよりコンサートだよね」という話になり、「三味線だけのコンサート」にしようとしたけど、やっぱり「語り」もないときついってことで、それじゃあ「床だけ」ってことでってことになるも、「それって単なる素浄瑠璃じゃん」と誰かがつっこみ、「いやいや、あくまで三味線メインだからコンサートでってことで」ということで「床だけコンサート」に収まった…という企画の紆余曲折を想像させる、意味深なタイトルなのでした。

トークは主に、師匠にどうやって叱られるかという話。それぞれの師匠方の性格が彷彿とされるエピソードで面白かった。また、宗助さんが「昔は師匠が弾くのをそのまま自分で真似するというやり方だけど、今は譜面を見て予習していく」という趣旨のお話をされていて、興味深かった。譜面ってなんだろう?朱とかいうやつだろうか。

新口村の段

5分間の休憩を挟んで、呂勢さん、燕三さんによる「新口村の段」。孫右衛門の出からかと思ったら、忠兵衛と梅川が忠三郎の家を尋ねるところから最後までで、そんなに演奏してもらえるとは思わなかったので、得した気分。すごくパワフルな「新口村」でした。あの孫右衛門は、雪に足をとられて転ぶどころか、エベレストぐらいは登っちゃいそうな勢い。

それにしても、梅川は、かわいそう。ホントはものすごく出来た女性なのに、こんな境遇では、孫右衛門には、「さぞにくかろう、お腹も立たふが、因果づくと諦めて、お赦しなされて下さりませ」としか、言い様がない。それでも、孫右衛門もきっと梅川の優しい心根を感じ取ったのだろう。梅川と忠兵衛に路銀を渡す。梅川も孫右衛門の親心に動かされ、孫右衛門が忠兵衛と今生の別れが出来るよう、二人を引き会わせる。忠兵衛の周囲の人は、孫右衛門、梅川、妙閑と、人間的に出来た人ばかりなのに、それでも事件は起こってしまった。

段切りはいつも感動してしまう。昔の日本の北限、外ヶ浜で血の涙を流しながら子を探す善知鳥と、親を求めて鳴く子の安方。そしてお能の「善知鳥」によれば、安方は飛べないので、親を求めて鳴いていると、狩人に見つかり、殺されてしまうという。その姿は、父を慕い新口村まで来てしまった忠兵衛と、捕り手から忠兵衛を逃そうとする孫右衛門と重なる。そして、どこにも描かれていないけど、目に浮かぶのは、重く垂れ込める曇天と、遠くまで広がる雪景色。じんと袖口や足先から伝わる湿気や凍えるような雪の冷たさも感じる。素浄瑠璃には、すぼめた傘で顔を隠して泣く孫右衛門は出てこないけど、語りと三味線だけでも十分、叙情的な終わり方だということを、素浄瑠璃で聞いて、改めて感じました。


冬八景

冬景色を描いた曲のメドレー。『源氏烏帽子折』の「伏見の段」、『伊賀越道中双六』の「岡崎の段」、『染模様妹背門松』の「質屋の段」、『奥州安達原』の「袖萩祭文の段」、『中将姫古跡松』の「中将姫雪責の段」、『信州川中島合戦』の「輝虎配膳の段」、『心中天の網島』の「大和屋の段」、『競四季寿』の「鷺娘」。

近松の『源氏烏帽子折』の「伏見の段」は、牛若丸等をつれて雪の中を彷徨っていた常盤御前を平宗清が里人に身をやつして助けたという感じの話だったと思う。ちゃんと現行曲なんですね。一度、聴いてみたい。

この「冬八景」は燕三さんによれば、一つのストーリーになっているそうだけど、答えは結局、分からずじまい。とはいえ、文楽って冬や雪の場面が意外に多いなと思う。お能にも雪の風景はあるけど、全部で230番だか何だかあるというのに、思いつくのは、「鉢木」とか「求塚」、マイナーなところで中将姫の雪責の元になったという説もある「竹雪」とかぐらい。何故、文楽は冬や雪の場面が多いのだろう?悲劇の中の情を描くには、冬や雪が似合うからだろうか。

というわけで、是非、来年も開催、お願いします!