国立能楽堂 普及公演 水掛聟 佐保山

<月間特集・金春禅竹
解説・能楽あんない   松岡 心平(東京大学教授)
狂言 水掛聟(みずかけむこ)  大藏 千太郎(大蔵流
能  佐保山(さおやま)   櫻間 右陣(金春流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2014/7126.html

最近忙しくてなかなかお能をじっくりと診る余裕がなかったので、私としては久々に松岡先生の解説を聴きました。いつもながら聴衆の知識レベルを全く考慮せずに展開される松岡ワールドに浸り、楽しい午後のひとときでした。


松岡先生のお話は、まずは、今月の国立能楽堂の月刊特集である金春禅竹がどんな人かというところから始まった。

禅竹についての当時の評はいくつかあり、そのうちのひとつは室町中期の歌人、心敬の連歌論「ひとりごと」(応仁2年(1468))という書だそう。この書には申楽の第一人者として、世阿弥、音阿弥、禅竹があがっているという。その中で禅竹は<不思議な曲を数多書いた人>というような評価になってるのだという。また、世阿弥が元雅を亡くして5年後に執筆した「去来華(きょらいか)」(1422)には、若い禅竹を評して、「(将来)定めて異中の異曲とやなるべき」とあるそうだ。当時から禅竹は申楽をさらに飛躍させる第一人者というよりは、「独自の境地を築く人」というニュアンスで評されている、というのが松岡先生の解説。

また禅竹がフェミニストだったというお話も興味深かった。禅竹が世阿弥の女婿ということは有名だけど、その妻とは仲が良く、大きな影響を受けていたのではというのは松岡説。確かに、世阿弥の娘で、元雅ときょうだいという女性であれば、彼女自身、申楽や座の運営によく通じており、もし男性として生まれていたら世阿弥の跡を継ぐほどの申楽の才能に恵まれていたとしても不思議はないだろう。禅竹にインスピレーションを与え、良き支えになった女性であろうという説も頷ける話だ。

しかし、意外なことに禅竹の妻が世阿弥世阿弥の書にも禅竹の書にもそのようなことは書かれていないのだとか。ただし、禅鳳が世阿弥のことを祖父と言ったりしているのだそう(…と聞いたと思ったけど、禅鳳は禅竹の孫というのが一般的な理解のよう。聞き間違えたかも)。

禅竹と世阿弥の娘との結婚は禅竹が24歳頃のこと考えられ、世阿弥の方からの申し出なのではないかという興味深い話もあった。

世阿弥と禅竹の姻戚関係になる前の関係はどうだったかというと、世阿弥は禅竹のことをかなり昔から評価はしており、現存する世阿弥自筆本「江口」は禅竹が20歳の頃に相伝されたものだそう。

禅竹は若くして金春太夫になったそうだけど、その当時の大和四座における金春座(円満井座、竹田の座)の位置づけは、大和申楽を代表する座というものだったという。金春は、あの秦河勝の末流で禅竹は30代とされており、当時、金春座は近江猿楽(こっちは属していた日吉神社の使わしめが猿であるため申楽ではなく猿楽と書くのだとか)をも配下におく座という認識があった一方、世阿弥の結崎座はそれほど大きな勢力ではなかったというお話だった。しかし、泊瀬川の流域である竹田のあたりにあった金春と泊瀬川の支流である寺川の流域にあった結崎座は、以前から姻戚関係があり、世阿弥の娘と禅竹の婚姻関係も、そう不思議なことではなかったのだそう。

禅竹と世阿弥の娘の仲の良さを裏付けるエピソードとしては禅竹が応仁元年(1467)、63才の時、妻と二人で稲荷山で一週間参籠したという記録があるという。松岡先生が今月のパンフレットに書かれている特集記事にある『稲荷山参籠記』の話がそれで、その中で禅竹は自分の妻のことを「老女」と呼んでいて、二人で仲良く連歌を詠んだのを書き留めていたりする。そしてその稲荷山参籠で祈ったことは演能とか金春座のことではなくて、夫婦が仲睦まじくいたいというようなことなのだ。

とゆーか、ホントはもっと赤裸々なお願い事で、それというのも彼は歓喜天を深く信仰しており、彼の作ったお能でも陰陽和合というテーマが、例えば「杜若」や「定家」に現れているのだという。この中でも特に「定家」の話は、わたし的には結構衝撃だった。「定家」では、後シテの式子内親王はワキの僧の法華経の読経によりいったんは自分にがんじがらめに絡みつく定家葛から解放され、報恩之舞(序ノ舞)を舞うのに、結局は救われずに再び墓の中に戻って定家葛に絡みつかれてしまう。私が観たことがあるのは関根祥六師の「定家」で、私はそのとき、式子内親王がまるで観音菩薩のように大きな愛で定家の執心を受け止めたという風に感じた(それゆえ、感動した)。けれども、そこは禅竹的には「最後は法によって救われるよりも、定家との妄執に囚われた関係を選んだ式子内親王」というような凄まじい解釈が正しいらしい。

公演後に偶然、web上に「定家」に関する観世流お家元の清河寿師と松岡先生の対談を見つけたのだが(この対談の内容も結構衝撃的だがそれはさておき)、お家元によれば、お父上は「定家」の最後の場面を「美しく、華やかに」演じるようにおっしゃったのだとか。妄執に囚われた関係におぼれていく二人というのは、定家と式子内親王という優れた歌人を歌道の菩薩としてたたえようとした禅竹流の解釈であろうというのが松岡先生の解釈で(しかしそうだとすると、結末が重苦しい印象を与えることの意味が気になる)、お家元はそれを受けて、だからこそお家元のお父上は、終局部を「華麗に」舞うよう指導されたのかもしれない、と締めくくられていた。うーむ、私が思っていたものとかなり違う。改めて「定家」を観てみなくては…。


今回演じられた「佐保山」に関しては、松岡先生によれば、禅竹の若書きだという。記録には応永34年(1427)の興福寺薪猿楽「さほひめ」という曲が元雅によって演じられているという記述があるのだそう。禅竹の生まれが応永12年(1405)と言われているから、22才の頃には「さほひめ(後の佐保山)」を書いていたことになる。「龍田」も禅竹の作品で、春の神の曲と秋の神の曲を両方作っているというのは面白い。ただ、「佐保山」の方は若書きというだけあって、「龍田」に比べると内容的には平板な気がする。複式夢幻能の「何か物言いたげな前シテが後場で後シテとなって真実の姿を表し、神秘的な奥義をワキに伝える」という流の中で観る者が感じる独特の高揚感は、圧倒的に「龍田」の方が優れているように思う。

実際に演じられた印象は、前シテは増女で没個性な印象だったが、後シテの佐保姫では小面が用いられ、「羽衣」の天女のような純粋無垢な感じだった。詞章が平板なだけにそれほど強い印象を残す曲ではないけれども、ここから発展していって、ガラスのように繊細な「野宮」や妄執の果ての「定家」などの数あるお能の中でも最高傑作の部類に入る曲に至ったのだ。そう思うと、禅竹が辿った人の心の探求の長い長い道のりが思い遣られるし、また松岡先生の説のように、妻との深い心の交流があったことが想像されるのでした。そういう意味で、興味深い公演でした。