国立文楽劇場 夏休み公演第三部 女殺油地獄(その1)

国立文楽劇場開場30周年記念
夏休み文楽特別公演第3部 【サマーレイトショー】 午後6時開演
近松門左衛門没後290年 女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)
 徳庵堤の段/河内屋内の段
 豊島屋油店の段/同 逮夜の段

すばらしいお芝居を胸に刻むことができた第三部でした。

数年前、初めて文楽の『女殺油地獄』を観た時は、あまりの殺伐とした内容と迫真の演技に衝撃を受け、居たたまれない気分になった。文楽より前に歌舞伎の仁左衛門丈の与兵衛を観ていたのだけど、文楽の与兵衛は、仁左衛門丈の演じる「どこか憎めない愛嬌もある、幼稚で気分屋」の与兵衛とは人物造型が違い、とても戸惑った。

歌舞伎では、その与兵衛がふと見せる愛嬌に周囲の人々と観客は与兵衛に惹きつけるものの、結局、与兵衛のもうひとつの幼稚で気分屋という側面がお吉の借金の拒否によって狂気に変わっていくという筋になっていて、仁左衛門丈の名演もあり、その物語には説得力があった。

しかし、文楽の与兵衛は彼の内に歌舞伎の与兵衛とは比べ物にならないくらい大きな深い闇を持ち、親たちのずっと苦悩も深く、お吉を襲う殺しの場面ももっと暗く、陰惨なものだった。私は文楽の『女殺油地獄』を観て、歌舞伎の『女殺油地獄』と文楽の『女殺油地獄』は、同じ登場人物がでてくる同じストーリーの話かもしれないけれども、別の原動力に衝き動かされた別の物語なのだと思わざるを得まなかった。

今回、咲師匠が「一生一代」を宣言され、与兵衛というのはそれだけ描き出すのが難しい人物なのだと改めて思った。こんな人物を300年近く前に60代になって描き出すことに成功した近松は、本当に、天才としか言いようがないと思う。



徳庵堤の段」

野崎参りの途中、お吉と娘お清が出茶屋で一休みする。和生さんのお吉はお茶屋の主人からお茶を受け取ると、娘のお清にふーふー言ってからお茶を飲むように促し、勘次郎さんのお清ちゃんは真剣にふーふー言ってからお茶を飲む。心温まる母娘の風景だ。

そこに仲間を引き連れた与兵衛が現れる。勘十郎さんの与兵衛は肩を怒らせ、斜に構え、仲間に顎で合図し、見るからにワルという感じ。自分の野崎参りの誘いにのらず、田舎客と野崎参りをしている小春の帰りを待ち伏せしようとしている。偶然会ったお吉には、そんな喧嘩をせず、少しは親を思い遣るよう異見されるが、与兵衛は内心なめてかかっているお吉の言葉などどこ吹く風で、聞いた振りをするものの真に受ける様子は全くない。野崎参りの帰り道の遊女の小春と鉢合わせすると、早速彼女ををなじるのだった。ところが、花車に良いようにとりなされれば、すぐにその気になって機嫌を直す。さらに与兵衛は仲間をけしかけ田舎客に喧嘩を売るが、そのせいで野崎詣の代参に来たお侍の着物に泥をかけてしまう。その代参に同行していて与兵衛を取り押さえたのは偶然にも与兵衛の伯父にあたる森右衛門。森右衛門に「下向には首を討つ」と脅され、前後不覚になってお吉に甘えて助けを求める。

たったこれだけの短い間に、与兵衛が何の深い考えも持たない、刹那的なその場しのぎの人間であるということが分かってしまう。印象的な段だ。


「河内屋内の段」

「河内屋内の段」は「豊嶋屋の段」には決して劣らない、悲劇の物語だと思う。与兵衛は親たちの地道に生きるよう諭す異見に全く聞く耳を持たず、かえって親たちを馬鹿にしきっている。だから親たちに暴力を振るうことさえ平気だ。一方の親たちは、与兵衛のことを愛しく思っているのに、彼に何を言ってもそれは彼に伝わらない。返って与兵衛をますます荒れ狂わせるだけなのだ。

二十三にもなって未だ親がかりの与兵衛がやろうとすることといえば、叔父の森右衛門をダシに父徳兵衛(玉也さん)からお金をせしめようとしたり、妹のおかちに先代徳兵衛に乗り移られたかのような狂言を演じさせたりするといった詐欺まがいのことばかり。叔父をダシにお金をせしめようとする与兵衛だが、野崎参りの一件を既に兄の太兵衛から聞いている徳兵衛は全く相手にしない。勘十郎さんの与兵衛は算盤を枕代わりにすると、腹いせに自分の足を徳兵衛のところに踏み伸ばし、親を親とも思わない態度。妹が狂言を演じている間は、身を大きく乗り出して自分が教えた通りに妹が証言しているのを見届けると、悦に入って、また算盤を枕にしてふてぶてしく寝ころぶ有様。

妹の狂言が済むと与兵衛はおかちの病気の加持祈祷をしにきた白稲荷法印を追い出し、徳兵衛に対して自分の好きな遊女と沿わせてこの家の所帯を渡すよう凄む。

私は今まで何故、兄の太兵衛がいるのに与兵衛に家を継がせるせるという話になるのだろうかと思っていた。けれども、よくよく読めば、兄は河内屋として独立し、順慶町にすでに店を構えているのだ。Wikipediaによれば、順慶町は南船場にあり、順慶通りは夕霧太夫もいた新町遊郭へ至る新町橋が架けられ、夜店でにぎわっていたという。徳兵衛は兄にはすでに大坂の繁華街に店を構えさせていたということなのだろう。

徳兵衛は妹のおかちに聟をとると言いながら、本当は、与兵衛に船場・本天満町の、今現在家族が住んでいる場所にある店を継がせようとしていたのだ。兄には独立させ、弟の与兵衛は自分の手元に置くという、むしろ、与兵衛の将来が心配で心を尽くす徳兵衛なのだ。近松の原文では、徳兵衛が本天満町の河内屋を無理矢理継ごうとする与兵衛に対して、
「おのれ今の若盛り、一働き稼ぎ、五間口、七間口の門柱の。主にと念願を立ててこそ商人(あきんど)なれ。たつた一間間半(いっけんまはん)の門柱に念かけ。母に手向ひ、父を踏み、行く先、偽り騙り事。その根性が続いたら、門柱は思ひもよらず。獄門柱の主にならう。親はそれが悲しい」
と、訴える。徳兵衛は、どう手を尽くそうと発憤して真人間になろうとしない与兵衛に対する焦燥感を募らせる。

一方の与兵衛は店の売上を湯水のように遣って遊びまわり、親たちや妹にあれだけの暴力を振るい、放蕩の限りを尽くしている。その彼が何とかして手にいれようとしているものが、実は親子がこじんまりと住んでいる、ささやかな店なのだと思うと、滑稽ですらある。けれども、それこそが与兵衛が自分でも気づいていない心の奥底の顕れだと思う。

与兵衛は結局、自分の居場所である小さな家にしがみつきたかったのではないだろうか。家というのは、家庭の象徴でもある。与兵衛の親を親とも思わない振る舞いとはうらはらに、彼は親の庇護の下にある、自分の唯一の居場所を失いたくなかったのだということなのかもしれない。

けれども、彼は、未だ自分が親の庇護や愛情を求めているとか、家庭の中に居場所を欲しているとか、そういう自分でさえつかめていない心の奥底にある欲求を認めることは出来なかったのだろう。特に、かつては家の使用人だった徳兵衛には、自分の親を求める鬱屈した思いを絶対に悟られたくなかったに違いない。「豊島屋の段」では母は与兵衛のことを「立派好きもする奴」といっている。どんな大人の事情があったにせよ、亡くなった父を継いで養父となったのがかつての使用人というのは、「立派好き」で見栄っ張りの与兵衛としては、とても許せることではなかったのではないだろうか。だから、彼は、親に言うことに聞く耳をもたず暴力を振るったり、親を親とも思わない振る舞いをしたのかもしれない。

なぜ、近松は主人公の与兵衛をこんな人間に仕立てようとしたのだろう。浄瑠璃では「親のために犠牲になる子供」というのはもっともポピュラーなテーマのひとつだけども、親に暴力を振るう登場人物というのはあまりいない。『夏祭波花鑑』の舅義兵次と徳兵衛の殺し合いとか、『妹背山婦女庭訓』の蝦夷を入鹿が追い込んだりとか、そのくらいしか思い出せない。江戸時代は家父長制が今以上に父親の権威は大きく、子が父に反抗するなどということはタブーだったのだろう。

だが考えてみれば、人間が精神面で成長する過程において、親子の間に葛藤が生まれる時期があるのは当然のことだ。親に反抗する子供というエピソードはほとんど無くとも、『義経千本桜』の「鮓屋」の弥左衛門と権太や『摂州合邦』の合邦と玉手御前など、親が子供の悪事に苦悩するという筋はあるし、江戸時代の見物の人たちもそういった筋には感動したようだ。それでも与兵衛のように親にあからさまに反抗する子供というエピソードが浄瑠璃の中にほとんどみられないことを考えると、江戸時代の人々にとって、心の中で親に反発することがあっても、お芝居でそのような場面を観ることは耐え難いことだったのかもしれない。だとすると、これだけあからさまに暴力を振るう与兵衛と彼を更生させようとする親たちの葛藤が展開される物語というのは、初演当時の人々にとっては、今の私たちが感じる以上に、衝撃的で受け入れがたく感じたのかもしれない。近松は、浄瑠璃の作者として、世上のタブーに鋭く切り込むこともいとわず、人間の不条理を描き出したいと思ったのかもしれない。

実直で主人思いで主人の遺した河内屋と家族の安泰だけを思い、尽くしてきた徳兵衛が、その主の遺した与兵衛に振り回されるという悲劇。徳兵衛は与兵衛から逃げずに真摯に向かい合おうとしているのに、与兵衛には常識も愛情も伝わらない。母に追い出されてふてくされて出て行く与兵衛と、その後ろ姿を目で追うことしか出来ず、絶望を感じ柱にすがる徳兵衛。何度も観ている場面なのに、何度観ても胸がつまりました。

床は口の芳穂さんと寛太郎さん。奥が呂勢さんと清治師匠。芳穂さんと寛太郎さんも良かった。呂勢さんと清治師匠は、そのまま「豊島屋の段」もお二人で聴きたいと思わさせられる演奏でした。

というわけでその2につづきます。