断絶平家

先月観た「藤戸」についてのメモを書こうと思って改めてパンフレットの井上愛氏の解説に目を通したら、『平家物語』の「藤戸」には、「佐々木盛綱から恩賞をもらったという漁師の話と、殺されてしまった漁師の話の二系統があり、能では後者の形を取り入れています」と書いてある。

そういわれてみれば、似たようなことを他の読み物でも読んだことがあるような気がするが、あまり深く考えたことがなかった。今回は何だか気になったので、先日、図書館に立ち寄った時に、書架にある古典全集をいくつかチェックしてみた。岩波書店の新日本古典大系は、覚一系で、殺されてしまった漁師の話。小学館の新編(白い方)は、八坂系(高野本)でやはり殺されてしまった漁師の話、さらに新潮の日本古典集成も、八坂系の古本、「百二十句本」(平仮名本)と呼ばれている本で、やはり、殺されてしまう漁師の話だ。

しかし、ついでに新潮の『平家物語』の下巻の巻末にある解説を読んでみて、驚いてしまい、<『藤戸』の恩賞を受けた漁師探し>はどこかに飛んでいってしまった。『平家物語』の語り物系は、大きく覚一系と八坂系に分かれるが、「覚一系」と「八坂系」は結末が大きく異なると書いてある。「覚一系」は、最後に建礼門院の祈りと往生を描く「灌頂巻」があり、「八坂系」は、覚一系でいう「六代被斬」が最終巻で、

それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり

という詞で終わる。つまり、八坂系は、平家の最後の子孫である六代御前が鎌倉の六浦坂で斬られて平家が滅亡したという結末の話なのだ。これを「断絶平家」と呼ぶのだそうだ。

また、「灌頂巻」の成り立ちを分析すると、八坂系の方が古態だと推測されるのだという。したがって、覚一系の本文が成立する前の南北朝より前の人々にとっての『平家物語』とは、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」で始まり、「それよりしてぞ、平家の詩村は絶えにけり」で終わる、「断絶平家」だったのだ。


そもそも、覚一系というのは、南北朝時代の琵琶法師、覚一が確立した流派で、覚一が「灌頂巻」を特立する本文を制定したのだという。

もしそうだとすると、覚一という人は、既に「断絶平家」の結末となっていた壮大な物語に『灌頂巻』を付け足して、大きく異なる、救いのある話に変え、それを現在の『平家物語』の理解として定着させることが出来た、大変才能に溢れた琵琶法師だったのだということになる。

さらに面白いのは、覚一が確立した覚一系は、その後も曲節に大きな揺れもなく、伝本の主流となったが、八坂系は組織力の弱さから異本も沢山現れ、衰えていった。しかし、新潮の解説を書いた水原一氏によれば、「芸術の衰退とはおよそ商売がえで、新しい楽器とも結びついて近世に盛んに現れた多くの音曲は八坂流衰微の忘れ形見のようなものであったろう」としている。

そういわれてみれば、お能でも『俊寛』をはじめとして、詞章が八坂本から引かれていたり、『摂待』のように八坂本が典拠の一部を提供している曲があったりする。中世から近世への音曲の発達の流れを垣間見るようで、興味深い。