大田区区民ホール 文楽地方公演 夜の部

2013年3月17日(日) 昼の部13:30開演/夜の部18:00開演
人形浄瑠璃文楽 夜の部
解説
二人禿
義経千本桜 すしやの段
http://www.ota-bunka.or.jp/event/plaza/

夜の部は、二人禿とすしや。

文字久さんの解説。文字久さんが、すしやという演目について、「三大名作の一つ『義経千本桜』の最も感動的な段です。」とおっしゃった。私は、二段目が好きなので、一瞬、「二段目の方が感動的なのに!」と思ったが、五段物の三段目だからということなのかも。それでもやっぱり、二段目の方が感動的という考えは棄て難いな。知盛がかっこいいということもあるけれども、やはり、知盛の口説きで、平家の一門が都落ちした際の六道の沙汰や、その憂艱難を安徳帝に味合わせしめたことを語った後、平家の運命を総括して、

これといふも父清盛、外戚の望みあるによつて、姫宮を御男宮と言ひふらし、権威を以て御位につけ、天道を欺き天照太神に偽り申せしその悪逆、積り/\て一門わが子の身に報ふあか、是非もなや。

と語る場面が圧巻だからだ。この詞は、『平家物語』の最終巻である灌頂巻の「大原御幸」で、平家を滅亡に追い込むことに荷担した後白河法皇が、尼となって大原の寂光院に出家隠遁している清盛の娘で故高倉天皇中宮だった建礼門院を訪ねた際に、建礼門院が告白した詞を踏襲していている。灌頂巻は、『平家物語』を締めくくる重要な場面の重要な詞なのだ。源平の争いを扱った物語を書くとして、これ以上の決め台詞があるだろうか?


とはいえ、この詞が『義経千本桜』の三段目ではなく、二段目にあるということは、一体、どういうことを意味するのだろう?以前、『平家物語』のおもだった異本の「灌頂巻」を確認してみたところ、上に引いた「大物浦の段」の知盛の詞に一番近いのが、延慶本だった。延慶本というのは、読み本系と言われる系統に属していて、語り本系と呼ばれる覚一本系や、長門本、『源平盛衰記』などの異本に比べると、芸能の典拠に使われることはずっと少ない。そうだとすると、細心な計算の下に、選りに選んだこの平家の所業を総括する詞を、あえて二段目に置いたと考えることが可能だと思う。

そのように考えてみると、二段目で平家の所業を総括した後に描かれる三段目というのは、『義経千本桜』において、どういう意義があるのだろう?そう思って、再度、『義経千本桜』を読んでみると、「堀川御所の段」からすでに、維盛卿の北の方、若葉内侍と六代を義経がそのままにして生け捕らないことについて、後白河法皇の昵近(じっきん)の左大臣、藤原朝方の家臣が義経を非難している(朝方は若葉内侍に横恋慕しているのだ)。なぜ、若葉内侍と六代を生け捕らないことが問題となるかというと、六代御前は、清盛の祖父で平家の中興の祖、平正盛から数えて平氏嫡流の六代目にあたるから、六代御前を生かしておくということは、平家を滅亡させたとは言い切れないということになるからだ。そして、三段目で維盛・六代が登場するということは、二段目で平家の滅亡とその所業の総括をした後に、三段目で維盛・六代を助けたということが、『義経千本桜』の主要テーマなのだということになるようだ。


もう少し『義経千本桜』の中の維盛、六代を助けたことの意味を考えるために、実際の維盛と六代はどういう運命を辿ったのかについての伝承を再確認するために、『平家物語』の該当箇所を読んでみた。

まず、維盛に関しては、寿永三年(1184)2月7日の一ノ谷の合戦では、大病のため参戦せず、八島で療養していた。結局、いくさにあけくれる日々をむなしく思い、内侍や六代のことが恋しく都に残した妻子を一目見ようと都に上るが、折しも東大寺興福寺を消失させた重衡が捕らえられ市中引き回されたことを考えると都に入ることも不可能とあきらめ、滝口入道という人を頼って高野山に行き、滝口入道に、出家をし、熊野に詣でたいと申し出た。さらに、武里という舎人にそのことを八島の一門に伝えるよう言い、武里は山を下りる。維盛は、滝口入道の導きで、高野の高僧、観賢の下で出家し、熊野詣に赴く。そして本宮まで詣でると、寿永三年3月28日、海で入水した。

一方、六代に関しては、寿永四年(1185)、平家の残党を探していた北条四郎が六代を見つける。北条四郎は六代を捕らえるが、あまりに美しかったので、頼朝に差し出すことを躊躇する。その頃、六代がとらえられたことを知っためのとの女房が、頼朝の信頼の厚い高雄の文覚のことを聞きつけ、文覚に助けを求める。文覚は、北条四郎にことの仔細を尋ね、六代と会い、頼朝に許しを請うことを決心する。文覚は、以前、頼朝の命を助けたことがあり、その時、頼朝は文覚の頼みは必ず聞き届けると文覚に約束したのだ。文覚は二十日待てと告げて東に下っていったが、文覚は期限が過ぎても戻らなかった。北条四郎は、もしや文覚と途中で会えるのはと僅かな希望を託して、六代を連れて東に下ったが、文覚には会うことができず、結局、駿河国に着いたところで、六代に諦めるように諭し、首を斬ろうとする。その時、早馬に乗った僧が一人、鞭をたたきながら駆け寄ってくる。そして、僧は息せき切って、頼朝の教書を差し出すと、その教書には、

まことや小松三位中将維盛卿の子息、尋出(たずねいだ)されて候なる、高雄の聖(ひじり)御坊申(もうし)うけんと候。疑(うたがい)をなさず、あづけ奉るべし。
北条四郎殿へ
頼朝

とあった。六代は、出家した文覚の弟子となった。


平家物語』を踏まえて『義経千本桜』について考えると、弥左衝門が弥助と出会ったのは、熊野浦としているので、弥左衛門は、現世を諦め那智山から海に出て入水しようとした維盛卿に会ったことになる。そして伝承の中の維盛は、北の方や六代に会うことはかなわなかったけれども、『義経千本桜』の「すしやの段」の中では、維盛は釣瓶鮨屋で若葉の内侍や六代と会うことができ、維盛は頼朝の計らいにより、髻を切って高野へ向かい、六代は伝承通り、文覚の元に赴くことになる。

実は、『平家物語』の中で、六代が間一髪で首を刎ねられそうになった場所は、「千本の松原」という場所だ。この名前は千本桜という言葉を連想させる。千本桜というのは、吉野山の桜のことで、吉野は古来から、後に天武天皇となる大海人と皇子や後醍醐天皇などをはじめとして、都から多くの人が難を逃れて隠遁してきたところでもある。

考えてみると、『義経千本桜』では、誰かが忠義のために犠牲となって誰かを助けるというモチーフが続いている。「堀川御所の段」では義経の北の方で平時忠の娘の卿の君が、義経が平家出身の妻を持つために平家に加担しているという非難を絶とうとして自死したり、二段目では知盛や典侍の局が自決して安徳帝を助ける。そして三段目では、最初に小金吾が若葉の内侍と六代を捕らえようとする追手と戦って亡くなり、すしやの段では、権太が維盛を捕らえに来た梶原景時に小金吾の首を細工した維盛の偽首と自分の妻子を若葉の内侍と六代に仕立てて渡し、弥左衛門に殺される。

そう考えると、『義経千本桜』は、二段目で滅亡したと思われた平家の、その嫡流である維盛卿と六代御前の命を助けたという流れになっている。これは、『平家物語』が平家の断絶とその総括をするための物語とするなら、『義経千本桜』は『平家物語』と同じ物語を、フィクションながら「忠義を貫いて主君を助ける」というの別の視点から描いた物語ということも出来る気がする。


公演で観た「すしやの段」では、前の呂勢さん・団七さんの維盛(文司さん)は、最初から、高貴な身分の武士という感じで、鮓屋に身を落としてまで生き延びなければならない身の不遇を悔いているよう。彼はお里ちゃんのことなんか、もちろん眼中にもない。彼にとっては平家を永らえることだけが望むことなのだ。弥左衛門(勘寿さん)は、いかにも元海賊という感じ。考えてみれば、弥左衛門というのは、若かりし頃は親に背いて海賊船の船頭などして貿易船で三千両を横取りしようとしたというのだから、本当は権太以上のワルだったのだ。手強い親父で当然なのだ。後の文字久さん・錦糸さんはダイナミックだった。そして、特に勘弥さんのお里ちゃんの、とても健気な女の子ぶりに心打たれた。


「すしやの段」は、何度観ても、飽きないし、色々なことを考えさせられる、素晴らしい名作なのでした。