大田区区民プラザ 文楽地方公演 昼の部

2013年3月17日(日) 昼の部13:30開演/夜の部18:00開演
人形浄瑠璃文楽 昼の部
解説
桂川連理柵 六角堂の段 帯屋の段 道行朧の桂川
http://www.ota-bunka.or.jp/event/plaza/

秋の地方公演で観たのと同じ演目を別の配役で観る春の巡業。「帯屋」と「すしや」と言われると何となく見飽きた気がするけれど、観に行ってみれば、また面白いのでした。


最初に相子さんの流暢な解説。『桂川連理柵』の説明で、儀兵衛のことを「阿呆のように見えるが、実はなかなかずる賢い」というようなことをおっしゃっていたのが、興味深く思った。私は、儀兵衛は、お半ちゃんのいる信濃屋の長吉とはタイプが違うけど、五十歩百歩の阿呆ぐらいに思っていたのだ。根拠はただひとつ、お半ちゃんのラブレターを読もうとして、「どふぞどふぞ」も読めないところ。儀兵衛の母おとせは、帯屋に後妻として入ってくる前は、当時の最下層の職業といってもよい飯焚だったという過去からしても、少なくとも彼は普通の商家の子弟と同様の教育は受けていないに違いない。でも、相子さんの言う通り、(仮に教育をまともに受けてないとしても)それなりに悪知恵の働く知恵者という側面は、もちろんあると思うし、そこが長吉と違うところだと思う。とはいえ、その話を聞いたとき、一瞬、あの「どふぞどふぞ」の場面は、実は、彼がもともと文字を読むのが苦手だったというよりは、お半ちゃんの筆跡が当時のギャル文字(って既に古語か)だったので、いい年した儀兵衛には読めなかったってことだったりして…などと思ってしまった。


今回観て、改めて気がついたのは、まず一つには、長右衛門の身の上のこと。帯屋の段の冒頭、出かけた長右衛門の帰りが遅いとなじるおとせに対して、繁斎が、長右衛門は隣の治兵衛殿が五才まで育てたのを無理を言って貰い子にし、帯屋の家督をつがせようとしたこと、繁斎の先妻は、隣への義理があるため、彼に対して荒い詞は決して遣わなかったということなどを語る。

了解しているつもりではあったけれども、繁斎と血が繋がっていないということは、弟の儀兵衛とも同格であり、おとせから見れば儀兵衛は少なくとも後妻の自分とは血が繋がっている分、家督を継ぐことを主張する権利があると思ってしまうのも、当然かもしれない。しかも、おとせは、飯焚きから商家の後妻に収まった人だ。あのがめつさから考えると、シンデレラのように幸運が舞い込んだというよりは、飯焚き女が一人で子供を育てるという過酷な境遇から、意地で這い上がってきた人なのだろう。彼女には、自分の力でこの地位を築いたてきたという自負があったに違いない。だから、儀兵衛に帯屋を継がせて自分達親子の幸福を盤石なものにしたいし、いくら家継ぎとするということで貰った貰い子であっても、所詮繁斎とは血も繋がっておらず大した働きもしない長右衛門を目の敵にしたくもなるのだろう。

一方の長右衛門は、無理を言って家継ぎとして貰って来た子供だからと、子供の頃に実の親と引き離され、荒い詞もかけられずに、気を遣われて育ったという環境に、耐えられなかったのかもしれない。女の子ならいざしらず、男の子なのに、ふざけたりいたずらしたりして親から厳しいことは一言も言われず育つということはあり得るのだろうか。その場合は、度を超えて本人が繊細すぎるか、親が気を遣いすぎているかのどちらかだと思う。普通はそんな育てられ方をしたら、まかり間違えば『女殺油地獄』の与兵衛のようになってしまうのが落ちだろう。けれども、与兵衛があれだけ大胆に親に反抗できたのは、彼が母の血を分けた子であり、元番頭の徳兵衛が聟養子として入ってきたという事情の違いからくる甘えがあったのだろう。長右衛門は、もしちょっとでも反抗して、繁斎夫婦に縁を切られたら行き場の無い身であったし、おとせ親子が家に入り込んだ後は、自分が家を継ぐということの正当性も危うくなって、ますます自分の居場所や存在というものを見失ってしまったのではないだろうか。そして、祇園等のある川東にますます入り浸ってしまったのではないだろうか。

真偽のほどは定かではないけど、おとせの言う川東の芸子やおやまのところに朝から入り浸っていたり、年端もいかないお半ちゃんと関係を持ってしまったり、十五年前にも芸子の岸野と心中しようとしたりしたという彼のことを考えると、長右衛門は、求めても求めても癒せぬほど愛情に飢えていた人なのではないかなあという気がする。近松の心中物のことを思い出せば明らかなように、おやまや芸子という人たちは、皆それぞれ身売りせざるを得なかった並大抵でない不幸な境遇にある人たちだ。お半ちゃんもあの年で嫁入り前に不義の仲で身重になってしまい、不幸の極みにいる女の子だ。長右衛門という人は、そういう不幸な女の人たちに一途に思われると、人一倍、愛情を感じてしまう人だったのではないだろうか。

そいうい意味では、いくら長右衛門のことを思っていてもその思いが通じない、お絹と繁斎の心は報われない。特にお絹は、本当に長右衛門のことが好きだったのだと思う。きっと、彼の弱い者への暖かいまなざしや繊細な思いやり、おとせや儀兵衛のような悪知恵の働く者に対しても決して強く出ない優しさが好きだったのではないだろうか。長右衛門のことを「ちょうえみ」さんと呼ぶところも、その柔らかい語感から、彼女の長右衛門への優しい心遣いが感じられて好き。だから、「六角堂の段」で儀兵衛から長右衛門が川東に通っていて芸子に入れあげたと言われても、「折々の東通ひは殿御のありうち」と応じるし、長右衛門がお半ちゃんとのっぴきならない仲になったと知っても、お半ちゃんの手紙の宛先が長吉とするような細工をしたり、責めるおとせにじっと耐える長右衛門を見ていられず、思わずおとせに対して素性を言おうかと反論したりするのだろう。本当は、川東に入り浸り、お半ちゃんともあろうことか関係を持つ長右衛門に対して怒っても良い立場だと思うが、彼女は、そういうことがあっても嫌いになれないくらい長右衛門のことを思っていて、自分が至らないから長右衛門がそういうことをするのだと思い込んでいるのだ。彼女は長右衛門が心中した後、立ち直ることができるのだろうか。

いろいろ考えさせる材料の揃っている帯屋の段だけれども、あの鈴をつけた襟袈裟をつけた、おさない女の子のお半ちゃんを見ると、長右衛門は極悪人と思ってしまう。お半ちゃんは長右衛門のことを「長さん」と呼ぶが、まるで傾城のようで、精一杯大人のふりをしているようにしか思われない。長右衛門が逃げ出したいような不幸な境遇にあることは分かっても、長右衛門は、大人としてやってはいけないことをしてしまったと思う。まだ本当に子供なお半ちゃんを、彼は自分の不幸な境遇に巻き込むべきではなかった。

「帯屋の段」はよくかかるので、多分、人気演目ということなのだと思うが、皆、どういうところが面白いと思っているのだろうか。私はチャリ場やお絹の口説までは他の作品に比べてもかなり面白いと感じるが、お半ちゃんが出て来てから以降の展開は、長右衛門の負の部分が全開で、どうしても好きになれない。もともと実際の心中事件に基づいた話なので、お半ちゃんと長右衛門が心中するように話が展開しなければいけないとは分かるし、長右衛門の設定にも説得力があってさすが管専助の作品だとは思いはするけれども。観ているうちに、長右衛門の気持ちが分かる日が来るのだろうか?


「帯屋の段」は、前が呂勢さん、清友さん。面白かった。儀兵衛は「どふぞどふぞ」以外の部分は割に手紙をすらすら読んでて、相子さんの解説の時にふと妄想した「お半ちゃんギャル文字仮説」が思わず再燃。本当のところはどうなんでしょうか?!この場面は上手く道具立てが揃っているので、専助は、この場面をチャリ場にする代わりに、おとせや儀兵衛がシリアスに長右衛門を責め立てる『奥州安達原』の「袖萩祭文」型悲劇(?)にも、おとせや儀兵衛を良い人に設定してお互い譲り合うことで逆に長右衛門を追いつめる『艶容女舞衣』の「帯屋」型悲劇(?)にも出来たと思うけど、あえてチャリ場にしたのが専助らしいと思う。後半の悲劇を印象づけるために、前にチャリ場を置いたというこなのだろうか。切は咲師匠と燕三さん。以前聴いたときは、特にお半ちゃんの書置を読んで以降の長右衛門の詞にものすごい迫力があり、長右衛門に対して、共感できないけど言いたいことは分かった、という気持ちを抱いた。けれども、今回はどちらかというと、長右衛門が自分の運命にあらがおうとせず、絶望して流されるままになるという感じだった。というわけで、つい、長右衛門を極悪人と思ってしまいました。


「道行朧の桂川」は、「白玉か、何ぞと人の咎めなば、露と答えて消えなまし」という『伊勢物語』の在原業平と後に清和天皇の后となった藤原高子との恋を連想させるが、この比喩はちょっと不満。業平はその当時四十才前で高子は十代半ばだったから、ちょうど同じぐらいの年頃ということは分かるが、業平と長右衛門では境遇が全然違う。平安初期、藤原家が権勢振るう世の中で、業平は朝廷での出世の道を閉ざされていて、「色好み」や和歌の道を追求することに自分の存在理由を見い出した人だから。業平が高子と関係を結んだのは全くの確信犯で、彼自身が自分を試し、自分の理想を実現するために実行したことだったのだ。その点、運命に流されてしまった長右衛門とは全然違う。

でも、考えてみると、それは現代の人間の解釈で、この道行の中では、業平の色好み、耽美主義的な部分が、何もかも捨ててお半ちゃんとの心中を選んだ長右衛門と重なると考えられて採り入れられた趣向なのかもしれない。だとすると、この物語というのは、運命に流され、何もかも失いながらも、お半ちゃんの愛情と彼女との心中を選んだ、長右衛門の耽美主義的人生を描いた点が、現実にがんじがらめに縛られた日常生活を送る人々の共感を呼んだということなのかもしれない。私自身は今のところ共感できないけど。

玉女さんの長右衛門は、じっと耐える人という感じ。もし、長右衛門にそういう良心のかけらが残ってなければ、いやーな感じの長右衛門になってしまったかも。