国立能楽堂 道成寺

国立能楽堂 神遊 十五周年記念公演 道成寺
仕舞 網之段 片山九郎右衛門
    西行桜 観世喜之
能 道成寺 観世喜正
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観世喜正師の「道成寺」ということだったので、観に行ってしまいました。「道成寺」という曲は、独特な能だなあとつくづく思うと共に、喜正師の尋常でない気迫に圧倒され、その実力のすごさにも感じ入りました。「道成寺」には、桜は作り物としては出てきたりしないのに、華やかさと色気と狂気をはらんだ桜の存在を感じさせ、桜の時期にふさわしいお能でした。

道成寺」の作者に関しては、『新潮古典集成 謡曲集(中)』の解説によれば、「作者未詳であるが、構成や演出(作り物・扮装・動き)等に信光色を認める立場もある(日本古典文学大系謡曲集』下)」とのことだ。確かに、構成が世阿弥が得意とした幽玄を旨とする複式夢幻能とは違って、劇中の前半のクライマックスの場面で大釣鐘が落ちてきて、そこにシテが飛び込んだりして、ダイナミックで華やかだ。これだけ大胆かつ大衆受けもする演出を能の品格を落とさずに洗練された形で採り入れられる人といえば、まず筆頭にあがるのが、「安宅」や「船弁慶」を作った観世小次郎信光(1435-1516)だろう。

しかし、白拍子と僧の問答は、先日観た、世阿弥の父、観阿弥(1333-1384)の「卒都婆小町」を連想させるものがあるし、眼目のひとつである、乱拍子は、明らかに能とは別の系統の芸能から採り入れられたものだ。「道成寺」は、原曲は「鐘巻」という能らしく、「鐘巻」を、恐らく、金春方の禅鳳(1454-1532頃)(や信光など)が改変したと考えられるようだ。したがって、原曲は、禅鳳が活躍するよりも前に成立していたのだろう。

乱拍子に関しては、新潮の謡曲集の解題によれば、

道成寺》の特殊な舞事としての乱拍子は、もと《住吉詣》《草紙洗小町》《檜垣》にも存在した雑芸の一種で、『梁塵秘抄口伝集』十三に「乱拍子と云今様を、才男子あこ丸うたひにき…楽の常拍子なり…乱拍子にて打て一句ごとにあつるなり」と見え、謡の一句ごとに拍子を打ち、所作を伴うらしく、《道成寺》の乱拍子謡の部分も基本的に同様である。今様や田楽・延年等における乱拍子が能にとり入れられたはじがどの曲であったかは確定し難いが、右の諸曲の他にも《翁》法会の舞にも乱拍子があた。もっとも児の舞った乱拍子(延年や《住吉詣》等)が技術的に困難な舞事であった筈はなく、《道成寺》の場合は、演技上の工夫と洗練の極致としての乱拍子で、その意味で特徴的なこの曲独特の性格をもつものといえるだろう。

とある。したがって、今様を得意としたのは白拍子達であるし、今様は乱拍子に合わせて謡ったこともあったいうことであれば、乱拍子自体は今様が流行っていて後白河院が『梁塵秘抄』を執筆した平安後期にはすでにあり、その白拍子の今様を謡う様子をこの能に採り入れたということになるのだろう。

しかし、なぜ、見目よき僧を追いかけることになる真砂(まなご)の庄司の娘(安珍清姫伝説の清姫)は、白拍子に扮するのだろうか。

白拍子は『道成寺縁起』にはない。新潮社の謡曲集の解題には、

道成寺説話そのものを謡曲化したわけではなく、それをふまえた後日譚としての鐘の再興供養の場における因縁譚的構想に転換せしめ、「蛇精の執心を美しい白拍子に化して、恨みを再興の鐘に報いる」(※香西氏精「作品研究 道成寺」(「観世」昭和四十二年三月。『能謡新考』収録))話の筋を創り出したのは、謡曲作者の功績に帰すべき趣向である。

となっている。

作者は道成寺説話を平安時代の話ととらえ、白拍子を登場させたのだろうか。道成寺のホームページによれば延長六年(928)に安珍清姫の事件が起こったとされており(すごい、年が特定されているのだ)、また、道成寺説話のバリエーションが、平安後期に成立した『今昔物語集』巻十四の「紀伊の国の道成寺、法花を写して蛇を救へる話」第三に記載されている。したがって、この曲を書いた人は、これらの話から総合して、「道成寺」の曲の時代設定を平安時代とし、芸尽くしのために白拍子を出すことになったのかもしれない。


長裃の囃子方地謡が舞台に揃うと、竹に鐘の作り物の竜頭を通したものを狂言方の鐘後見が橋掛リを通って運んでくる。大小前に鐘を据えると、狂言方の鐘後見が鐘を綱と竹の棹二本を使って能楽堂の天井にある滑車に鐘を据え付ける。今回の狂言方鐘後見は、狂言共同社の佐藤融師等。以前「道成寺」を観た時は、アイの能力が野村万作師だったので、万作師門下のどなたかだったと思う。今から考えれば万作師一門は鐘後見の経験は数えきれないほどなさっているからか、無駄な動き一つ無く芸術的な所作でこなしていた。今回の佐藤融師らは見るからに大変そうで、あの作業がとても難しい作業であることをあらためて痛感させられた。鐘が吊り上げられ、シテ方の鐘後見が笛柱の輪に綱を固定すると、名乗笛で、ゆっくりとした囃子が始まり、ワキの道成寺の住僧(森 常好師)がワキツレの従者とアイの能力を引き連れて橋掛リを歩いてくる。

住僧は、今まで事情があって、鐘は退転していた(無くなっていた)のを、この度再興して、卿は吉日でもあるため、鐘供養を行うことになったと話す。そして、仔細があるため、女人禁制なので、くれぐれも一人も女人を入れてはいけないと語る。

そこに、前シテの白拍子(観世喜正師)が次第、「作りし罪も消えぬべし 作りし罪も消えぬべし 鐘の供養に参らん」を謡いながら現れる。白拍子は可憐でほっそりとした若女のような面に、壺折にした金地に菊を散らした文様の唐織の下に黒地に丸紋の縫箔が見える。そういえば、先日観た観世文庫の展示では、「道成寺」の前シテの装束は、観世流は糸巻の文様の唐織を使うとあったが、チェックし忘れた…。糸巻の文様の入っていたんだろうか。

道成寺の鐘供養に参ろうというと、道行を謡い、道成寺に着く。そこにオモアイの能力(井上松次郎師)が、女人禁制である旨をシテに説明し、供養の場に入ることは出来ないという。井上松次郎師って誰だと思ったら、井上靖浩師がお祖父様の名跡を襲名されたらしい。

すると、白拍子は、なおも舞を面白く舞うのでそっと入れてくれませんかと頼むと、能力は、それでは乱拍子を面白く舞ったら、入らせてやれるよう工面してやろうという。ここで、乱拍子という言葉が出てきたので面白く思う。新潮社の謡曲集では単に舞を舞うとしか書いていなかったが、狂言の流儀(or家?)によっては、乱拍子と特定する流儀もあるというなのかな?

白拍子は「うれしやさらば舞はん」というと、常座でクツロイで物着で、金の烏帽子を付ける。その間に鐘が鐘後見によって、さらに引き上げられた。

物着を終えた白拍子は、次第「花のほかには松ばかり 花のほかには松ばかり 暮初(そ)めてや鐘や響くらん」を謡うと、乱拍子となる。常座で鐘を見込むと、大鼓が早い拍子となり白拍子は常座から駈け出して正先に出る。赤地一輪牡丹の扇を前に水平に掲げると、小鼓が鳴る度に、足先を上げて左右に動かしたり、前屈みに近い低い姿勢をとったりするが、非常に緊張感のある長い場面で、見所も物音一つ立たず、息を飲んで注視する。

乱拍子が終わると、ワカとなり「山寺のや」の後、急之舞となる。やはり「道成寺」は急ノ舞がぴったりだ。そして、ワカの続き「春の夕暮れ来てみれば 入相の鐘に 花ぞ散りける 花ぞ散りける」と新古今和歌集能因法師の歌(山里の春の夕暮きてみれば入相の鐘に花ぞ散りける)を謡うと、人々が眠っている隙に、鐘を撞こうとするが、「思へばこの鐘 恨めしや」というと、鐘の中に入り、鐘が落ちると同時にジャンプして、白拍子は鐘の中に入ってしまう。


能力達(井上松次郎師、野村又三郎師)は、鐘が落ちると同時に橋掛リをぐるぐると揚幕方向に転がり、神鳴かと思ったという。そして鐘の方を見ると鐘が落ちている。二人でそろそろと鐘の方に行く。鐘を触ると熱いらしく二人で交互に鐘を触って熱いと言う。二人はこのことを住僧に言わなければならないと思うが、女人禁制のところ女人を入れてしまった手前、言い難い。そこで二人で報告する役をなすりつけ合うが、結局、オモアイの松次郎師が住僧に報告する。報告し終えると、松次郎師は、「ああ、こころがゆるりとした」と安堵の表情を浮かべ、帰っていく。

住僧は、女人禁制としたのに女人を入れたのは言語道断だとし、女人禁制とした訳として、道成寺説話を語って聴かせる。

曰く、昔、この辺りに真砂(まなこ)の庄司というものがいて、その者の家を熊野参りの山伏が宿坊に定めていつも来ていた。庄司は娘を寵愛するあまり、あの客僧こそ汝が妻よ夫よと戯れを話していて、娘は幼心に本当のことと思い込み、年月を送っていた。ある時、客僧がまた庄司の家に来ると、夜、寝静まった頃、娘が客僧の閨に息、「いつまでわらはをばかくて置き給ふぞ 急ぎ迎へ給へ」と言う。客僧は大いに驚き、夜にまぎれて忍び出て道成寺に来た。客僧は隠してくれるよう頼んだが、隠せるところもなければ撞鐘を下ろしこの客僧を鐘の中に隠しおいた。ところが、その娘は山伏を逃すまいと日高川を越えて追いかけて来て、折しも日高川が増水していたので、とうとう女性はその一念で毒蛇となって川をやすやすと泳ぎ越した。寺をあちこち探しまわって鐘が下ろしてあるのを怪しみ、竜頭をくわえて七周まとわりつき、炎を出して尾で叩くと、鐘はたちまち湯となって、終に山伏を取り殺した、という恐ろしい話だった。

住僧はその女の執念が残って鐘に障碍をなしているに違いないというと、祈祷をすることにする。

太鼓入りの祝詞の囃子の中、住僧と従者が祈祷をしていると、鐘が一旦上がり、またすぐ下がる。そして再度上がると、衣を引き被ってうずくまっているものが現れる。後シテの蛇体で、赤頭に般若の面、浅黄に金の鱗紋の摺箔に赤い長袴という出立。

住僧達は蛇体の女に向けて祈祷をしながら数珠を揉み込む。後シテは一旦揚幕のところまで行くと、またシテ柱のところまで戻り、シテ柱に巻き付き、「柱巻き」となる。この時、あまりに悲しそうな表情の般若の面をしたシテが柱に本物の蛇のように絡みついていている様子を観ていた私の中で、狂気と色気と嫉妬と蛇とというのが、ひとつに結びつき、女人と蛇と嫉妬と狂気を一つの話に結びつけた昔の人の想像力と、またそれを汲み取って謡曲にしてしまった作者の構想力に感服せずにはおれなかった。

悲しい蛇体となったシテは、結局、退散させられてしまい、住僧たちも帰った後には、花と松だけが残るのだった。