国立能楽堂 自然居士

<月間特集 観阿弥世阿弥・元雅をめぐって>
解説・能楽あんない  自然居士のいる風景 小林健二(国文学研究資料館教授)
狂言 人を馬(ひとをうま) 松田郄義(和泉流
能 観阿弥時代の 自然居士(じねんこじ) 宇郄通成
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2013/1937.html

観阿弥時代に演じられていた自然居士を復元しようという試み。しかし、そのことを知ったのは、演能前の小林健二先生のお話にて。最近忙しかったので直前まで今回の普及公演を観られると思っておらず、心の準備ができていませんでした。ああ、わかっていれば、もうすこしちゃんと予習して行ったのに。しかし宇高通成師の演能は、いかにも金剛流という感じの、力強さと迫力のある舞と謡で、予習なしでも大変おもしろいものでした。

小林先生のお話によれば、「自然居士」は、世阿弥の父、観阿弥が将軍義満の前で舞ったという記録が、世阿弥晩年の芸談を元能が記した『申楽談儀』にあるそうだ。あの、義満が観阿弥の舞を観て、隣に伺候している稚児だの藤若(世阿弥)に、「児は小股を掻かうと思ふとも、ここはかなふまじ」と言ったという有名な逸話の場面だ。さらにパンフレットの天野先生の解説によれば、義満は秀句(駄洒落)が好きで、これも秀句なのだとか。今ぞ知る〜。とゆーか、どこが秀句になってるのか、分からん。「こ」で頭韻を踏んでるところ?

また、世阿弥の『五音』には、「自然居士 亡父曲」とあり、自然居士が観阿弥の作だということが知られているのだという。そしてそこに記載されている「夫(それ)一代ノ教法(きょうほう)ハ」で始まる詞章は、現在の「自然居士」には無い。

そこで、それを現行の「自然居士」の中に組み込むという試みが今回の普及公演なのだそう。実は、そのような試みは過去に何度かなされており、「夫一代ノ教法ハ」を、「敬つて白(もう)す、請くる諷誦の事」で始まる自然居士の高座の場面でいれる形もあるが、今回は、この詞章が自己紹介的意味合いが高いことから、平成十九年の大槻能楽堂の研究公演で試演された形を踏襲し、自然居士の登場の場に入れられたのだという。

具体的には、パンフレットの天野文雄先生の解説によれば、
1. 現行の金剛流「自然居士」では冒頭にワキの名ノリがあるが、今回はこれを省き、アイの名乗りから始まる。
2. アイの名乗りの直後に、世阿弥の伝書『五音』(ただし、一部を金春禅竹の伝書『五音之次第』)により、以下のシテの詞を補うという形となった。

シテ それ一代の教法(きょうぼう)は、五時八教をつくり、教内教外(きょうないきょうげ)を分かたれたり、五時と云つぱ華厳阿含方等般若法華涅槃(けごんあごんほうどうはんにゃほっけねはん)、四教とはこれ蔵通別円(べうえん)たり、釈迦教主の秘蔵を受け、五相成身(ごぞうそうにん)の旨を開きしよりこの方、誰か仏法を崇敬(そうぎょう)せざらん

シテ 我はもと隠遁国の民なり、この内に法界舎といふ家あり、禁戒を垣として悪しき友をば近づけず、さればかく身を捨て果て果てば、静かなる友とし、貧を楽とすべき、隠遁の住処(すみか)禅観の窓こそ望むところなれども、ただし山に入りてもなほ心の水の水上は求めたがたう、市に交わりても同じ流れの水ならば、真如の月などか澄まざらん、かやうに思ひしより自然心得、今は山深き住処を出で、かかる物狂となり

シテ 花洛の塵に交はり、花洛の塵に交はり、伽狗伽(かぐか)の波に藻裾をぬらし、万民に表をさらすも恨みならず、法のためなれば身を捨つる、これ程に、捨うる憂き身を誰かげに、拾ひ得たりと名づけける、かの拾得(じゅうとく)はなにとてか、庭の塵をば払ふらん、吹く風の、寒き山とて入る月に、指を指しても止めがあきは、繋がぬ月日なりけりや。

さて、この「自然居士」の主人公、自然居士とは、そもそも、どういう人なのだろうか。パンフレットの天野先生の解説によれば、鎌倉時代後期に実在した、東福寺開山の円爾弁円の孫弟子なのだそう。

小林健二先生が配布されたプリントを見ると、永仁四年(1296)の年紀のある『天狗草紙』の絵の部分に、自然居士が描かれている。『天狗草紙』とは何かというと、堕落した東大寺興福寺延暦寺園城寺・東寺などの有名寺院の僧や山伏・遁世の衆を糾弾した内容の絵巻で、「天狗」というのは、「あの人は最近、天狗になっている」などという時の「天狗」なのだそう。

その「天狗草紙」の「三井寺巻A」と呼ばれる巻に、両手をかかげて簓を持ち、ステップを踏んでいる若者に「自然居士」と但し書きがある。その自然居士とされる若者は、建物の妻戸などは取り払われた板の間で舞っており、見物の人々は、庇の間に座って自然居士の舞を観ている。

自然居士の絵の左脇には、歌が書かれている。先生の翻刻によると、「鎖ゝ(ささ)ぬものをや槇の戸をなど待つ人の来ざるらむ」というもの。これは、「槇で出来た戸を閉ざさずに、恋人を待っているのに、なぜその待ち人は、来てくれないの」という、紛うことなき恋歌で、説経とは関係なさそう。新潮社の古典文学集成にある『謡曲集』(中)の「自然居士」の解題によれば、『閑吟集』に類歌があるらしい。

また、自然居士が描かれている絵の下の方には、自然居士と一党を組んでいた蓑虫という放下僧が描かれている。彼の左脇にも歌が書かれており、その歌は、「いづくより来るも知らぬさゝら太郎無而(なくして)忽ち有たる自然乞食ぞ」というものだ。「さゝら太郎」というのは、自然居士の別名らしい。さらに、もう一人の同じ一党の放下僧、電光のところには「朝露よりはかなく見ゆる電光は身の無常をば知るや知らずや」という歌が書いてある。どうも、仏教の徒というには怪しすぎる人達だ。

実際、『続日本の絵巻26 土蜘蛛草紙・天狗草紙・大江山絵詞』の「天狗草紙」を見てみると、以下のような放下僧批判がある。

また放下(ほうげ)の禅師と号して、髪を剃らずして、烏帽子を着、坐禅の床(を)忘れて、南北の巷に佐々良(→簓)摺り、工夫の窓を出でゝ(寺院などでの仏道修行から出奔し)、東西の路に狂言す。

ほかにも、小林先生は、もう一種、自然居士の出てくる絵巻を紹介してくださった。それは、室町時代前期に成立したという『魔仏一如絵詞』(新修日本絵巻物全集二七『天狗草紙・是害房絵』(角川書店))という『天狗草紙』の異本だ。その絵の中では、自然居士が戸外で座り込んで説法をしており、その周りに人が集まって車座になっていて、やんごとなき身分の人までが網代車で乗り付けて車の中で説法を聞いているという絵だ。


考えてみると、『天狗草紙』にここまで批判されている「自然居士」がを、観阿弥は、人商人(ひとあきびと)に捕らわれた子供を救うヒーローとして、全面的に肯定して描いているというのが興味深い。『天狗草紙』が成立したのが1296年、自然居士の事績が伝わっているのが延慶三年(1310)まで、観阿弥が生まれるのが1330年、この時間の流れの中で、自然居士に対する人々の評価が変わってきたのだろうか。観阿弥の作った「卒都婆小町」などを考えると、伝統的・保守的な人々に対して型破りの挑発的な問答を畳みかけるように語る面白さというのを、観阿弥が得意とし、またそれを観る人々も大いに好んだということは事実のようだ。少なくとも、観阿弥自身が、非難を物ともせず型破りに生きた自然居士を評価し、彼を主人公にした曲を作ろうと思った動機は、よく分かる気がする。

そして、今回追補された「夫一代ノ教法ハ」で始まる詞章は何故、削除されてしまったのだろう?特に「我はもと隠遁国の民なり」以降の部分は、自然居士が何ゆえ「坐禅の床(を)忘れて、南北の巷に佐々良(→簓)摺り、工夫の窓を出でゝ(寺院などでの仏道修行から出奔し)、東西の路に狂言す」るようになったのかを、本人が弁明する重要な詞章だ。そのような弁明は省略可能と感じさせるほど、人々の間でよく知れ渡った事実だった可能性もあるのではないだろうか。となると、自然居士が亡くなって以降、ちょうど『平家物語』の景清に関して、本人の事跡を離れ、人々がいくつもの物語を作ったように、自然居士に関しても生前の毀誉褒貶から死後、人々の心の中で彼の良い面が膨らんでいって、こういった物語が出来たのかもしれない。


また、小林先生の解説とは別に非常に興味深かったのは、パンフレットの西野春雄先生の特集記事にあった、観阿弥の得意とした「義理能」についての解説。

大和猿楽には物まねと並ぶもう一つの特色があった。「和州の風体、物まね・義理を本として」という義理である。(1)能によりて、さして細かに言葉・義理にかからで、大様にするべき能あるべし。…よき言葉・余情を求むるも、義理・詰め所なくてはかなはぬ能に至りての事也(花伝第六花修)、(2)四番目ワ、義理能ナンドノ、問答・言葉詰メニテ事ヲナス能ノ風体(花習内抜書)、(3)心より出で来る能とは、無上の上手の申楽に、物数の後、二曲も物まねも義理もさしてなき能の、さびさびとしたるうちに(花鏡)、などの用例から、義理とは文句の示す意味、言葉や会話の面白さであり、義理能は、文辞の面白さに重点のある能をさす。結果として筋立ての能と考えてよく、言葉や問答と密接な語が義理なのである。

というもので、問答を畳みかけて劇的緊張感を高め、あるいは風雅な情趣を醸し出す例として、観阿弥の「自然居士」「卒都婆小町」、元雅の「隅田川」「歌占」「俊寛」が挙げられている。

今まで義理能というのは演劇的な要素の強い能のことを言うのかと思っていたが、演劇的というよりは、問答や文辞の面白さのある能ということなのだ。たしかに辞書を見てみると、「わけ・意味」という意味が載っている。先日、鮮やかな問答のある「卒都婆小町」て、さらにこの日、「自然居士」を観たので、そういった問答や文辞の面白さのある能が、特に観阿弥世阿弥・元雅の時代の能では、猿楽能のひとつの大きな特徴となっていたということなのだということが、なおさらよく実感できた。

それから、西野先生は、その特集記事の中で、観阿弥が行った猿楽能の革新についても、触れている。まず、観阿弥が、田楽の一忠・亀夜叉(亀阿)、近江猿楽の犬王、曲舞々の乙鶴(加賀女という一派の一人)といった他種目・他流派の名手の技を猿楽能に積極的に採り入れたという。また、もともと、猿楽能は、舞と歌と物まねの三要素からなり、そのうち、声楽部分は、「只謡」(小歌がかり)とよばれる比較的短い形式の謡を基調とし、旋律の美しさを主眼としたものだったが、そこに曲舞の音律を加えたのだそうだ。曲舞は南北朝頃に流行した白拍子系統の「語り舞」の行っ種目で、詞章の音数律と音楽上のリズムとが複雑にからみあい、変化に富んだ音楽だという。只謡の旋律の美しさにこの曲舞の拍節の面白さを合わせて、「観世が節」と呼ばれる猿楽の音楽を創造したのだという。

そのような説明を読むと、観阿弥以前の猿楽は今とはかなり異なるもので、現在の私達が観ているお能の基礎というのは、観阿弥が作ったといっても相違ないようだ。能楽というと、複式夢幻能を作り出し、洗練された名曲を作り、沢山の伝書を残した世阿弥がどうしてもクローズアップされることが多いが、観阿弥がいなければ今のお能は無かったという意味で、観阿弥のすごさを改めて感じさせられた。


能 観阿弥時代の 自然居士(じねんこじ) 宇郄通成

狂言開口で、アイの門前の者(野村又三郎師)が名乗をし、雲居寺造営のため、さる師が勧進説法をするので参集するよう触れ回る。

すると、シテの自然居士が橋掛リに出てきて、一ノ松で、「それ一体の教法は」で始まる『五音』に記載されている詞章を語る。自然居士は、喝食の面に黒の水衣に掛絡、ごく薄い浅葱の大口という出立。「花洛の塵に交わり」の部分から囃子が入り、自然居士は橋掛リから本舞台に進むと、大小前で床几に座り、説法が始まる。「謹み敬つて白(もう)す」と説経を始めようとすると、稚児のような姿の子方の童(大場康暉くん)が小袖と諷誦(ふじゅ)文(亡き人を追善する文)を持って舞台に現れる。この童は観世流は女の子だが、金剛流は男の子のようだ。子方はアイに子方はシテ柱の近くで自然居士の方を向いて座る。アイがその小袖と諷誦を受け取って、自然居士の前に、小袖を「葵上」の小袖のように置くと、諷誦を自然居士に渡す。

自然居士は、その童の諷誦を読み上げる。そこには、「昔、天竺の貧女が一つしかない衣を僧に供養しましたが、その貧女のように私も身代衣(みのしろごろも)の小袖を献じます。早く浮世を離れ、先に亡くなった両親と共に、同じ台(うてな)に生まれたい。」とある。

そこにワキとワキツレの人商人(ひとあきびと)(殿田謙吉師、大日方寛師)が現れ、門前の者が止めるも、素早い動きで荒々しく、童を連れて行ってしまうと、ワキ座で後ろを向いてくつろぐ。

門前の者が自然居士に、このことを報告すると、自然居士は、あの童は自分の身を売って身代衣の小袖を買ったのだと推測する。そして人商人を追いかけて小袖を返して、諷誦を納めた幼き者を取り返そうと決心する。そんな自然居士に対して門前の者は、今日は七日間の説法の結願の日なのに、これから人商人のところに行っては、七日間の説法が無駄になると訴える。

しかし、自然居士は、説法は善悪を人に悟らせるためにあるのであって、あの幼き者は善人、商人は悪人と、善悪二道ここに尽きたとのだというと、「今日の説法はこれまでなり」と説法を終わらせる。門前の者が童の納めた小袖を自然居士の首に掛ける。自然居士は人商人を追う体で揚幕前まで行くと、地謡が「仏教修行のためなれば 身を捨てて人を助くべし」と謡う。

そのころ、ワキ座にいた人商人達と童は、地謡前に出された舟の作り物の中に入ると、「今出でて、そこともいさや白波の、この舟路をや、急ぐらん」を謡いながら、琵琶湖湖畔へ赴く。

人商人の舟を見つけた自然居士は、一ノ松から「なうなうそのお舟に物申さう」と声をかける。人商人が、「これは渡し船ではない」と断ると、自然居士は、「自分も旅人でもないし、渡りの舟とも言っていない」と応じる。人商人が不思議に思い、「それでは何の舟だと思ったのか」と問いかけると、「ひと買い舟だ」と自然居士が答えるので、人商人は「ああ音高し何と何と」と慌てる。それを見た自然居士は、ひと買は、「その櫂の事候ふよ」といい、「水の煙の霞をば、一霞二霞(ひとかすみふたかすみ)、一入二入(ひとしおふたしお)なんどと言へば、一櫂舟とは僻事か」と戯言を言う。

その戯言を聞いた人商人は面白がり、何者か尋ねる。自然居士は、自分は自然居士という説経者で、説経の場を邪魔された恨みを述べに来たと答える。人商人が、「我らに僻事は無いものを」とうそぶくと、自然居士は、「とにかく元の小袖は参らする」と言うや否や、小袖を人商人に投げつけ、素早く膝行して(恐らく水の中をザブザブと歩いているのだ)舟を捕まえる。

人商人は「あら腹立ちや」と言うと、これも童のせいと櫓櫂を持って、童を散々に打つ。自然居士が慌てて童を抱き起こすと、童は「身には縄、口には綿の轡を嵌め叫べど声の出でばこそ」という体。自然居士は驚いて数歩後ろに引き下がる。この辺りは大変緊迫した場面だ。

自然居士は、童に「あらいとほしの者や。やがて連れて帰らうぞ心安く思ひ候ふぞ」と声を掛けると、人商人に向かって、「この人を私にお渡し下さい。親類の方へお帰し致します」と言う。

人商人が、「人商人には、買い取った者は再び元には戻さないという大法があるので戻せない」と突っぱねると、自然居士は、「我らの中にも、『かやうに身を捨つる人を助けに来たつて助け得ねば、大衣(だいえ、袈裟)を懸けたる身の不祥にて、永う本寺へ帰らぬ大法』があると応え、「陸奥の国とやらへ下るとも、この舟を降りはしません」というと、舟に乗り込みどっかと安座する。

人商人が怒って、「そのようなことをするなら、栲訴(ごうそ)して、命を取ろう」というと、自然居士は、「元より捨て身の行、ちつとも苦しからず命を召され候へ」と応じ、埒は開かない。

そこで、人商人達は、舟を出て大小前で相談し、自然居士に舞を舞わせ散々になぶって追い返そうということになる。

人商人は、自然居士に、「居士は、舞の上手と聞いているので、舞を舞ってみせて下さい」という。居士は、説経はすれども舞は舞わないというが、人商人は烏帽子を渡し、舞を舞うように言う。

自然居士は仕方なく、[物着]で烏帽子を付けると、「志賀辛崎の一つ松 つれなき(「連れ無き」との掛詞)人の心かな」と謡うと、[中ノ舞]を舞いながら、黄帝の時代、貨狄(かてき)という士卒が蜘蛛が一葉の上に乗って風に吹かれて飛び去る様を見て舟を作ったという舟の起源の物語を謡う。

さらに人商人が簓を擦って見せて欲しいというと、自然居士は簓が無いので、簓の起源を聞かせましょうという。いわく、簓は、昔東山の僧が、扇の上に木の葉が散ったのを数珠にて払ったのが簓の起こりだという。

人商人は、なおも羯鼓を打つように言う。

自然居士は、羯鼓を付けると羯鼓の舞を舞う。この時、「石橋」や「望月」の獅子の舞の時の囃子と同じ、神楽のような囃子となる。これはとても興味深い。「望月」は、そういえば獅子舞で羯鼓を叩くのだ。羯鼓舞は獅子舞と起源が同一なのだろうか。自然居士は、「もとより鼓は波の音」で始まる謡を謡いながら、一ノ松に行くと、撥を捨て、扇に持ち替えて、再度舞台に戻って童を助けると、足早に童を先に立てて橋掛リを行くと、「共に都に上りけり」で一度、舟の方を振り返りつつ、幕の中に入っていくのだった。