国立能楽堂 スーパー能 世阿弥

<月間特集 観阿弥世阿弥・元雅をめぐって>
国立能楽堂委嘱作品・初演
梅原 猛 作・梅若六郎玄祥 演出
スーパー能   世阿弥(ぜあみ)  梅若玄祥
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2013/1939.html

今さら「スーパー能」って何なのとか、ポスターデザイン横尾忠則って、どの世代をターゲットにしてるのとか、何で現代語のお能国立能楽堂でやるの?ホールで初心者向けにやればいいのにとか、色々、先入観を持って観に行ったけど、予想に反して、かなり感動してしまいました。

今後、大阪、兵庫、愛知、新潟、奈良等で公演が行われるそう。是非、いろんな人に観てもらえたらいいなと思うけど、(少なくとも今回の国立能楽堂の公演では)現代語であるということと一部で暗転やスポットライトを使ったりする以外は、お能の基本はほぼ崩していないので、世阿弥観阿弥・元雅の生涯や曲に思い入れのある、普段、お能を観ている人こそ楽しめる曲でもあるかもしれない。

今回、何故感動したかを考えてみると、もちろん、シテの玄祥師やシテツレの片山九郎右衛門師、地頭の大槻文蔵師、語り手(アイ語りのようなもの)の野村万作師ら、錚々たる演じ手による公演だったということは大きい。けれども、私にとってもう一つ大きかったのは、言葉の力だと思う。

申楽を大成した不世出の天才・世阿弥と、その息子でひょっとしたら世阿弥以上の才能に恵まれていたかもしれないが早世してしまった元雅。その二人のことを考える時、世阿弥は元雅のことをこんな風に思っていたのではないかとか、元雅は世阿弥のことをこう思っていたのではないかとか、二人の間はこんな関係にあったのではないか等といったことは、お能に関心のある人なら、誰でもそれぞれ心に描いていることがあると思う。この曲では、そういう誰もが内心思い描いていることを、梅原猛氏がずばり言葉にしていて、それがお能として舞台の上で表現される。そして、その世阿弥や元雅の言葉は、私達の心にずしっと響くのだ。

お能の中には、典拠のある物語を曲に仕立ててあるものが多数あるが、そういうものを初演当時観た人は、きっとこの能を観たのと同じように、内心思い描いていた世界が美しい旋律の謡や囃子に乗って表現され、舞を舞われることで、無形の思念が形を得る様子を目の当たりにし、カタルシスを感じたのだろう、などと思った。

ただ、結末は私個人は少し違和感ありでした。多分舞を舞って華やかに終わりたいという演出上の要請もあってハッピーエンドになったのかもしれないけど、私自身のお能を観る楽しみは、シテの心の苦しみに寄り添って一緒に浸って、ワキの僧の祈りでシテが成仏していく姿をしみじみと見送るところにある気がしているので、別にお能は分かりやすいハッピーエンドでなくても良い気がする。そこは、高度成長時代に生きた梅原猛氏と、社会人になった時には既にバブルが弾けていた私の世代の違いによるところもあったりして、などと思ってしまいました。


ともあれ、予想外に、とても新鮮で楽しい経験でした。