国立能楽堂 定例公演 敦盛

定例公演 簸屑 敦盛
狂言 簸屑(ひくず) 石田幸雄(和泉流
能   敦盛(あつもり) 関根知孝(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2012/1108.html

狂言 簸屑(ひくず) 石田幸雄(和泉流

都合により拝見できず。残念無念。


能   敦盛(あつもり) 関根知孝(観世流

公演を観て、改めて気がついたのは、私は、お能の「敦盛」よりも、歌舞伎の『一谷嫩軍記』の「組討」や「熊谷陣屋」を先に観たので、前回「敦盛」を観たときは、その印象に引きずられてしまっていたようだったということ。今回、「敦盛」を観て、この曲では、シテの敦盛が、出家した直実(この曲の中では蓮生法師)と再会し、心情を変化させて行く様子を描くことに焦点を当てているのだと思った。この物語は、熊谷直実に首をかかれた無念と恨みの中にあった敦盛が、直実と再会することで、「日頃の敵(かたき)」は今や「法の友」であると悟り、直実の弔いを請うて成仏するという、平家の悲劇の御曹司、敦盛の《心の救済》の物語なのだ。


また、「敦盛」で、もう一つ興味深く感じたのは、間狂言の内容の流儀による違いだ。今回のアイは、高野和憲師だったので、和泉流だった。一方、私が事前に参照した新潮の日本古典集成『謡曲集(上)』の「敦盛」の間狂言の文言は大蔵流山本東次郎家の本だ。この間狂言に出てくるアイの直実に対する心情が、流儀によって、ずいぶん違う。

まず、今回の和憲師の間語りは、基本的に直実に好意的だった。直実は敦盛を逃がそうとするが、後ろから梶原景高等がこちらに向かってきていた。そのため、彼は、とても助からないのであれば、雑兵の手に掛かるよりは、と直実自身が敦盛の首を掻いた。敦盛の死骸の鎧の引き合わせを見ると、笛があった。

一方、山本東次郎本では、直実について、和憲師の語った内容よりも、もっと辛辣な見方をしている。たとえば、直実が敦盛を一度は逃がそうと考えたという話は無く、単に「未だ一五六の者なれば、やすやすと」首を掻いたと語る。そして、以下のような詞がある。

まことや熊谷は発心をして、敦盛の御跡(おんあと)を弔うと申すが、さやうにてはあるまじく候。それほど発心をする者ならば、その時助け申すべきものを、助けぬほどの者なれば、発心はいたすまじきとの申し事にて候。あはれその熊谷が、この所へ来たれかし、うち殺いて敦盛の孝養にいたしたきとの申し事にて候。

この後は、今回の間狂言山本東次郎本も大同小異で、蓮生法師が、「実は自分は直実」と名乗り出でて、アイは無礼を詫びる。そして、所の者は、蓮生法師に敦盛の回向を進める。

これら二つの詞章の敦盛と直実に対する見方の違いを考えてみると、結局、事実としての、平家の惟盛の嫡男、十五六の敦盛を、板東武者の熊谷直実が討ち取ったをいう事件について、人々の間には、敦盛に同情する気持ちと、直実に与する気持ちと相反する気持ちがあったのだろう。それが、『平家物語』の「敦盛最期」の本によるバリエーションとなり、さらに時代が下って、一方には、敦盛を主人公としたお能の「敦盛」や、その妻と隠し子の物語であるお能の「生田敦盛」や御伽草子の「小敦盛」のような物語など、敦盛への同情を基礎とした物語群があり、もう一方で、それとシンメトリーに補完する形で物語世界のバランスをとるように、直実側の求道に重点をおいた物語を描いたのが幸若舞の「敦盛」なのだろう。そして、そのような敦盛と直実という二つの中心点を持つシンメトリーな物語世界を、直実の出家に至る苦衷に力点を起きつつ、江戸時代浄瑠璃らしい形で描いたのが、『一谷嫩軍記』なのかもしれない。


蓮生法師(村田弘師)は、敦盛を弔うために、一人、一の谷に向かう。一の谷に着くと、敦盛を討った当時の有様がありありと思い出され、妄執に絡めとられる思いが迫ってくる。

そこに、上野の方から笛の音が聞こえ、橋掛リから草刈男達が、現れる。前シテの草刈男(関根知孝師)は、直面に、萌葱の水衣に茶とベージュと焦げ茶の横縞の熨斗目の装束。草刈男たちは、須磨で蟄居した「わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答えよ」という歌を引きながら、侘びく憂鬱な須磨の海辺の孤独な暮らしを謡う。

これらの草刈男に蓮生法師が、草刈笛について尋ねると、草刈り男は、小枝蝉折等の有名な笛の銘を引きながら、自分の笛の名を「青葉の笛と思し召せ」といい、これは須磨の浦の笛だから、高麗笛などではなく、ほんの海士の焼残(たきさし)と思し召せという。そしてツレの草刈男達は去っていってしまうのだが、以前、喜多流の粟谷能夫師の「敦盛」を観た時は、切戸口から去っていったように思うが、今回の場合は、橋掛リから退場していた。

改めて二人で対峙した蓮生法師と草刈男であるが、蓮生法師が、なぜ一人残ったのかを尋ねると、草刈男は、「十念授けおはしませ」と蓮生法師に頼む。そして、自分は敦盛の所縁の者と名乗ると、毎晩のお弔いをありがたく思っていることを述べ、「その名は我」と言い捨てて、「姿も見えずなりにけり」で中入りとなる。


狂言では、所の者が現れ、蓮生法師が、一の谷の戦いについて、知っていることを尋ねる。所の者は、詳しくは存ぜずと断りつつ、ことの次第を語る。

一の谷の戦いでは現時は二手に分かれて平家を攻撃し、平家は御座船で落ち行く。ところが、敦盛は笛を忘れていたことに気付き、慌てて逃げたと思われることを厭って、引き返した。そこに、良き敵を探していた直実が現れ、敦盛を見つける。直実は彼を敵の大将と思い、捕らえ、顔を確認する。すると、若武者があまりに美しい顔(かんばせ)なので何れの御子と思い、名を問う。その若武者は、「無冠の太夫、敦盛。」と、応える。直実は敦盛を助けようと思ったが、すでに後ろから梶原景高らが迫ってきており、敦盛を逃したところで、とても助かりそうもないことを知る。雑兵の手にかかるよりは、と、直実は自分の手で敦盛の首を掻いた。死骸を見ると、鎧の引き合わせに、昨夜、平家の陣から聞こえてきた笛がさしてあった。

このように所の者が答えると、蓮生法師は自分が実は直実であることを告白し、先ほどの不思議な体験について所の者に話す。所の者は恐らく敦盛の霊に違いないので、暫く留まって敦盛の回向をすることを勧める。


後場では、蓮生法師が回向をしていると、「いかに敦盛こそ参りて候へ」と、敦盛が橋掛リから現れる。面は、敦盛の専用面の「十六」で、梨打烏帽子に黒地に金の縦涌の法被、金と紅の横雲の文様の着付、白の大口。

敦盛は、「日頃の敵(かたき)は、今はまた法の友なりけり」という言葉を思いだし、「これかや、悪人の友を振り捨てて善人の敵を招けとは」と、かつては敵同士であった直実こそが、他でもなく、自分自身にとっての「法の友」であることに気がつく。

敦盛は、生前、自分は、平家の繁栄が槿花一日の栄えであることに気がつかなかった。今から考えれば、平家は富の上に知らず、驕っていたのだ。

さらに、一の谷の合戦前夜、如月六日の夜、親の経盛が宴を催し、今様を謡い舞を舞って遊んだことを思い出す。その後の[中ノ舞]では、敦盛は、まるでその夜の宴を再現するような優雅でありながら、そこはかとなく悲しさのある舞を舞う。

そして、直実が敦盛を見つけ、引っ組んで、波打ち際に落ち重なって討たれたことを思い出すと、敦盛は、直実に対する恨みと妄執に囚われたのか、「終(つい)に、討たれて失せし身の、因がはめぐり逢いたり」と思い至ると、「敵はこれぞと討たんとするに」で、腰の刀を抜いて、直実に斬りかかろうとする。しかしその時、敦盛は、蓮生法師が、仇を恩として、敦盛を念仏して弔っていることを思い出し、「終には共に、生まるべき同じ蓮(はちす)の蓮生法師」と思い至る。敦盛は、「敵にてはなかりけり」という言葉とともに、刀を手から落とすと、「跡弔ひて賜び給へ」というと、橋掛を消えていったのだった。


「敦盛」は、世阿弥作。世阿弥らしい美しい詞章が多く、また、詞章の中の敦盛の描写から、ふと、世阿弥という人は、「井筒」等の鬘物や「敦盛」のような美しい若者の役の似合う人だったのだろうなという気がした。