国立文楽劇場 初春文楽公演 第1部

初春文楽公演
【第1部】 ※14日から午後4時開演となります。
寿式三番叟 ことぶきしきさんばそう
義経千本桜 よしつねせんぼんざくら
 すしやの段
増補大江山 ぞうほおおえやま
 戻り橋の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2012/1803.html

寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)

この日はもう公演期間の半ばだったけれど、住師匠が戻られて、登場時に大きな拍手があった。思ったよりずっとお元気そうで、本当によかった。このくらいの回復力のあるような方だからこそ、このお年で切場を勤められているのでしょう。

人形は、翁も千歳も三番叟も皆、良かった。和生さんの翁も好き。「丞相名残の段」の管丞相を思いだし、和生さんの管丞相も観てみたいと思った。でも、この曲の眼目は、三番叟だと思う。三番叟の部分は、三味線も人形も文楽独特の楽しさがある。特に人形は、今回の一輔さんと幸助さんのように、力の拮抗した人達が、気合いの入った力強い舞やコミカルな演技をするのがおもしろい。

パンフレットには、金剛流の宗家、金剛永謹師のお能の「翁」に関するエッセイがあって、知らなかったことが沢山書いてあって、ものすごく興味深かった。たとえば能楽堂の橋掛リは奇数の板が渡されていて真ん中の板は「翁板」といって翁だけが通り、常の能では通らないとか(じゃあ、手前と奥、どっちを通ってるんだろう?)。家元の家の子は元服ぐらいの年齢で面を初めてかけて「翁」を舞うとか。

先日、『謡曲大観』という謡曲のガイドブックのような本で、「三番叟」の原曲に当たる「翁」について読んだら、「翁」の詞章は、もともと催馬楽等の詞章に近いもので、神聖な内容という訳ではないという説と、それから、河口慧海(かわぐちえかい)というチベットに行って『西蔵旅行記』を著した有名な僧侶が、「とうとうたらりとうたら」云々を古代チベット語に翻訳したものが載っていて、それなりに一貫性のある意味のある内容になっている。そして、『謡曲大観』の佐成謙太郎は、もしチベット古語が原語となっているとすれば、「翁」は奈良時代に中国を経て唐楽、三韓楽と共に伝わった散楽からの移入を考えてみる必要もあると結んでいる。どっちにろ、成り立ちは、あまりに古すぎて分からないことには変わらない。今、国立能楽堂の展示室では、「みちのくの能」というテーマで展示がしてあるが、その中に毛越寺の延年の舞の写真がある。その写真の中に番組が張り出されているのが写っていて、そこには「古式三番三」とあるので、延年の舞の成立した鎌倉時代には、既に東北でも三番叟が行われていたというとだろうか。ちなみにその番組は、「古式三番三」の後、「間口上」「祝詞」「若女」「老女」となっている。白山郷東二口村の文弥人形もやはり、三番叟、口上、その日の演目という順番だった。そういえば、お能で口上というのは一度も見たことないなあ。なぜお能では口上をしないのだろう?

「翁」、「三番叟」はお能でも文楽でも、とても神聖な曲としてとらえられていることは間違いないと思うけれど、お能文楽における「翁」と「三番叟」の扱いは少し違う気がする。お能では、「翁」は、年の始めや何か大きなお祝いの時に演じられるが、文楽の二人三番叟のように、公演の開幕前に毎日行われるような種類のものではない。実際、翁を舞う人は潔斎したりしなければならないとされており、頻繁に演じるようなものではない、もっと特別なものとしてとらえられていると思う。文楽でも、神事的色合いはあるけれども、場を清めるとか祝意を表すとか、「翁」より、もう少し日常に近いものである気がする。

そういえば、先日観た白山郷東二口村の文弥人形でも三番叟は開幕の時に舞われていた。文弥節が流行っていた、17世紀半ば頃には既に開幕前には必ず舞われていたのだろうか。


義経千本桜(よしつねせんぼんざくら) すしやの段

10月に地方公演で観てまたかと思ったけど、観れば、いろいろ発見がある。

すしやは、権太(勘十郎さん)の最初の出では、母に向かってうそ泣きをしようとするが、演技力ゼロの権太の目には涙なんて涌きもせず、唾を目に付けて泣いたふりをする始末だった。しかし、梶原景時の手下が、若葉内侍や六代に扮した権太の妻や子供を連行しようとした時、権太は汗を拭く振りをして後ろ向きになって手ぬぐいで目を覆い、梶原景時が去る時には、着ていた褒美の陣羽織を頭から被って、人に見られないようにして泣く。彼は、父に刺されて手負いになってから、若葉内侍と六代の身代わりとするために、妻の小仙や子供の善太を縄で締めて後ろでにした時、耐えかねて血の涙を流し、「可愛や不憫や」と血を吐きました、と慟哭するのだ。

たぶん、権太は自分の子供が生まれて、その子供が自分と違って素直な子で、思いがけなく可愛く思い、ひるがえって自分の父親である弥左衛門の父としての苦悩に思いが至ったのではないだろうか。しかし、父親と和解しようにも、家族は相変わらず荒くれ者の権太としてしか見ないから、つい、足で戸を開け閉めし、「今追い出されてゐても(この家のものは)釜の下の灰までおれが物ぢや」などと憎まれ口をたたき、偽悪的に振る舞ってしまっていたのではないだろうか。

そして、権太は維盛を助けることで父を助け、認めてもらおうとした時、犠牲となってくれたのは、自分の子だったのだ。その関係性は、『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋の段」の松王丸と息子の小太郎の関係性に通じるように思う。すしやでは弥左衛門と権太という父と主人公の関係性に焦点が当てられていて、その二代の悪縁の報いが孫の代に及ぶという形でその悲劇の一端を示していた。一方、同じ父と主人公の葛藤があるけれども、むしろ主人公と孫の関係性に焦点を当て、主人公の悲劇性を強調したのが「寺小屋の段」だったのではないかという気がした。

もう一人、私にとって「すしやの段」で気になる登場人物なのが、維盛。玉女さんの維盛は、最初から既に隠しても隠し切れぬ平家の御曹司の、生まれながらに備わった、一種の威厳がにじみ出ていて、お里が憧れても所詮は別の世界の人という感じだった。そのため、話の展開に説得力がある。色々な演じ方があるんだなと思った。

床は、皆さんよかったけど、寛治師匠が、パンフレットのインタビューで、若葉内侍の出のところは「文弥」という節が付いているという趣旨のことをおっしゃていて、非常に興味深かった。先日、白山郷東二口村の文弥人形を見た時のレクチャー&デモでは、三味線は一部をのぞいてほとんど平曲のように、語りのフレーズの合間に合いの手を入れる形になっていたが、寛治師匠の話からすると、「文弥」と呼ばれる曲節は、大夫の語りだけでなく、三味線の旋律も含めて文弥と言われているということだ。とすると、やっぱり、かつては文弥人形の三味線は昔はもっとバリエーションがあったのかもしれない。

展示室には、演目に関連した展示があり、中でもおもしろかったのが、西国三十三カ所図会とかなんとかいう本だ。吉野の項に、すしやのつるべすし屋のモデルとなった守田屋のことが書いてあった。私は漠然と『義経千本桜』が当たったからモデルとなった守田屋も有名になったのかと思っていたら、その本によると、元々、『義経千本桜』の出来る以前から、毎年4月半ばに初めて作ったなれ寿司や5月に二番目に作ったなれ寿司を御所や高家になれ寿司を献上していたような名店だったらしい。しかし、『義経千本桜』が当たって、お店の名前も「釣瓶鮓」に変えたとか。また別の展示によれば、維盛を一時匿ったという言い伝えもあるのだという。

平家物語』には、維盛、六代に関しては、特に六代がその死を以て平家一族の滅亡とされるため、浄瑠璃に向きそうなエピソードがいくつも収めてある。それにもかかわらず、それらのを使わずに、守田屋の言い伝えのような多分当時もあまり知られていなかったと思われるエピソードを敢えて使ったというのも興味深い。一方、同じ『義経千本桜』でも、二段目の渡海屋・大物浦の段は、平曲や謡曲狂言などの様々な先行作品を駆使したコラージュのようになっている。同一狂言の中で、様々な劇作の方法が試されている点も面白いと思う。


増補大江山(ぞうほおおえやま) 戻り橋の段

大江山酒呑童子)の登場人物の渡辺綱の前に現れた若く美しい女性は実は化け物だったという、お話。

お話の展開は常磐津の『忍夜恋曲者』とよく似ている。実際、河竹黙阿弥と六世岸澤式左による常磐津が原曲なのだそう。詞の部分が多く小さなお話のようだけれども、演奏自体は景事らしい感じがベースとなっている。

ストーリーは、最初は、たおやかで優に見目よき若菜が、綱に正体を知られるや否や、恐ろしく荒々しい鬼に変貌するというもの。ほとんどそれだけの趣向だけど、その変貌が面白い。最後は、鬼は、なんと雲に乗って逃げてしまう。

先日、文弥人形のレクチャーを拝聴したとき、東二口村では、「大江山」という狂言のは、鬼を退治することでその年の息災を祈念するという意味があり、新春公演の最後の狂言として演じられると聞いた。文楽の新春公演の第一部は、寿式三番叟で始まり、「大江山」の追儺で終わるという大変お目出度い構成でした。