天平勝宝4年の大仏開眼供養

何の気なしに手元にある和辻哲郎の『古寺巡礼』(岩波文庫)をぱらぱらとめくったら、東大寺の伎楽面の話が載っていた。かつて読んだときは特にこれといった感想はなかったけど、今回は、先日、東博東大寺展で伎楽面を見たばかりなので面白い。さすが、和辻哲郎、二十代のときの作品ながら縦横無尽の知識を駆使して様々な分析をしている。そして、どうも、東大寺所蔵の天平時代の伎楽面は大仏開眼供養で使用されたということらしい。

面白かったので、改めて新日本古典文学大系の『続日本紀』巻十八にある、東大寺大物開眼供養に関する記述を見てみると、聖武天皇の娘、孝謙天皇が自ら、中国風の礼装をした文武の百官を率いて正月と同様の法会を行ったとあり、参加した僧は一万人に及んだという。法会では、東西に別れて様々な歌舞が演奏され、舞われた。歌舞は、まず、王臣諸氏の五節の舞、久米舞、盾伏(たてふし)、踏歌(とうか)、袍袴(ほうこ)等を行い、さらに斎会(食事を供する法会)も行われ、その様子は「嘗て此(かく)の如く盛(さかり)なるはあらず」と表現されている。『続紀』の記載はこのくらいで、どうも伎楽面が使われた場面についての記述はないようだ。

そこで和辻の『古寺巡礼』にも挙げてある『東大寺要録』を見てみると、『続紀』よりは詳細な記述がある。法会は『続紀』に記載のない、様々な儀式が執り行なわれたらしい。まずは皇族、諸氏が入場して、開眼供養が行われると、その後、歌舞となる。五節、久米舞、踏歌が演奏されたあと、唐古楽一舞、唐散楽一舞、林邑楽三舞、高麗楽一舞、唐中楽一舞、唐女舞一舞、施袴二十人高麗楽三舞、高麗女楽が演奏されたと記されている。和辻によれば、その中で「林邑楽三舞」とあるのが、伎楽面が用いられた舞らしい。

「林邑楽」というのは、和辻によれば、インドのバラモンの音楽だという。そういえば、確かに『今昔物語』巻第十二の第七「東大寺にして、花厳会(かげんかい)を行へる語」に、

今昔、聖武天皇東大寺ヲ造リ給テ、先ズ開眼供養シ給フニ、婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)ト云フ人天竺ヨリ来リ給ヘルヲ、行基菩薩兼(かね)テ其レヲ知テ、其ノ人ヲ勧メテ其ノ講師(こうじ、法会で高座に登って講説をする役の僧)トシテ供養シ給ハムト為(す)ル

とあるし、ちょうど開眼供養の頃に始まった東大寺修二会も良弁の高弟でインド人の実忠和尚が始めたものだし、そのような仏教の故郷であるインドの歌舞が奏されたとしてもおかしくない環境にあった。また、和辻は、この音楽の「詞を改直せしなり」という言及がある室町時代の『舞曲口伝』を引いて、詞があったとすれば、「バラモンの神話から説明できるものかもしれない」としている。なるほど、そうすると、伎楽面はインドの神話の登場人物かもしれず、「力士」等の伎楽面が彫りの深い顔立ちであることもよく分かる。

このように見てみると、東大寺大仏開眼供養は、日本の伝統的な音楽、唐や西域の音楽、インドの音楽までも網羅した、シルクロードの終点に相応しいインターナショナルな法会だったのだろう。『東大寺要録』には「爰来集貴賎共致奇異無不歎息」とあり、いかに当時の人々が驚嘆したかが分かる。

ちなみに、さきに引いた『今昔物語』第十二の第七には、大仏開眼供養の法会に関する奇瑞の話がある。聖武天皇霊夢を見て、その日最初に寺の前を通りがかった翁で籬(いかき;ざる)に鯖を入れて荷なう人を大仏開眼供養の読師に指名する。翁は「役トシテ過グル」と辞退するが、聖武天皇はお許しにならず、結局、その翁は大仏開眼供養の法会で読師をする。が、鯖を高座の上に置き、読経が終わると高座から掻き消すように失せ、高座に置かれた鯖は花厳経八十巻なった。これを見た聖武天皇は「我ガ願ノ誠ニ依リテ仏の来リ給ヘリケル也」と仰り、ますます帰依したという。もちろん、そんなことは現実に起こることは無いだろうが、このような説話が残るほど東大寺の大仏建立が日本という国にとって大きな出来事だったということなのだろう。

そして法会が終わると、孝謙天皇は母方の従兄弟、藤原仲麻呂所有の田村第に宿泊するのであるが、その忠臣と思われた仲麻呂は後の天平宝字8年(764)、反乱を起こすことになる。そしてさらに下って神護景雲2年(768)11月9日、春日大社が創設される。このあたり時代の話は本当に面白いけど、書き出すと止まらないので、とりあえずここで終わり。