国立能楽堂 貰聟 三輪

解説・能楽あんない 女姿と三輪の神 脇田晴子(石川県立歴史博物館館長)
狂言 貰聟(もらいむこ) 松田高義(和泉流
能  三輪(みわ) 松野恭憲(金剛流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3239.html

まだ行ったことのない三輪山にまつわる伝説を知ることが出来、久々に松田弘之師の素晴らしい笛も聴けて、楽しい土曜の午後でした。


解説・能楽あんない 女姿と三輪の神 脇田晴子(石川県立歴史博物館館長)

興味深かったのは、三輪明神が女神でもあり男神でもあるというお話。『古事記』の神婚譚は通い婚で男が夜な夜な来るというお話で、その夫と妻が三輪明神になったとか、天照大御神三輪明神が一体という説から女神になったとか、色々と解釈があるらしい。そういえば、浄瑠璃の『妹背山婦女庭訓』の「恋苧環」という三輪山伝説を採り入れた曲の中では、前半、夜な夜な通い来るのは女性で、後半は男性が夜通い来るというストーリーになっている。作者の近松半二が意図してそういうダブル・イメージを利用したのか、それとも私の拡大解釈か…?

もうひとつは三輪明神伊勢神宮は一体という説について。元々伊勢神宮は三輪の檜原(ひばら)というところにあり、それが何度か遷移して最終的に伊勢に鎮座したとか。そのために、中世の世界では、三輪明神伊勢神宮という理解だったのだそう。それでこのお能では三輪の神が天照大御神の岩戸隠れの物語りをするのだという。こんな風に色んな話をくっつけて昔の人の頭はよく混乱しなかったものだと思うが、考えてみれば、夢などでは、この手の現実無視の辻褄合わせ的イメージやストーリー展開はよくあることだ。昔の人は深層心理の働きについて現代人よりもよく分かっていたのかも。


狂言 貰聟(もらいむこ) 松田高義(和泉流

したたかに酔っ払って帰ってきた夫(野村小三郎師)。口喧嘩の末、酔った勢いで夫が妻(奥津健太郎師)に暇を出し、妻は子供のことを期にかけつつも実家に帰る。実家の舅(松田高義師)は最初はいつものことだと取り合わないが、身投げするという妻の言葉を聞いて、匿うことにする。そこに酔いが冷めた夫が妻を捜して実家に現れる。舅と夫の押し問答の最中、隠れていた妻はつい顔を出し、夫に見つかってしまい…というお話。

中世だから笑い話で済むけど、今の世なら夫はアル中呼ばわりされるところ。小三郎師の、目が座って一瞬たりとも真っ直ぐに立てない様子は、本当にお酒のにおいが漂ってきそう。この夫婦はきっと今後も同じように、夫が酔っ払って帰ってきては喧嘩をして妻は実家に帰り…というエピソードを重ね続けて仲良く年を取るのでしょう。南無〜。


能  三輪(みわ) 松野恭憲(金剛流

後見がターコイズブルーの引き回しを掛けた杉小屋の作り物を大小前に持ってくる。杉小屋の頭の前方の二つの角には杉の小枝が一本づつ、据え付けられている。

名ノリ笛でワキの玄賓(げんぴん;村山弘師)の出となり、玄賓は名ノリ座に着き、「ここのところ樒と閼伽の水を持って里の女が来るが、今日は名前を尋ねてみよう」と言うと、ワキ座に向かい、着座する。玄賓は桓武天皇も帰依した高僧だそうだけど、山居の侘び住まいだからか、大口などは着けておらず、着流しだった。

ヒシギに続いて[次第]となり、シテの里の女(松之恭憲師)が現れる。曲見だったか深井だったかとにかくそれなりに年を重ねた女の面をしていて、唐織も茶地に金、萌黄、橙の秋草(聴く、女郎花、桔梗など)、手には杉の小枝を持つ。里の女は常座に立ち後ろを向くと、次第「三輪の山もと道もなし 三輪の山本道もなし 檜原(ひばら)の奥を尋ねん」と謡う。次第というのは、ワキが謡い、その後に名ノリがあって道行、という流れのことが多いように思われるけれど、今回はシテが次第を謡った。ここは玄賓の山居にシテが現れるという設定だが、ひょっとすると次第というのは移動している人が謡うものなんだろうか。

里の女は正面を向くと、「げにや老少不定(ふじょう)とて、世のなかなかに身は残り、幾春秋を送りけん浅ましや、なす事なくて徒(いたずら)に、憂き年月を三輪の里に、住居する女にて侍らふ」と謡うと、玄賓の元に樒閼伽の水を届けようという。

一方の玄賓は、「山頭(さんとう)には夜孤(こ)の月を戴き、洞口(どうこう)には朝(あした)一片の雲を吐く、山田守(も)る僧都の身こそ悲しけれ、秋果てぬれば、訪ふ人もなし」と謡い、侘しい住居を嘆く。

里の女は案内を乞い、「山影(さんえい)門に入って推せども出でず」と謡うと、玄賓はそれを受けて「月光地に敷いて払へどもまた生ず」と応え、二人の掛け合いで「鳥声(ちょうせい)とこしなへにして老生と静かなる山居」と謡うと、地謡が引継ぎ、「芝の網戸を押し開き」で里の女は右手で網戸を押し開く所作をする。そして、「かくしも尋ね切樒(きりしきみ)、罪を助けて賜び給へ」で里の女は玄賓の方に歩み寄ると、舞台中央で膝を折り合掌する。ここから囃子が入り、地謡はさらに「秋寒き窓のうち、秋寒き窓のうち、軒の松風うちしぐれ、木の葉かき敷く庭の面、門は葎(むぐら)や閉ぢつらん、下樋(したひ)の水音も苔に、聞こえて静かなる、この山住みぞ寂しき」と山居の様子を描写する。一方、里の女は「秋寒き窓のうち」で目付柱の方を見、「下樋の水音も」で下を見、この山居の侘しさに同情の念を以て感じ入る。

里の女は、ここで「わらわに御衣を一衣(いちえ)賜はり候へ」と言う。脇田さんのお話によれば、衣を賜るというのは、仏教では受戒することを表すそうなのだが、舞台上では玄賓は衣を一衣、里の女に手渡す。『新潮古典集成 謡曲集(中)』の「三輪」では、「秋も夜寒になり候へば おん衣を一重給はり給へ」となっていて寒さをしのぐために衣を貰うということになっているのだが、今回の金剛流の「三輪」では、「秋も夜寒」云々のくだりはなかった。同書によれば、下掛り系には「夜寒」云々は無く、禅竹も『明宿集』のなかで「三輪」の衣を受け取る部分を「受戒」と解釈しているそうで、「これが本来の形か」とある。上掛リ系は実は元章あたりが受戒のことと知らなくて勝手に書き加えちゃってたりして?

衣を得た里の女が暇を告げると、玄賓は「おん身はいづくに住み給ふ人ぞ、住家を御明かし候へ」と問う。里の女は、自分は三輪の里、山もと近い所に住むというと、「三輪の山もと恋しくはとは詠みたれども、何しに我をば尋ね給ふべき、さりながら、なほも不審に思し召さば、訪(とぶら)ひ来ませ 杉立てる門(かど)を知るべにて、尋ね給へ」と言い捨てると、囃子と共にかき消すように失せてしまうのだった。シテは杉小屋の中に入って中入りとなる。その間に後見は杉小屋の作り物に、貰った衣を掛ける。


狂言となり、アイの里人(野口隆行師)が、三輪明神を詣でるために現れる。
里人は、以前、氏子達が集まって三輪明神の社を建てようとしたところ、三輪明神が夢に現れ、「生類畜生も杉のしるしを目印として三輪明神に参拝しに来るのだから、鳥居も社も必要ない」と告げたという話をする。また、杉はご神体でもあるという話をひとりごちながら歩いていると三輪明神に着き、早速参拝する。里人は杉の枝に衣が掛かっているのを見つけ、それが玄賓の衣であることをみ覚えていたので、玄賓に知らせに行く。玄賓は、いつも樒閼伽の水を手向けに来る女に衣を渡したが、女に住家を問うと、「杉立てる」の歌を詠い、見失ってしまったと話す。里人は、不思議なことがあるものだと言いながら、急ぎ神殿に行き衣の様態を尋ねることを薦め、自分も女子供を従えて後から向かうと請け合う。


後場は囃子入りの玄賓の上歌「この草庵を立ち出でて、この草庵を立ち出でて、行けば程なく三輪の里、近き辺りか山陰の、松は標(しるし)もなかりけり、杉村ばかり立つなる、神垣はいづくなるらん、神垣はいづくなるらん」で始まる。立ち上がって上歌を謡った玄賓は、杉小屋に衣が掛かるのを見つけ不思議がるが、衣に歌が書いてあるのを見つける。読めば「三つの輪は、清く清きぞ唐衣、来ると思ふな、取ると思はじ」とある。これは三輪明神の御神詠となっているそうだが、実は『続古今集』釈教、『和漢朗詠集』巻下「僧」に玄賓の歌として「三輪川の清き流れにすゝぎてし我が名をさらにまたやけがさむ」があり、『江談抄』に「弘仁五年(814)、玄賓初メテ律師ニ任ジ、辞退ノ歌ニ云ワク、三輪川ノ清キ流ニ洗(あらい)テシ衣ノ袖ハ更ニケガサジト云々」とあり、三輪清浄(さんりんせいじょう;布施をする主体(施者)・布施を受ける相手(受者)・布施する物(施物)が清浄であるべきという思想)の心を詠んだものだという。なるほど、玄賓という人は、三輪明神にとって大事な僧であることが、この御神詠と玄賓の歌のつながりからも分かるのだった。

そして続けて「千早振る、神も願ひの、ある故に、人の値遇にあふぞ嬉しき」という声が杉小屋の中から聞こえてくる。この歌の意は、神の罪業救済の願望という意味だとか。脇田さんによれば、中世においては神も五障ある存在とされ(神話では神が様々な戒を破っているためだとか)、回向によって成仏するのだという話だった。

玄賓は感激して、「同じくは末世の衆生の迷ひを照らし、御姿を拝まれおはしませ」というと、念願深い感涙に墨衣を濡らすのだった。すると、三輪明神が「恥かしながら我が姿、上人にまみえ申すべし、罪を助けて賜び給へ」といいながら、後シテの三輪明神が杉小屋から出てくる。面は増女で、風折烏帽子、白地に花車の長絹、緋大口という出立。

玄賓は「いや罪科は人間にあり」といい、これは神が衆生済度の方便として暫し迷う人間の心となっているのです、と言う。地謡は「女姿と三輪の神、女姿と三輪の神、襷(ちはや)掛帯引きかえて、ただ祝子(ほおりこ)が着すなる、烏帽子狩衣、裳裾の上に掛け、御影あらたに見え給ふ、忝(かたじけや)なの御事や」と謡い、<クリ><サシ><クセ>で、三輪神婚説話を語る。<クセ>以降の

地謡: されどもこの人、夜は来れども昼みえず、ある夜の睦言に御身いかなる故により、かく年月を送る身の、昼をば何と烏羽玉の夜ならで通ひ給はぬは、いと不審多きことなり・ただ同じくは永久(とこしなえ)に、契をこむべしとありしかば、かの人答へ言うやう、げにも姿は恥ずかしの漏りて外にや知られなん、今より後は通うまじ、契りも今宵ばかりなりと、懇ろに語れば、さすが別れの悲しさに、帰る所を知らんとて、苧環に針をつけ裳裾にこれを綴じつけて、後を控えて慕ひ行く
シテ: まだ青柳のいと長く
地謡: 結ぶや早玉の、おのが力にささがにの、糸繰り行く程に、この山もとの神垣や、杉の下枝に止まりたり、こはそも浅ましや契し人の姿か、その糸のみわげ残りしより、三輪のしるしの過ぎし世を、語るにつけてはずかしや

という部分は、浄瑠璃の『妹背山婦女庭訓』の「恋苧環」におおよそ採られていて興味深い。

さらに、三輪明神は「上人を慰めん」と言い、「まづは岩戸のその始、隠れし神を出ださんとて、八百万の神遊、これぞ神楽の始めなる」で[神楽]を舞う。ここから太鼓が入る。笛はシンコペーションのリズム(「タタータター」というように、本来一番強拍になる一拍目が弱拍になり、弱拍になるべき二拍目にアクセントが置かれたりするようなリズム)。どうもお能ではシンコペーションのリズムの笛は、人ならぬ神等が出てきて神聖な雰囲気を醸し出していることを表しているようだ。囃子は最初はゆったりとモデレートで始まるのだが、段々と速度を増して行き、アレグロといった感じの大変速い速度となり、恍惚感で舞台を満たす。

[神楽]の囃子が急にテンポを落とすと、シテが扇を目の前に短冊を詠むようにかざし(千早振る)「天の岩戸を、引き立てて、(地謡)神は跡なく入り給へば、常闇(とこやみ)の世と、早なりぬ」で、天照大御神の岩戸隠れの説話を謡う。

興味深かったのは、岩戸隠れの説話の話は「妙なる始の、物語」で語りおさめられるのだが、この後も囃子は終わりまで続くのに、太鼓はここで終わってしまう。今まで聴いた太鼓が入る曲は、曲を止める最後の一打は太鼓という曲が多かったが、この曲では太鼓は途中迄しか入らない。どういう理由で違う処理になっているのだろうか。

というわけで、太鼓抜きの囃子でそのまま曲は進み、地謡の「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、今更何と磐座(いわくら)や、その関の戸の夜も明け、かくありがたき夢の告げ、覚むるや名残なるらん、覚むるや名残なるらん」で、三輪明神は常座で後ろ向きとなり留拍子を踏む。