国立能楽堂 定例公演 鳴子 俊寛

定例公演  鳴子 俊寛
狂言 鳴子(なるこ) 佐藤融(和泉流
能  俊寛(しゅんかん) 山本順之(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3240.html

俊寛」は歌舞伎で何度か観ていて好きな演目なので楽しみにしていたのだけど、想像していたものと結構違っていて、静かに衝撃を受けました。そもそも歌舞伎の俊寛お能の作り物の小屋のような処に住んでいて、その小屋の屋根は昆布で葺かれている。私はその小屋はお能から来ているに違いないと思っていたのだけど、お能の「俊寛」には何の作り物も出てこなかったのでした。歌舞伎座では前の方の席に座ると昆布の香が漂ってきて良い感じなのですが、お能では味わえず、残念!


狂言 鳴子(なるこ) 佐藤融(和泉流

主人(佐藤友彦師)が、太郎冠者(佐藤融師)と次郎冠者(井上靖浩師)に田んぼの鳥追いを頼む。二人はいったんは「鳥追いは子供の作業だ」と断るが、大人でなければ、という主人の意を汲んで鳥追いに出かける。しばらくして主人が気を利かせてお酒を届けに来る。主人が帰ると早速、二人は酒盛りを始めてしまう。興に任せて小謡を謡い、舞を舞った二人はとうとう寝入ってしまう。そこに主人が再度現れ…というお話。

「鳴子」と書いてあるのを見て、ああ既に何度か見ているなと思ったが、過去のメモに見てみると私が観たのは「狐塚」だった。ストーリー展開はほぼ同じだけど、「鳴子」の方には作り物の一畳台の小屋が出てくるのと(これは演出によって違うらしい)、小舞謡が沢山入っていることが大きな違い。所与の狂言に対する私の好感度判定要素の変数その1は、「その狂言における謡及び歌成分含有量の比率」なので、後半がほとんど小舞謡尽くしの「鳴子」の方が「狐塚」に比べて断然好きなのでした。

今回聞いた謡は「引く」という言葉がキーワードになっていて、パンフレットの井上愛氏の解説によれば、この「引き物尽くし」の謡は中世の歌謡集『閑吟集』に載っている歌と近似しているらしい。『閑吟集』は普通は古典全集に入っているのを読むだけだけど、こうやって狂言の中で実際にどう謡われたのか伝わっていることで、500年ぐらい前の当時、これらの歌謡がどう謡われたのか分かる、というのはすごいことだ。

太郎冠者の謡ったものの中には、声明のように、長音がその音と半音下の音のトリルになるものが(覚えているだけでも)二つはあって、面白い。お能の謡は、ビブラートがかかることはあってもトリルが入るのは聞いたことはない。狂言に出てくる謡は大抵お能に似ているものの、別の系統の芸能の影響を受けているということかも。


能  俊寛(しゅんかん) 山本順之(観世流

俊寛」は確か江戸時代の一時期まで謡専門の曲だったという話だった気がする。それ故か、構成が典型的なお能と違っていてなかなか興味深かった。


名ノリ笛でワキの赦免使(福王和幸師)とアイの船頭(三宅右近師)が出てくる。赦免使は常座に立つと、自分は入道相国(平清盛)に仕えるもので、これから平判官康頼と丹波少将成経の二人を赦免するために鬼界が島に行くといい、船頭に船の用意を命じると、二人で幕に入ってしまう。パンフレットの詞章には<ワキ中入り>とあるので、これが前場という扱いのようだ。短い!この出だし自体、既に典型的なものとは違っている。それに、近松門左衛門浄瑠璃『平家女護島』の「鬼界が島の段」では、赦免使は『平家物語』通り「丹左衛門」(丹左衛門尉基康)が出てくるのに、お能では赦免使としか出てこないのだった。

またすぐにヒシギの後、[次第]の囃子が始まり、ツレの平判官靖頼(西村高夫師)と丹波少将成経(谷本健吾師)が橋掛リを歩いて来ると舞台の正先で向かい合って、次第「神を硫黄が島なれば、神を硫黄の島なれば、願ひも三つの山ならん」を謡う。二人は、それぞれ名を名乗り、二人は同吟で、都に住んでいた時に熊野参詣三十三度をしようと立願したが、その道半ばで遠流となったので、この島に三熊野を勧請し九十九所の王子まで作って巡礼していると趣旨の謡を謡う。「真砂を取りて散米に、白木綿花の御禊(みそぎ)して」で二人は地謡前でひざまづいて合掌し、「神に歩みを運ぶなり、神に歩みを運ぶなり」で立って中正方向を向く。

ここでヒシギの後、[一声]の荘厳な雰囲気の囃子となり、シテの俊寛僧都(山本順之師)が橋掛リを歩いて来る。俊寛は手に水桶を持ち、納戸色の水衣に浅葱に格子柄の着付、角帽子という出立に、「俊寛」という是閑作の面をしている。俊寛は当時37才で、確か成年男性がシテの場合は直面ということを聞いたことがある気がするし、実際、ツレは二人とも直面なのだが、俊寛は面をしているのはどういう理由なのだろう。

そして、俊寛は一ノ松で止まると一声を謡う。「後の世を、待たで鬼界が島守と、なる身の果ての」の後、「冥(くら)きより、冥(くら)き途(みち)にぞ、入りにける」という和泉式部の歌の一部を引いた上で、「玉兎(ぎょくと;月)昼眠る雲母(うんぼ)の地、金鶏(きんけい;太陽)夜宿(しゅく)す不萌(ふぼう)の枝(し)、寒蝉(かんせん)枯木を抱だきて、鳴き尽くして頭(こうべ)を回(めぐ)らさず、俊寛が身の上い知られて候」と謡う。ここは静かなピアノ曲のような和泉式部の歌と、その後のまるでパイプオルガンの音楽のように、暗闇にキラキラとした光が煌めくような美しい漢詩調の謡の部分が調和して、とても素敵な詞章だ。

俊寛が常座に赴くと、巡礼をしていた平判官康頼と丹波少将成経が気づき、何故わざわざここまでお出でになったのでしょう、と尋ねる。俊寛は「道(どう)迎へのそのために酒を持ちて参りて候」と答える。井上氏によれば、「「道迎え」とは「坂迎え」「酒迎え」ともいい、旅から帰京する人を途中まで出迎え、饗応することです。」とのこと。

二人は、酒と聞いて「そも一酒とは竹葉(ちくよう;お酒)の、この島にあるべきか」と問い、平判官康頼が俊寛に近づいて水桶の中を見て「や、これは水なり」という。俊寛は「これは仰せにて候へども、それ酒と申す事は、もとこれ薬の水なれば、レイ酒(にごり酒でない、漉したお酒)にてなどなかるべき」と応える。実は山の湧き水を汲んできたのだった。ここの水をお酒に見立てたエピソードは『平家物語』には無い。正確には、少なくとも岩波文庫の拠っている覚一系には無いといった方がいいかも。というのも、『新潮古典集成 謡曲集(中)』の巻末の「各曲解題」の「俊寛」の項によれば、「俊寛」の詞章は八坂本に拠っているらしいからだ)、このお能の作者の創作かまたは先行芸能にあるのかもしれない。なお、このお能の作者は、同じく『新潮古典集成 謡曲集』では、作者不明と断ってはいるが、「隅田川」などを作った世阿弥の息子、元雅という説があることを紹介している。ドラマティックな構成といい、舞の無い心理ドラマで進行する筋といい、確かに元雅を彷彿とさせる作品ではある。

そして、これ以降、この曲の舞台の時期が長月であることから重陽節と掛けて菊を導いて、菊水(お酒)にまつわる詞章が続く。「飲むからに、げにも薬と菊水の、げにも薬の菊水の、心の底も白衣(しらぎぬの)の、濡れて干す、山路の菊の露の間に、我も千年(ちとせ)を、経(ふ)る心地する、配所はさてもいつまでぞ」で俊寛は康頼と成経に扇でお酒をつぐ。「ハル過ぎ夏闌(た)けてまた、秋暮れ冬の来たるをも、草木の色ぞ知らするや。」で、俊寛は水桶を持って常座に戻ると、「あら恋しの昔や、思ひ出は何につけても」で正面を向くと、目付柱付近に歩み行き、「あはれ都に在りし時は、法勝寺法成寺、ただ喜見城(きけんじょう)の春の花、現在はいつしか引きかえて、五衰滅色の秋なれや、落つる木の葉の盃、飲む酒は谷水の、流るるもまた涙川水上は、我なるものを、物思ふ時しもは今こそ限りなりけれ」と謡う。

井上氏によれば、菊水のエピソードは「能「枕慈童」などによって知られる慈童説話を踏まえています」とのこと。俊寛が流された鬼界が島を、慈童が流された麗県山になぞらえ、七百歳となった慈童との対比で「我も千年を、経る心地する、配所はさてもいつまでぞ」とあるという。近松の「鬼界が島の段」にも水をお酒に見立てるという場面は採り入れられているが、慈童と俊寛の対比という部分はばっさり落とされていて、近松が創作した島の海士の千鳥という娘と成経の祝言の三三九度を山水を菊水に見立てて行うという話に転じている。普通の人間には想像もつかないような離れ業の翻案だ。本当に近松はすごい。


お能の方に話を戻すと、ここでヒシギの後、再度、[一声]となり、なんとワキの赦免使と舟の作り物を担いだアイが橋掛リに現れ、面白い。一声というのはシテの出に使われるのだと思っていたけれども、このようにワキが出てくるのもあるのだ。市松で留まると、赦免使は「早船の、心に叶う追風(おいて)にて、船子やいとど、勇むらん」と謡い棹で舟を漕ぐ所作をする。船頭も続いて「人は勇めど我はまた、鬼界が島は恐ろしや」と謡う。

船頭が鬼界が島に着いたことを赦免使に伝えると、赦免使は舟を降りて、正先に行き、大小前に居る俊寛地謡前の康頼、成経の方を見ると、赦免状を持って来たことを告げる。俊寛は赦免状を受け取ると、「やがて康頼ご覧候へ」と康頼に赦免状を手渡す。康頼は早速赦免状を読み上げるが「何々中宮御産の御祈りのために、非常の大赦行わるるにより、国々の流人の中、丹波の少将成経、平判官康頼二人赦免ある所なり」というのを俊寛が聞きとがめ、「何とて俊寛を読み落とし給ふぞ」と言う。しかし康頼は「御名はあらばこそ、赦免状の面をご覧候へ」と応える。俊寛は未だ信じられずに「さては筆者の誤りか」と食い下がるが、赦免使は非情にも「いや某都にて承申しり候ふも、康頼成経二人は御供申せ、俊寛一人をばこの島に残し申せとの御事にて候」と言い捨てる。俊寛は「こはいかに罪も同じ罪、配所も同じ配所、非常も同じ大赦なるに、ひとり誓ひの綱に漏れて、沈み果てなん事はいかに」と訴えると、さらに続けて「この程は三人一緒に在りつるだに、さも恐ろしく凄まじき、荒磯島にただひとり、離れて海士の捨て草の、波の藻屑の寄辺もなくて、在られんものか浅ましや、嘆くにかいも渚の千鳥、泣くばかりなる有様かな」と謡う。

ここから<クセ>となり、俊寛はじっと赦免状を握りしめたまま、「時を感じては、花も涙をそそぎ、別れを恨みては、鳥も心を動かせり、もとよりこの島は、鬼界が島と聞くなれば、鬼ある所にて、今生よりの冥途なり、たとひいかなる鬼なりと、このあはれなどか知らざらん。天地を動かし鬼神も感をなすなるも、人のあはれなるものを、この島の鳥獣(とりけだもの)も、鳴くは我を問ふやらん」と謡う。さらに、俊寛が「せめて思ひの余りにや」と謡うと地謡が続けて「さきに詠みたる巻物を、また引き披(ひら)き同じ跡を、繰り返し繰り返し、見れども見れどもただ、成経康頼と、書きたるその名ばかりなり」と謡い、「もしや礼紙にやあるらんと、巻き返して見れども、僧都とも俊寛とも、書ける文字は更になし」では、俊寛は礼紙をひっくり返しえ見たりする。「こは夢か夢ならば、覚めよ覚めよと現(うつつ)なき」で赦免状を激しく投げ捨て、よろよろと後ろに下がって安座し「俊寛が有様を、見るこそあはれなりけれ」で両手でシオリ、号泣する。「こは夢か」以降の囃子は非常に速い囃子で、緊迫感が一気に高まる場面となる。


成経がさりげなく赦免状を拾い上げると、赦免使は「時刻移りて叶ふまじ、成経康頼二人ははや、お舟に召され候へとよ」と二人に向かって告げると、康頼と成経は「かくてあるべき事ならねば、外(よそ)の嘆きを振り捨てて、二人は舟に乗らんとす」で、二人は大小前から一ノ松にある舟に乗ろうと歩いて行くが、脇正近くで成経の後ろを歩いていた康頼に俊寛がすがりつき、「僧都も舟に乗らんとて、康頼の袂にすがりつけば」と俊寛が謡う。しかし赦免使は無情にも「僧都は舟に叶ふまじと、さも荒けなく言ひければ」と謡う。俊寛はさらに「うたてやな公の私という事のあれば、せめては向かひの地までなりとも、情けにて乗せて賜び給へ」と謡う。「公の私」というのは、「公事(おおやけごと)のなかにも私情を挟む余地がある」という意の諺だとか。コンプライアンスがあらゆる分野で重要視されている昨今では決して使えない諺…。赦免使は棹を俊寛に向けて振り上げ「情けも知らぬ舟子ども、櫓櫂(ろかい)を振り上げ打たんとす」と謡い、その隙に康頼は舟に乗り込む。俊寛は「さすが命の悲しさに、また立ち帰り出舟(いでふね)の、纜(ともづな)に取りつき引き留むる」で纜にしがみつく体となるが、赦免使は「船人纜押し切つて、舟を深みに押し出だす」で纜を切る所作をする。

俊寛は正先に行くと、橋掛リの舟を見ながら「せん方波に揺られながら、ただ手を合せて舟よなう」と謡うと、赦免使が「舟よと言えど乗せざれば」と応え、「力及ばず俊寛は、もとの渚にひれ伏して、松浦佐用姫も、我が身にはよも増さじと、声を惜しまず泣き居たり」で、俊寛は力なく座り込み、両手でシオル。赦免使、康頼、成経が、「痛はしの御事や、我ら都に上りなば、宜(よ)きやうに申し直しつつ、やがて帰洛はあるべし、御心強く持ち給へ」と舟から俊寛に向かって同吟すると、俊寛は、「帰洛を待てよとの、呼ばはる声も幽(かす)かなる、頼みを松陰に、音を泣きさして聞き居たり」と謡うと、さらに三人と俊寛の掛け合いで「聞くやいかにと夕波の、皆声々に俊寛を、申し直さば程もなく、必ず帰洛あるべしや」と謡う。俊寛が「これは真か」と問うと、舟の三人は「なかなかに」と応える。この場面は歌舞伎より長いのでつい康頼や成経が本気で俊寛の帰洛に奔走しそうなきがしてしまうが、『平家物語』ではそのまま帰洛は叶わず俊寛は鬼界が島で死んでしまうのだった。「頼むぞよ頼もしくて、待てよ待てよと言ふ声も姿も次第に遠ざかる沖つ波の、幽かなる声絶えて船影も人影も、消えて見えずなりにけり、跡消えて見えずなりにけり」で絶妙なタイミングで舟に乗った三人と船頭は幕の中に消えていく。俊寛は、中正方向を見て立ち尽くし、ヒシギで曲は終わる。


平家物語』の中の俊寛は、有王という子供の頃から俊寛に仕えていた童が鬼界が島を訪ねて最期を見届けたということになっている。俊寛はかつては心傲れるシニカルな人であったのに、有王からの報告で幼い娘を亡くしたことを知り、「などさらばそれらがさ様に先立ちけるを、今まで夢まぼろしにも知らざりけるぞ。人目も恥ず、いかにして命いかうど思しも、これらを今一度見ばやと思ふためなり。姫が事計りこそ心ぐるしけれ供、それはいき身なれば、嘆きながらもすごさんずらん。さのみながらへて、おのれに憂き目を見せんも我身ながらつれなかるべし」と言うと、断食し、ひとえに弥陀の名号(みょうごう)を唱えて、臨終を迎えた。もし本当ならこの実在の俊寛という人は、生き方の根本的な部分の思想をも変えざるを得なかったような劇的で稀有な人生を送った人だった。そして最期には娘や妻のことを想うだけの心の優しさも実は持っていた人なのだと思うと、少し救われる気がする。多分、このお能の作者も近松もこのような厳しい状況に遭遇し苦悩の末に自分の人生について悟ったところが俊寛という人の人となりの大事な部分だと考えて、それぞれ『平家物語』の「足摺」(「俊寛」該当箇所)にはない、そのような俊寛の一面を彷彿とさせるエピソードを創作したのではないだろうかという気がする。