国立文楽劇場 錦秋文楽公演

国立文楽劇場 錦秋公演
◆第1部
嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)
 花菱屋の段、日向嶋の段
近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)
 四条河原の段、堀川猿廻しの段

◆第2部
一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
 陣門の段、須磨浦の段、組討の段、熊谷桜の段、熊谷陣屋の段
伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)
 八百屋内の段、火の見櫓の段
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3580.html

もう終わってしまったけど、文楽11月公演のメモです。


◆第1部
嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)
 花菱屋の段、日向嶋の段

今年2月の東京公演と主立った配役で同じなのは千歳さんの「花菱屋」、咲師匠と燕三さんの「日向嶋」、玉女さんの景清ぐらいで、他の配役は入れ替わり。太夫と景清の人形の配役が同じなのでそんなに印象は変わらないかなと思っていたが、結構違ったので興味深かった。特に「花菱屋」の三味線は2月の時は清介さんで今回は團七さんだったのだが、かなり印象が違った。また、咲師匠の語りも2月よりメリハリが更にはっきりしていて(私は何様じゃ)、大変聴いていて楽しかった。


そういえば、2月は「日向嶋」の冒頭、謡ガカリで始まる「松門独り閉ぢて、年月を送り、自ら清光(せいこう)を見ざれば、時の移ろふも、弁えず。暗々たる庵室(あんじつ)に徒(いたず)らに眠り、衣(ころも)寒暖に与へざれば、肌(はだえ)はぎょう骨と衰えたり」の部分は、あまりにスケールの大きい語りで全然謡のように聞こえない、という印象があった。しかし、その後、その詞章の引かれたお能の「景清」を喜多流友枝昭世師で観るという得難い機会があったのだが、実はここの引用された部分はお能では平曲の節となっていて、通常の謡とかなり違う謡い方をする箇所だった。昭世師はここの部分は、低い声でぼつぼつと途切れがちに謡っていて、かつて悪七兵衛と名を轟かせた自分の末路を省みて、感慨をもって語るという印象だった。喜多流は下掛リで上掛リの観世流とは演出が異なることがよくあるので、すべての流儀で同じように謡うのかは分からないが、とにかく浄瑠璃の謡から取った謡ガカリの箇所が実はお能では平曲の節で謡う箇所だというのは、大変面白いことに思われた。


この浄瑠璃は基本的には好きな浄瑠璃のひとつだけど、観れば観るほど、不可解な箇所がいくつもある。例えば、景清が何故、変節するのかよく分からない。実は開演前に公演パンフレットを眺めてみたところ、「鑑賞ガイド」の「日向嶋の段」のところに「忠義一途、武士道の権化のような景清が、娘の親としての生き方を自覚することによって、よりどころとしていた平家の正当性に疑義を抱くところがみどころです。」と書いてあり、驚いた。というのも、私は2月に観たときは、すっかり親子の情の話かと思っていたからだ。実際に観てみると、確かに糸滝の書置を読んでもらい糸滝が遊君として身売りしたという事実を知った景清が砂に伏し横たわり身も浮くばかりに嘆いたのち、「入道殿の邪見放逸。仏神三宝に捨てられ奉り、亡びし平家の運命とは知らずして、仁義正しく道を守る頼朝に敵せんと生き甲斐なき命を存へ、勇者の義を磨く、磨くと思ひしは、皆天道に背く悪人の方人」とある。これが何だか信じられない。

確かに清盛とか忠盛あたりは悪どいことをしたかもしれないけど、景清が位牌を回向していた小松殿は平家の善の部分の象徴だし、その清濁を合わせ飲んだ上で「いま日本にて君がため、花一本水一滴、供養仕る者もなく成り果てし、せめて景清は生き残ったる身の本懐」とか言ってるのかと思ったのに…。大体、現代の日本だって市場シェアNo.1の会社がいくら奢り昂ぶってたって、だからといってNo.2の会社の会社は実は清く正しい会社なのでNo.2に甘んじているのだなどと思うなんてことは有り得ない。どんな集団だって良い面と悪い面の両方があるのだ。

これについて、パンフレットに天理大学の大橋正叔教授が、「(元になっている浄瑠璃の)五段目で景清は、糸滝の行く末を見届け、頼朝に帰服することは出来ぬと腹掻き切って平家の武士として義を立てて果てる」と書かれている。とすると、ここはひょっとして、景清は土屋軍内や天野四郎が隠し目付だということを見破った上で、糸滝を助けるために大芝居を打ったという筋立てだったりして。その方がずっと浄瑠璃っぽい感じがする。そもそも、鎌倉武士が日向に行っていくらジモティのマネをしたって、そんな付け焼刃な変装は簡単に見破られるに違いない。景清だって目が見えずに声だけで判断しないといけないのだから、却って鎌倉武士のアクセントを聞き分けて、最初っから隠れ目付だと当たりをつけていたって全然おかしくない。

土屋軍内と天野四郎といえば、里人っぽい地味な服装の下に袴が見えるのは不思議な演出。要するに隠し目付の腹を割っているということだと思うけど、いきなり腹を割られても初見では分からないので、多分花菱屋のさらに前の段に何かあるんだろう。それから私が謎だと思っている景清の述懐の時、この述懐は景清の人生の中でも一二を争う重要な局面であると思うのに、二人は全然聞いちゃーいなくて、後ろを向いてお召し替えの真っ最中…というのも、よく分からない演出。見顕しをするためにワザワザ舞台上で着替えるというのは分かるけど、本来一番盛り上がっているべきところで二人してお召し替えってゆーのは如何なものか。そうだ、きっと2月はついお召し替えの方が気になって、肝心の景清の変節のところを聞き漏らしていたに違いない(?)。

それからもう一つ、今回も分からなかったのが、最後に小松殿の位牌を海に落とすところ。2月は最初に観たときは放り投げて衝撃を受けたが、その後は、酔って思わず落としてしまうという風に見えた。その後、確かTVで玉男さんが位牌に一礼して海に落とすという型をやっているのを観て衝撃を受け、更に今回は、玉女さんは玉男さんと同じように、海に自分の意思で落とした。ただ、思わず落としてしまうという型も確かにあるようで、パンフレットの高木浩志さんの解説には「景清は偶然を装い重盛の位牌を海に落し、過去と決別」と書いていらっしゃる。まあ、どっちにしても過去との決別ということは何となく分かるが、何故海に落とすのかは私にはよく分からない。海と言えば、建礼門院が後に『平家物語』の「潅頂巻」の「六道之沙汰」で「浪の上にて日を暮らし、船の内にて夜をあかし、みつきものもなかりしかば、供御を備ふる人もなし。たま/\供御はそなへんとすれ共、水なければまゐらず。大海にうかぶといへども、うしほなればのむ事もなし。是又餓鬼道の苦とこそおぼえさぶらひしか」と語った、その海なのだ。私だったら、絶対に陸地の上に小さな祠でも作ってそこに祀ってあげたい。たとえ翌日、猪か何かに荒らされるとしても。それとも、甥に当たる安徳天皇が入水したからだろうか。それなら少しは分からないでもないけど。

というわけで、見れば見るほどわからない部分が出てくるけど面白い、不思議な浄瑠璃なのでした。パンフレットの解説やエッセイを読む限り、おそらく、そのわからない部分の大半は前後の段の内容を知っていれば意味が分かるところのようだ。ミドリというのはそういうものだと言ってしまえばそれまでだけど、時間があれば、それぞれの不可解な部分が他の段とつながっているのかいないのか、調べてみたいなあと思う。

近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)
 四条河原の段、堀川猿廻しの段

なかなか世話物は好きになれず。世話物の方がより人形浄瑠璃の真髄を表している気がするので、多分、世話物の良さが良く分からない私は人形浄瑠璃の良い観客じゃないのだろう。

最後の猿回しのところのツレ弾きは圧巻。もちろん寛治師匠が素晴らしいのは言わずもがなだけど、何といっても寛太郎くん。子供の時からお稽古されているのだから、絶対にこのくらいの実力はお持ちのことと、かねがねおばさんは思っておりました。しかし、となるとこんだけ実力があるなら、日頃のツレ弾きも、もうちょっとテコ入れほしいなあ…と密かに思ってしまったことでした。


◆第2部
一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
 陣門の段、須磨浦の段、組討の段、熊谷桜の段、熊谷陣屋の段

以前、歌舞伎で確か今回と同様の「陣門」、「須磨浦」「組討」、「熊谷桜」、「熊谷陣屋」という流れを観たことがあった(その時は籐十郎丈の敦盛実ハ小次郎で、十六才を全く違和感無く演じる籐十郎丈に舌を巻いたのでした)。そのような訳で、大体話は把握していると思っていたのに、実際に観たらあまりに強烈な筋立に全く消化不良で、感動するというよりは、観終わってからもずっと考えてしまった。

特に小次郎を打った熊谷が、どんな心情なのか、想像すらつかない。もちろん、他にも、寺小屋の松王丸とかすし屋の権太と弥左衛門とか妹背山の定高と大半事とか、自分の子供の命を自らが奪わなければならない浄瑠璃の登場人物はいる。しかし、例えば松王丸は自分で手を下すわけではないし、すし屋の権太は妻と子供を身代わりに差し出すことで弥左衛門に認められたかったのだし、権太を刺した弥左衛門は最後に権太と和解したし、雛鳥と久我之助は死ぬことによって二人の思いが成就するという救いがある。ところが、熊谷と小次郎の場合は、彼らには何の救いも用意されていない。ただただ熊谷が敦盛の身代わりとして小次郎の首を切らなければならない状況設定だけが、積み重なっていくのだ。

まず、無冠の太夫敦盛はこの浄瑠璃の中では後白河院の御落胤とはっきり設定されており、天皇になる可能性も残された人であるから、この合戦の犠牲にする訳にはいかない。次にその敦盛の母は、その昔、後白河院の元で不義を働いたかどで投獄の憂き目に合うことになる熊谷と相模を逃す手はずを整えた人であり、その人の恩に報いるにはこの状況を置いて他ない。義経は恐らく熊谷の事情を知っていて、若木桜に「一枝を伐らば一指を剪れ」という表向きの桜を守る命令の裏に謎かけをした高札を立て掛け、熊谷に須磨に行くよう命じる。それでも熊谷は一旦、敦盛の身代わりとなっている小次郎を逃そうとするが、「こゝを助かり行く先にて下司下郎の手にかゝり、死恥を見せんより早く御身が手にかけて、人の疑ひはらさせよ」という小次郎の言葉に促され、熊谷は、小次郎の首を切らざるを得ない状況に追い込まれてしまう。

私はこのような状況に陥ったことはもちろん無いし、子供だっていないので、この後の熊谷の気持ちは共感するどころか想像すらつかない。ひょっとしたら、このような極限の状況を経験したら、精神に異常をきたしたっておかしくないのではないかもしれない。それなのに、「陣屋」の熊谷は、相模が小次郎のことを心配すると、「堅固を尋ぬる未練な性根。もし討ち死にしたら何とする」などと相模の様子を探ったり、藤の方に<敦盛>の最期の様子を語って聞かせたり、鎧の下に墨染めの袈裟を着ていたりと落ち着き払っているように見えて、観ている私は何だか取り残されたような気分になり、どう理解すればよいのだろうとずっと考えてしまった。

で、観終わって数日、頭のすみにひっかかったままだったが、ふと思い至ったのは、「熊谷陣屋」は並木宗輔の絶筆であるということだ。病におかされ自分の死を覚悟した宗輔は、自分の気持ちを熊谷に託したのではないか。そうと考えると、私としては熊谷の気持ちを少しだけ理解できるということに気がついた。

この物語の核心となる、熊谷が小次郎を討たざるを得ない状況に追い込まれるというのは、死に至る病に侵され、自分が一番大切にしている断ち切り難いものと今生の別れをしなければならないという宗輔の状況が二重写しになっているのではないだろうか。私は宗輔の生涯についてはよく知らないので、彼にとって十六才の小次郎を通して心の奥底で表現したかったのは何なのか、断ち切り難いものというのが何なのか ― 例えばこれからもっともっと繁栄していくと信じていたであろう人形浄瑠璃なのか、まだまだ書きたいものが山ほどある狂言作者としての自分なのか、実際に十六に近い年の子供がいてその子供なのか ― 全く分からないけれども、避け難いそういうものとの別れを描いた部分があったのではないだろうか。

そうだとすると、浄瑠璃本文通りの解釈とは全く別の観点から、いろいろと了解出来そうなことがある。

まず、敦盛の身代わりが小次郎だった訳がよく分かる気がする。ただ単によくある「身代わり」と「首実験」というトリックを使ったということだけでなく、宗輔が自分を仮託した熊谷にとって、身を切られるような思いで別れなければならない人は、どうしても血縁でなければならなかったのではないだろうか。敦盛は所詮赤の他人で、身を切るような思いを表現するには不十分なのだ。そして、熊谷の子供であるということは、きっと、その別れ難いものというのは、宗輔が大事に育んできた、正に「つぼみの花」で、これから絢爛豪華に咲き誇るものと思ってきたものだったのではないだろうか。

そして、「一枝を伐らば一指を剪るべし。花によそへし制札の面。察し申して討ったるこの首。御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」と義経に迫る熊谷は、まるで宗輔が死に臨んで挑んだ最後の大仕事の是非を神仏に問う心の叫びのようだ。その後の弥陀六の小松殿の遺志を受けて施主の名の知れぬ石塔を次々と立てたという述懐も、諦めようとしても諦めきれない宗輔の無念さや死ぬという運命への怒りの表れのような気がする。また、相模の嘆きは、どのような状況でも理性を捨てまいとする熊谷だけでは表現しきれない宗輔の嘆きや悲嘆を背後に背負っているのではないだろうか。

このような見方をするとして、もしこの浄瑠璃の中に救いを求めるならば、まず一つは小次郎の人間性にあるような気がする。「しとやか」で「玉のような御粧ひ」の小次郎は、首を切れずに苦悩する熊谷に、自ら「早首討って」回向せよと促すのだ。もし宗輔が小次郎に人形浄瑠璃狂言作者としての自分を仮託していたとするならば、宗輔自身はそのようなものと今生の別れをすることで身を切られるような思いをしていても、心の奥底では小次郎に仮託したものは、玉のように美しく、死後に後悔を残すようなものではないと分かっていたのではないだろうか。

それから、義経が弥陀六に敦盛の入った鎧櫃を渡し、後を託したことも象徴的であるように思える。どうも「陣門」より前の段には敦盛自身が出てくるようだけれども、「陣門」以降、生き残っているのは敦盛の方なのに、彼ははっきりとした形では登場しない。敦盛は「空(うつ)ろ」な存在なのだ。義経が弥陀六に敦盛を託したように、宗輔もまだ見ぬ未来の人形浄瑠璃を支える人々や狂言作者に、小次郎同様かそれ以上に美しくなる可能性を秘めたまっさらな<敦盛>を自分の遺志として託し、自分は浄土に赴く旅に出ることにしたのではないかという気がした。

まだまだ理解できない部分は沢山あるけれども、そういう風に考えてみると、この「一谷嫩軍記」が少しは理解できるような気がした。とりあえず、三大名作に劣らない名作だということはよーく分かりました。


伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)
 八百屋内の段、火の見櫓の段

「一谷嫩軍記」が重かったので、またドラマを見せられるよりは、景事などでさっぱりと追い出してもらいたかったかも。火の見櫓の段はお七がとても色気があって、さすが簑助師匠門下の清十郎さんなのでした。背景でお七の家のすぐ側に門があるけど、これはお芝居のウソかと思ったら、実際、お七の家は今の本郷にあって、お江戸の門は本郷三丁目辺りにあるらしく、あながちウソとも言えないよう。ところで火の見櫓の段は半鐘を鳴らすだけだけど、火事の話はこの浄瑠璃の中には無いんでしょうか。そういえば、歌舞伎で刑場まで引っ立てられていく場面を観た覚えがある気がするけど、罪状は思い出せない…。

書割の黒塀と火の見櫓はもっと黒い方がお七が映えたのではないでしょうか。