サントリー美術館 美しきアジアの玉手箱(その2)

美しきアジアの玉手箱
シアトル美術館所蔵 日本東洋美術名品展
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/09vol04/index.html

すでに一度、観に行っているのであるが、鹿下絵和歌巻が二回の展示替えで三期に分割して全て展示されることになっていて、二回目の展示が明日で終わってしまうので慌てて観に行った。出掛ける迄は、この暑い中行かねばならないかと思うとまるで苦しい修行のような気さえしていたが、結局、出展作品リストをろくろく観ていなかった私には思わぬ発掘物があって、すぐに機嫌を直してしまった。げんきんなものである。


山水図(尾形光琳、二曲一隻、江戸時代(18世紀初期)、シアトル美術館)

これが私にとってのお宝。4F展示室の一番最後を飾る烏図屏風の対面にさり気なく置いてある屏風図。金地に墨で岩山と家、遠景にぼんやりと山並が描いてある。

光琳は、江戸に出てきたものの、狩野派好みの武家から狩野派風の草花やら何やら優しげな絵ばかり描かされ不満が募っていた時代、正反対の大胆な筆致の雪舟水墨画を熱心に習作していた。その経験が活かされた作だという。光琳水墨画特有の、自由で勢いのある二重の曲線が何本も引かれている。

また、雪舟の活躍した室町時代に流行った南宋の絵、院体画では、対角線構図法といって、画面の右上から左下に対角線を引いたその右下の範囲内に水墨画を描くという構図法がポピュラーだったそうだが、光琳の絵もその対角線構図法を意識した構図となっており、成程、雪舟を勉強した甲斐があったね、という感じなのだ。

ちなみに、この山水画はいつ頃に描かれた絵なのだろうか。署名は「法橋光琳」となっており光琳が法橋となったのは、元禄14年(1701年)、44歳の頃。また、「道宗」という朱文印は宝永元年(1704年)以降に使われた印だという。さらに、雪舟の絵を毎日五、六幅づつ模写していたのは宝永五年(1708年)頃ということなので、光琳がこの絵を描いたのは、宝永五年か六年以降、50歳代以降の時ということになるのだろうか。


どーでもいいことだけど、Wikipedia の「宝永」のページを観ていたら、宝永4年11月に富士山が大噴火して江戸にも灰が降っているのですね。江戸にいた光琳の気分を余計にくらーくするのに一役買っていたりして…。


なお、肝心の光悦&宗達コンビの鹿下絵和歌巻は、山種美術館西行の「鴫立つ沢」のやつと五島美術館のとMOA美術館のもの。やっぱりさすが鹿の絵の良い部分をゲットしてますね。