幸若舞の「敦盛」

岩波書店新日本古典文学大系59に「舞の本」というのがある。これは何なのだろうと以前から不思議だったのだが、国立能楽堂の今月のパンフレットの村瀬和子さんのエッセイによれば幸若舞の詞章を集めたものらしい。幸若舞の「敦盛」も残っているということなので、早速確認してみた。

まず、「舞の本」に関して、新日本古典文学大系の解説によれば、

舞の本は、室町後期から江戸初期まで流行した幸若舞(こうわかまい、曲舞:くせまい)という中世芸能の語り台本を、読み物用に転用したものの称である。幸若舞は、能、平曲と並んで中世庶民の耳目を楽しませた芸能であるが、「平曲」という呼称が江戸期以降のもので、中世では「平家」「平語」と称されていたように、幸若舞も中世では曲舞と称されていた。

ということだそうである。

ちなみに同「舞の本」に納められている曲目は下記の通り:

入鹿、大織冠、百合若大臣、信田、満仲、息吹、夢合せ、馬揃、浜出、築島、硫黄が島、文学、木曾願書、敦盛、那須与一、影清、伏見常葉、笛の巻、未来記、烏帽子折、腰越、堀川夜討、四国落、富樫、笈捜、八島、清重、高館、元服曾我、和田酒盛、小袖曾我、剣賛嘆、夜討曾我、十番切、新曲

ぜんぜん想像もつかないものもあれば、平家物語からとられたと思われるものや、謡曲と共通してそうに思えるものがある。たとえば「硫黄が島」などは、「これは絶対、俊寛だね」と思って読んでみると、果たしてかの三人が硫黄島に流されて、二人だけが赦免されるとも知らずに硫黄島の三人が硫黄島に勧請した熊野神社で帰洛の祝詞を奉納するところで終わっていた。そっからがおもしろいのに!ほかに「富樫」は謡曲「安宅」の類曲、「笈捜」は「富樫」の続編なのだそうだ(富樫が「安宅」の後どうなったかの話かと思ったら、義経一行のその後のお話のよう)。


で、本題の幸若舞の「敦盛」だが、お能の間狂言平家物語に書かれていないことを語っていた部分は大体一致しているようだ。

たとえば、一度は御座船に乗ろうとした敦盛が笛を取りに館に戻った下りは

御一門と同(おなじく)、主上の御共を召され、浜に下らせ給ひしが、御運の末の悲しさは、漢竹の横笛を大裡(だいり)に忘れさせ給ひ、若上臈の悲しさは、捨てても御出であるならば、さまでの事のあるまじきを、且うは、この笛を忘れたらんずる事を、一門の名折りと思し召し、取りに返らせ給ひて、かなたこなたの時刻にはや御一門の御座船を、遙かの沖へ押し出す。

となっている。

また敦盛の名乗りのところは、一度は名乗ることを拒否するが、熊谷の名を名乗っていただければ「後世を弔ひ申すべし」という言葉に、

名乗らじものとは思へ共、後世を問はんず嬉しさに、さらば名乗て聞かすべし。我をば誰とか思ふらん。門脇の経盛の三男に、未だ無冠は仮名にて、大夫敦盛、生年は十六歳。軍(いくさ)は是が始めなり。さのみに物な尋ねそよ。はや首取れや、熊谷よ。

という形で名乗っている。


さらに、幸若舞の「敦盛」には敦盛を討った後の熊谷の後日談まであった。熊谷は敦盛を討った勧賞として武蔵国の長井の庄が与えられるが、熊谷は返事もせず「人となり人とならばやとぞ思ふさらずはつゐに墨染めの袖」と詠じて、小船一艘拵え、敦盛の回向を約した熊谷の手紙とともに敦盛の亡骸を八島の平家の許へ送った。敦盛の遺骸を見た経盛をはじめとする平家の人々は大いに嘆いた。また、その後、熊谷は発心し(なーんだ、すぐに出家したのではなかったのだった)、法然上人の許で出家し蓮生房と名乗るようになった。ある日、「高野山に参らばや」と思って、上人に暇をこい、高野山の別所、蓮華谷の傍らに知識院(後の熊谷寺(持宝院))に庵室を結び、八十三の大往生を遂げたとのことだった。


というわけで、恐らくフィクション交じりながら、熊谷の大往生まで見届けることができた。今後は安心して「熊谷陣屋」のラストが観られるというものです。