内子座 内子座文楽 第14回公演

内子座文楽 第14回公演
平成22年(2010年)8月21日(土曜日) ・ 22日(日曜日)
【午前の部】 10時00分
【午後の部】 14時00分
鶊山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ)
中将姫雪責の段
桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)
http://www.town.uchiko.ehime.jp/site/bunraku/naiyou.html

松山空港から内子駅までのバスと電車の乗り継ぎぐらいしか調べずに飛行機に飛び乗ったけれども、とても楽しい旅でした。

とにかく内子の町はとても素敵だった。昔の町並みを保存してあるので、そのあたりの家々は、一軒一軒とても可愛いらしい。また、山の方にある、小さくて結構古そうな高昌寺というお寺には、日本一の規模という涅槃仏像や足をさわりながら願い事をすると願いが叶うという菩薩像(確か)があったり、町の大通りにある小さな八幡神社には、なかなか良い感じの奉納絵馬があったりする(合格祈願等のお願い事を書いて吊るす絵馬ではなく、社殿の鴨居の上に飾ってある武者絵や馬等の絵が描かれている板絵の方です。ここにある絵馬が何の絵かは時間が無かったので検証できず、残念)。そんな風に、古いものを探してそぞろ歩くだけでも、大変楽しいのでした。

内子座自体も大正時代の古い建物で、まるで江戸時代の芝居小屋を描いた錦絵の中に入り込んで芝居を観ているようだった。内子座が大正時代に建てられた時は、繁栄した町のシンボルとして建てられたのかもしれないけど、今となっては、昔の風情を残す建物となっている。内子座については、地元の方々が、「四国には文楽内子座と歌舞伎の金丸座がある」、「内子座では人間国宝が出演する」、「嶋大夫は松山出身である」というようなことをちょっと誇らしげに仰っていて、聞いた私も何だかうれしくなってしまった。多分、文楽座の方々も、このような地元の人々の内子座への思いを汲んで、豪華な座組と内子座だけの狂言立てでやっているのかも。いいなあ。

その他にも、大江健三郎は内子出身だとか、アサヒビールサッポロビールの前身、日本ビール(大日本麦酒株式会社)の創業者は内子出身だとか、その創業者である高橋龍太郎の生家、高橋邸は信長の時代からある屋敷だとか(その当時のものは土間ぐらいだそうだけども)、ほかにも忘れてしまったけど色々ふるさと自慢のネタがあるらしく、内子町は、ああ見えて実はかなりの実力派。最初、内子座の場所も知らずに演目と配役だけ見てチケットを手配し、後日、陸路だと往路も復路もその日のうちに目的地に到着するのは不可能と知って卒倒しそうになったが、こんなところに、こんな素敵な町があったとは。

という訳で、公演を観ないで帰っても後悔なし、と思ってしまうくらい町歩きを堪能したのですが、もちろん、内子座文楽の公演も大変楽しかったのでした。


鶊山姫捨松 中将姫雪責の段

文雀師匠の中将姫は、もうこれを観に内子まで来たといっても過言ではないので、観ることが出来て大満足でした。それから岩根御前(玉也さん)は、前に観たときは武闘派的(?)というイメージだったのに、今回は、右大臣の妻という高い身分の女性らしい物腰で、姫に対するいじめも自分の無意識にある何かに突き動かされていじめてしまうという様子で、この人にもきっと本来は良心というものがあり、何か事情があってこのように姫をいじめているのかもしれないと思わせるものがあった。

この段のストーリーとなる、中将姫の継子いじめのエピソードは、中央公論社の「日本絵巻大成24 当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起」にある解説によれば、地元の奈良に伝わる民間伝承に基づいているらしい。元々の当麻寺の創立縁起には中将姫の話は無かったようなのだが*1、奈良の民間伝承の「中将姫には入内の話があったが宮廷での交遊を望まず、出家を志す」という中将姫伝説が鎌倉時代当麻寺に結びつき、さらに室町時代以降、継子のいじめ話に発展したようだ。イマイチ趣味の良いお話ではないけど、どんないじめにも耐えてその純粋さを失わない中将姫というのは、中将姫の神聖性に対する庶民的な理解なのかもしれない。また、この話は浄土教勧進聖や説教師によって広められたそうで、今、私達が考えているよりポピュラーな話のひとつだった可能性もありそう。

また、お能には、中将姫の説話を元にした「雲雀山」という曲がある(私自身は未見)。そちらの方では、雲雀山で無事、父と娘は対面するという話になっているようで、この段は、敢えてお能からの影響を考えてみるば、いわば「雲雀山」の前に起こったことのお話という位置づけのようだ。…ふむ、実はこの「雲雀山」は、一説には世阿弥作、ということになっていて、もしそうなら、継子いじめの話は世阿弥が生きていた室町時代には既に知れ渡っていた話だったということなのかもしれない。世阿弥は幼少の頃は、興福寺の一乗院というところで稚児をしていたので、このような南都の古老の伝承を聞き知っていたのだろうか。とにかくこの当麻曼荼羅当麻寺の縁起と中将姫説話というのは、あざなえる縄の如く複雑に発展・流布したみたいで、調べてみると面白そう。

それから、関係ないけど、中将姫は(継子いじめ伝説では)、最初、継母に葛城山地獄谷に捨てられたり、継子いじめの難を逃れるためにひばり山に行ったり、最後は当麻寺二上山に登ったり、と、当時の右大臣の娘というほとんど最高位の貴族の姫にしては山によく登る人のよう。実はここ数年流行の「山ガール」の始祖は中将姫だったりして(?)。


床は前が千歳さんと清志郎さんで、切が嶋師匠と清友さん。嶋師匠が、さすが地元での公演で、大迫力でした。清友さんの三味線もいつもは嶋師匠を立てて陰に回られているという印象がありましたが、今回は迫力があって面白かったです。そういえば清志郎さんの三味線もメリハリがあったし(ま、いつもといえばいつもだけど)、そもそも時代物だし、この段の三味線はそのように弾かれるものなのでしょうか。


桂川連理柵 帯屋の段

相変わらず、前半は面白いものの後半は理解しにくいお話。ただ、発見もあった。

たとえば、前半、舞台面を観てたら、人形の立ち位置が、まさに帯屋の家族関係を象徴するような立ち位置になっていて、大変面白く思った。まず、母おとせ(勘壽さん)は舞台中央に居て、実質、帯屋を牛耳っている立場を象徴している。親繁斎(玉輝さん)は、確か上手(かみて)の方にいたような気がする。もしそうであれば、おとせは繁斎のことは上位者に思っていて、一応は意見されれば言うことを聞く、というようなところだろうか。それから女房お絹(和生さん)はおとせから見て下手(しもて)側、それから家長である肝心の長右衛門(勘十郎さん)は一番下手。立つ瀬もない。そして、弟儀兵衛(簑二郎さん)は、家体の外で、狂言回しの役にぴったり。もし私が学生だったらこれらの登場人物の立ち位置の分析で夏休みの宿題のレポートが一本書けそう。江戸時代の狂言作者達は、これを直感とセンスだけでやってるんだから、すごい。

また、後半、咲師匠&勘十郎さんの長右衛門は、状況に流され罪を重ねてしまった自分を激しく悔いている人で、「共感はしがたいけど、言いたいことは分かった」といいたくなる迫力があった。しかし、長右衛門さん、そこまでの自責の念や責任感があるなら、やっぱりそのもっと前の後戻りが出きる段階でその責任感を発揮して欲しかった。

そして、結局、お絹はどうなっちゃうのだろう。お絹は長右衛門のことを大事に思って、彼女の出来ることは全てしたのに、長右衛門には届かなかったのだ。長右衛門は、お絹に「堪忍してたも」などと言うけれど、お半ちゃん(清十郎さん)が身を投げようと桂川に行ったと知ると、一五年以上前、自分が芸子の岸野と心中しようとして彼女一人を死なせた過去を思い出し、そのこととお半ちゃんのことを重ね合わせて、思わず追いかけようとする。このとき、長右衛門の頭には岸野とお半ちゃんだけがいて、お絹の存在なんかすっかり忘れ去られているのだ。いや、お半ちゃんのことだって、岸野の生まれ変わりとしか思っていないかも。そう考えると、長右衛門という人は、実の親もなく、岸野という芸妓を死なせたという重い咎を負い、同情の余地がなくはないけど、結果的には自分の立場からしか考えずに身近にいる長右衛門を本当に思っている人達を無意識に傷つけている人とも思われ、「言いたいことは分かった」けど、やっぱりイマイチ共感はしかねるなー。


床は前が呂勢さん&清治師匠。呂勢さんは相変わらずの大活躍。とどまるところを知らず。清治師匠は、パンフレットのインタビューにあるとおり、しどころのない三味線だったけど、きっと人間国宝内子座で実演したことが大事なのだ。9月の東京公演は、このお二人は「良弁杉の由来」の桜宮物狂いの段。私は未見だけど、文雀師匠の渚の方だし、豊澤團平作曲なので素敵な旋律がついていそうだし、今からとても楽しみ。

切は、咲師匠&燕三さん。迫力もあったし、大変おもしろかったです。


そんなこんなで、楽しむだけ楽しんだ、内子座への旅でした。おしまい。

*1:本によっては「当麻寺は横佩豊成の娘が発願」とされているけれども、「横佩豊成の娘」=「中将姫」ということではなかったようだ。