杉本文楽再考

杉本文楽の第一弾、『曽根崎心中』は、今から思うと衝撃的だった。


暗転した舞台に、おもむろにスピーカーから読経が流れたかと思うと、清治師匠の独奏が始まったり(ファンだからいいけど)、早口すぎて聴き取りに難儀する超高速道行「観音廻り」や、エルメスのスカーフで誂えた着物を着た一人遣いのお初ちゃん、束芋さんとのコラボ…と、文楽の文法がことごとく破られていた舞台だった。文楽好きからみれば、「破壊」とすら言えるくらいのものだった。正直、文楽(とその歴史を作ってきた先人達)に対する愛やリスペクトを感じられない『曾根崎心中』という気もした。

それでも、徹底的に大道具や小道具を排除したミニマルで暗い舞台に浮かぶ、お初と徳兵衛を観ていると、私にとって愛すべき文楽の細々とした要素を削りに削り、杉本氏の強い個性に塗り込められたその先にも、文楽らしさが残っていて、というより、かえって文楽のエッセンスが詰まっていて、文楽の美しさや愛おしさは、ちょっとやそっとの破壊的行為ではびくともしないものなんだと感じた。多分、これは技芸員さん達が、このような舞台でもベストを尽くした結果なのだろうとも思う。


今回の杉本文楽女殺油地獄』は、第一弾に比べると、ずいぶんと「文楽らしい」ものだった。口上人形は文楽でこそ、新作の「三谷文楽」ぐらいしか思い浮かばないけど、地方の人形浄瑠璃ではよく見かけるものだし、素浄瑠璃、両床などの演出は全て文楽にあるもの。あえて言えば、手摺が無かったぐらいだけど、それだって様々な事情で、そういう舞台もある。したがって、私のような文楽ファンからみると、舞台演出上の驚きは特になく、むしろ豊嶋屋の段のみを素浄瑠璃と人形入りに分割にしたことで、物語の持つ求心力が弱まってしまったように感じてしまった。『女殺油地獄』の殺しの場面は確かに一見の価値はあるが、それは物語の最高潮の場面にあの凄惨な殺しの場面があることが大きく作用しているように思う。殺しの場面だけに焦点を当てるなら、別のやり方があったのではないかというような気もする。例えば、渡邉肇氏の映像作品のように。徳兵衛がまさにお初の喉に脇差しを刺す場面を切り取り、浄瑠璃ではない別の音楽をつけて、徳兵衛の視点、お初の視点から見た心中の場面をスローモーションで再生したような。


でも、私のような既存の文楽ファンの感想は、実際問題、あまり関係ないのだろうと思う。なぜなら、文楽にとって「杉本文楽」の意義は「杉本」と「文楽」のうち、文楽に反応する層ではなく、「杉本」に反応する層であるはずだから。そういう人達に少しでも文楽を知って貰い、触れて貰い、意味が分からずとも、文楽の良さを感じて貰うことだと思う。私は文楽ファンだから、文楽を知らない人があの舞台を観たらどう感じるか、想像がつかないけれども、何でも良いから、少しでも文楽の良さを少しでも感じてもらえたらと思う。


杉本文楽は、文楽にとってどういう位置付けのものだったのだろう。

文楽の新作と聞いて私が思い出すのは、以下のようなものだ。
1. 文楽の芸術性という側面からアプローチした「杉本文楽
2. 演劇性という側面からのアプローチの「三谷文楽」(日本を代表する劇作家の三谷幸喜作品)や「不破留寿之太夫」(シェークスピア作品の翻案)など
3. 音楽性という側面からアプローチした「ロック曽根崎心中」(曾根崎心中をロック・ミュージカル化したもの!)
4. 操作技術(テクノロジー)やコンテンツを載せるOS (Operation System)としての文楽人形という側面に注目したボーカロイドとの共演(観てないのですが、新作として意義があると思われるので、想像で定義しました。すみません)

このうち、比較的成功していると思われるのは、2の演劇性という側面からのアプローチだ(4は観たことがなく、私は語る資格が無いので、すみません)。しかしこの分野は、今年の夏休み公演で観た木下順二の「赤い陣羽織」や、2008年に観た北條秀司の「狐と笛吹き」などのをはじめとする屍が累々と山をなす分野でもある。


こうやって概観してみると、1.の芸術性という側面からのアプローチや3.の音楽的アプローチはまだ、深耕の可能性がある気がするし、下手に文楽の過去の作品に引きずられるよりは、もっと斬新なアプローチをとったものもアリな気がする。もっとも、そういうアートや音楽の分野のコラボ先を見つけるのが大変なのかもしれないけど。


私個人が観てみたいのは、文楽の王道的なアプローチの新作。文楽の新作というと、何故か新たな手法が取り入れられたりして、別にそれでもいいけど、文楽の魅力といえば、何といっても、緻密に構築された物語世界、義理と情の狭間で苦悩する主人公に自己犠牲を厭わない脇役、親子の情等々だと思う。それらの世界にどっぷりつかることが出来るような時代物など。例えば去年の大河の「真田丸」の文楽版みたいなもの。かつて『曾根崎心中』や『女殺油地獄』がヒットしたときは、歌舞伎での大ヒットが背景的要因としてあったと思うが、何か、そういった他の演劇分野でのコンテンツ上の連携などによって、文楽を観たことのない人たち巻き込みようなアプローチが出来るといいのに。


また、能楽における多田富雄氏の一連の新作能のようなアプローチも、文楽にあっても良いと思う。多田富雄氏は、能楽の「死者の鎮魂」「死者と生きている者の対話」という機能を以て、現代社会において解決されていない諸問題、例えば、臓器移植(「無明の井」)、原爆(「一石仙人」、「原爆忌」、「長崎の聖母」)、脳死問題(「生死の川」)などをテーマとした作品を書いた。これらの作品は私はまだ観る機会に巡り会っていないけど、詞章や創作ノート(藤原書店多田富雄新作能全集』などに収録)を読む限り、能楽が今の時代に果たすべき役割があるとすれば、まさにこういった作品を作り上演することだろうという思いを強くするし、何より読み応えのある作品群だ。


文楽も、組織や社会の縛りと個人の情の狭間で苦悩する人々や親子の問題を描くことに長けているという特徴があり、この特徴を生かして、現代社会の問題を江戸時代の人々に仮託して描くことが出来るのではないかという気がする。


杉本文楽からはえらく話がそれてしまったけれど、杉本文楽を観て、そんなことを思った。