国立劇場小劇場 12月文楽公演

12月文楽公演
苅萱桑門筑紫いえづと(かるかやどうしんつくしのいえづと)
     守宮酒の段
     高野山の段
傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)
     新口村の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2012/1780.html


苅萱桑門筑紫いえづと(かるかやどうしんつくしのいえづと)  守宮酒の段  高野山の段

狂言には、お能の形式をそのまま移して、大まじめにアホらしい内容で、お能のパロディを演じるというパターンの曲がいくつかある(カラスに食べられてしまった蝉の亡霊が地獄での苦患の有様を語る「蝉」という狂言とか)。この『苅萱柴門筑紫いえづと』もその種の、大まじめにアホらしい内容を演じる浄瑠璃時代物のパロディなんじゃないかという気がしたが、ほんとのところはどうなのだろう??

いちおう、大まじめに理由を述べると、まず、第一に、『苅萱柴門筑紫いえづと』とかいう題名なのに、原典となるべき説経節の「苅萱道心」の話は、冒頭と、最後の方の「高野山の段」のあたりで申し訳程度に使われているだけで、肝心の真ん中は、ぜんぜん苅萱のお話とは関係ない、しかもアホらしいことが大まじめに展開される構成となっている。

説経節の「苅萱道心」自体は、私のおぼろげな記憶によれば、大変シリアスでお涙頂戴な話なのだが、この『苅萱柴門筑紫いえづと』は、「大変シリアスでお涙頂戴な話」とは言い難い。

今回の本公演で演じられる、説経節の『苅萱道心』とは全く関係ない筋の「守宮酒の段」は、真剣に演じられるのだけど、改めて考えると、出てくる登場人物や筋立は、まるで喜劇のよう。苅萱の加藤家の家宝、「夜明珠」を手に入れたい大内之助に対して、加藤家の家臣、監物太郎は、宝を手に入れたくば、年は二十、男に肌触れぬ女があれば玉を迎えに寄越すよう言う。ただし、その条件に適わない女が持てば、夜明珠はたちまち、光を失い石瓦のようになるというのだ。そこに名乗りを上げたのが、幼少の頃、家に伊勢両宮への生贄を意味する白羽の矢が立ち、それ以来不犯という、ゆうしでという娘。迎え撃つは、監物太郎の弟、「国一番の濡れ男その名も自然と女之助」という、とんでもない組み合わせ。ゆうしでは加藤家側の策略にまんまとかかって媚薬を飲まされ、女之助と共に一間に入れられてしまう。その後、ゆうしでの父、多々羅新洞左衛門が、催促に来ると、結局、夜明珠は、ゆうしでが持ったとたんに真っ黒の珠になってしまい、ゆうしでは、そのことを恥じて自害する。さすがに、この筋立ては江戸時代の人だって荒唐無稽だと感じたに違いないと思うが、ゆうしでが自害しようとして虫の息で、毒酒を飲む前から、女之助を思い染めていたいうゆうしでの告白が、ちょっとほろっとさせる展開になっている。

高野山の段」は、様々脱線した末に、やっと説経節の「苅萱道心」の筋に戻って、苅萱の息子、石童丸が高野山にいる父を尋ねるという場面。しかし、この石童丸と苅萱の出会いの場は、その前の石童丸と母の苦難の父探しの旅路が省かれているので、苅萱道心の話を知らずにこの場面だけ観て感動するというのも、ちょっと厳しいように思う。遠い曲(って文楽では言うのかな?)だと、内容以前に公演に載せにくい体裁であることが多く、さらに遠くなるという悪循環もあるのかもしれません。


配役はとても豪華で、そのパフォーマンスには感動しました。また、呂勢さんが先月の忠臣蔵に続いて千歳さんの代役も含め大活躍されていました。ただ、声がお疲れのようで低音が辛そでした。どうかご無事で公演を終えられるよう、お祈りしています。


傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく) 新口村の段

午前中からずっと劇場にいたら、体調も万全でなかったせいか、新口村まで来たら、集中力が途切れてしまった。残念無念。印象に残ったのは、玉也さんの孫右衛門。孫右衛門の複雑な心中が手にとるように分かる人形でした。最後は、傘をすぼめて泣くのではなくて、膝から崩れ落ちて着ていた羽織を頭から被って泣く型。こんな型もあるんですね。