国立劇場小劇場 12月文楽公演

大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)
    六波羅館の段、身替り音頭の段
恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)
    城木屋の段、鈴ヶ森の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2013/12112.html

大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)
    六波羅館の段、身替り音頭の段

以前、文字久さんと錦糸さんの復曲を素浄瑠璃で聴いた。素浄瑠璃で聴いた時に想像したことと違ったものを観るのも、復曲の楽しみ。たとえば、常盤駿河守貞というお殿様とその想い人、三位の局が贈答する品として灯籠が出てくるけど、吊灯籠だとは思ってなかった。また、常盤駿河守は、その吊灯篭に描かれている絵を一種の判じ絵のようにして、相手の意図するところを読み取ろうとするのだけど、私はよくあるように灯籠の火袋の和紙に絵が書いてあるのかと思ったら、吊灯篭の下にひらひらした足のような紙がついていて、そこに描いてあるのだった。私はこの手の灯籠は見たことがなく不思議な灯籠だなあと思ったけど、パンフレットを見ると絵尽くしにもそういう感じの絵があった。昔は今よりずっと色んな種類の灯籠があったんだろう。また、浴衣も贈答するのだけど、かつて読んだ時は気が付かなかったものの、実際に人形で観るとなんかだか不思議な感じ。浴衣を贈答するっていうのはどういうことなんだろう?駿河守は肌に付けるものを贈り合うことで親密な関係を望んでいるということ示したかったということだろうか。私自身は古典芸能や古美術を見るので何となく昔の生活に馴染みのあるような気分になりがちだけど、実際には普通に現代人的生活しか送っていないので、灯籠や浴衣が贈答品として当時の観客にどういう印象を与えたのか、そのニュアンスはさっぱり分からないことに気がついた。

それから常盤駿河守は、私の想像では『伊賀越道中双六』の誉田内記サマとかみたいな割にカッコいいタイプかと思いきや、『妹背山婦女庭訓』の蘇我入鹿や『祇園祭礼信仰記』の松永大膳風だったのでびっくり。なんだろう。天皇に敵対してるから、国崩し的悪役ってことなのかしらん。

あとは…。実は演目開始後しばらくして突如、原因不明の極度の眠気に襲われ、何故か終わったらスッキリ目が覚めてしてしまった。ああもったいない。ほかに覚えていることといえば、身替音頭の時になると急に夜になり、吊灯篭の中、花笠を被った帷子を着た子供達が踊っている様子が幻想的でキレイだったことぐらいだろうか…。また、斎藤太郎左衛門が自分の孫を若宮の身替りとして斬った後の悲嘆を語る部分で、錦糸さんの三味線が鬼気迫る勢いで拍手があがったことも覚えてる。すごかった…。

それから、最後に、永井右馬頭が、自分の孫を若宮の身替りにして首を刎ねた斎藤太郎左衛門に義理立てして、右馬頭が自分の子供の鶴千代と髻を切って出家をする場面がある。素浄瑠璃で聴いた時は、急な展開に感じられたが、人形付きで観れば一目瞭然なのが面白かった。浄瑠璃は詞章だけを読むとイマイチ理解しにくいことがあるが、人形が付くことを前提として切りつめた表現にしているということもあるのだろう。

それにしても、どうして浄瑠璃には親のために子供が身替りに死ぬという話がこんなに多いのだろう?子供の身替りのテーマは、まるで強迫観念のように、繰り返し繰り返し、様々な浄瑠璃の中で展開される。お能御伽草子に出てくる子供の受難といえば人さらいだけど、浄瑠璃で人さらいのお話は思い出せない。圧倒的に多いのは、時代物の中の身替りで、世話物の中にも無い気がする。身替りというくらいだから逆説的にかけがえの無さを表現しているのだろう。その哀切に心動かされるけれども、自分が江戸時代の人々と同じ感慨を抱けているとは思われない。江戸時代の人たちはそのテーマに何を見ていたのか、知りたいと思う。



恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)
城木屋の段

何よりも、お駒ちゃんのオトーサン城木屋庄兵衛が、今の人間の感覚からするとすごくヘンな人で、善人風だけど、諸悪の根源といっていいくらい。そのことがすごく印象的。

城木屋の一人娘お駒ちゃんと髪結の才三は、親を忍んでつき合っている仲。しかしそのお駒ちゃんに急遽縁談が持ち上がり、今日祝言というところから話が始まる。

お駒ちゃんに会いに来た才三は、そのことを知り、一度はお駒ちゃんをなじる(とゆーか、殴る蹴るの暴行で、この場面は正直、引いてしまう)。しかし、お駒ちゃんは無理矢理祝言を上げさせられるのだということを知り、お駒ちゃんをなだめる。

そこに現れるのが問題のお駒ちゃんのオトーサンの庄兵衛で、二人の仲を知っているオトーサンは、二人にこの祝婿入りを断りきれなかった苦しい胸の内を語る…のだが、その内容は、今の人間からすると、納得しかねる話。

曰く、オトーサンは若い頃は武士で、さる家に伺候していた。が、色と酒に身を持ち崩しお手討ちになるところを、その家で若旦那が生まれたため、奥様が命乞いし放免となった。その後、ふらふらしていたところ、この家の前の親旦那が目をかけ娘と祝言を上げさせてくれた。しかしこの前の大火事で丸焼けとなった。その上、五年前からの眼病も悪化し、進退窮まったところに、喜蔵という人が急に近づきになってお金を貸してくれるという。しかし、喜蔵はお駒ちゃんと祝言を上げさせるか、お金を返すか二つに一つとオトーサンに迫り、のっぴきならなくなったオトーサンは、親旦那の娘の奥さんを路頭に迷わす訳にはいかないので、お駒ちゃんを喜蔵にお嫁にやる方をとったと言うと、オトーサンは涙ぐむのだった。

今だったら、「はあ?」と言いたくなるような話だけど、江戸時代の人々にはどうも訴える話らしく、話を聞いていた才三はもらい泣きをし、あろうことかお駒ちゃんに「心の内は、ナ、ヨウ呑み込んでおります程に、マア何ぢやあらうとつい、あいと仰りませ」などと言って説得しようとするのだ。ありえん、才三。

で、お駒ちゃんがここで暴れてくれたらスカっとするけれども、残念ながら超健気なお駒ちゃんは、祝言をあげることを了承する。

その様子をみたオトーサンは、お駒ちゃんを慰め、一度祝言を上げさえすれば、あとは身持ちを思いっきり落とせばよいのだと指南する。たとえば、朝は昼ぐらいに起きて朝ご飯を食べ、夜は人を大勢呼んで夜遅くまでどんちゃん騒ぎをし、夫の言うことに口答えし、お小遣いは湯水のように使い、絶対、繕い物なんか間違ってもしちゃ駄目云々。一瞬、「夜遅くまでどんちゃん騒ぎ」以外は、意外にうらやましい生活…などと思っちゃうものの、そんなことお駒ちゃんに指南するくらいなら、まずオトーサンが、言を左右にして祝言をとりかわす約束をしないようにすればよかったじゃん!と言いたくなるような、都合の良いことを言うのだった。

この後は、聟となる喜蔵が出てきたりお駒ちゃんに執心の番頭・丈八が現れてチャリがかった話となり、話は楽しく進行する。千歳さん・富助師匠の床も楽しいし、簑二郎さんの丈八がとても面白い。客席が笑っている間も何ら話が解決するわけではなく、お駒ちゃんの夫殺しの末、有名な鈴ヶ森の段となる。


鈴ヶ森の段

「鈴ヶ森の段」を観て、『恋娘黄八丈』を2008年に観ていたことを思い出した。

冒頭、鈴ヶ森の刑場の柵の外に、お駒ちゃんのことを案じる両親が現れる。作者の作意としては、お駒ちゃんの悲劇を盛り上げることを目的として設定した場面なのだと思う。しかし、もうあのオトーサンがあーゆー人なので、オトーサンが、
「娘めが、云ひたい事もあるならば、聞いて迷ひが晴らしてやりたさ。お主の為とは云ひながら、花のやうな子を殺す、おれが心を推量しや。」
とか嘆いても、「オトーサン、他人事みたいなこといってトボケてるけど、誰のせいでお駒ちゃんがこんなことになったと思ってるのじゃ!」とか思ってしまう。それでもって、オトーサンはさらに、「阿弥陀如来様ばっかりを拝んでいたせいでこうなった。仏様を拝んでいたら利生があったものを」的なことを言うけど、どっちかっつーと、オトーサンの因果応報だから!

ああ、もし「鈴ヶ森の段」だけ観たらフツーに楽しめたかもしれないのに、恐るべし、「城木屋の段」のオトーサンの感動破壊力。私、このまま、しらーっとした気持ちで観終えるのかしらん。だいたい、江戸時代の人達はこの物語の一体どこに感動できたワケ?私には全く訳分からん…等と、舞台そっちのけで頭がぐるぐるしているうちに、お駒ちゃんが舞台中央に現れた。

するとなんということなのだろう。お駒ちゃんは自分の運命を呪うどころか、「何事も皆私が心でかヽる身の罪科、露いささかもお上へ対しお恨みはござりません」などと言い、見せしめの酷い刑罰ではなく死罪となったことに感謝の意さえ示すのだ。さらに「ご見物様、いずれも様」と見物人に対して呼びかけると、自分を見せしめとして自分と同じような罪を犯さないよう訴えるのだった。そして、お駒ちゃんは、両親と最期の対面ができたことを喜び、自分が死んだ後に才三が死んだ自分の浅ましい姿を見てふと愛想が尽きたらどうしようと不安に駆られる。

ここまで純粋なお駒ちゃんのクドキを聴いていたら、もうオトーサンのこととかどうでも良くなって、ただただお駒ちゃんが可哀想になってしまった。そうだ、きっと江戸時代の人達も、このしおらしいお駒ちゃんの純粋さに感動したに違いない。

で、もはやお駒ちゃんもこれまでよ、という場面で、才三郎が現れる。才三郎はホントは紛失の主家のお家の重宝である茶入れを取り戻そうとしている武士で、その茶入れの探索のために髪結に身をやつしていたのである。彼は間一髪で茶入れを手に入れ、その犯人である喜蔵と丈八を捕まえてお駒ちゃんの罪を晴らしに来たのだ。才三のナイスなタイミングでの出現で、無事、お駒ちゃんの命は救われることになったのでした。諸悪の根源だったお駒ちゃんのオトーサンがトボケたまんまで、胸のすくという形ではないけど、とりあえずの大団円で幕を閉じるのでした。


呂勢さん・藤蔵さんの床は二人のペアとしてはわたし基準では最高の演奏で、大満足でした。